第18話 神様、ラスボスになる
九月も中旬に入り、朝晩の空気には、ほんの少しだけ秋の気配が混じりはじめていた。とはいえ、昼間の日差しはまだ強い。
窓を開ければ、風が入ってくる。けれど、それは涼しいというより、夏の湿り気を少し薄めただけの風だった。
大学は始まっているし、バイトもある。
神様との同居生活は、神話というより、生活管理の問題だった。その中で、もっとも現実的なのが食事である。ここ数日、あかりと月読命の食事は、ほとんどコンビニ弁当と惣菜パンで構成されていた。
あかりのバイト先で買って帰るか、たまに貰う。早いし、楽だし、味も悪くない。
月読命も文句は言わない。
けれど。
「……さすがに、ちゃんとしたご飯が食べたい」
日曜日の午前、あかりは畳の上で小さくつぶやいた。
今日は大学もないし、バイトもない。久しぶりに、まともな生活へ立て直せる日だった。
あかりは、ちらりと月読命を見る。
神様に毎日コンビニ弁当と惣菜パンを食べさせている。
ーーもしかして、だいぶ罰当たりじゃない?
そのとき、テレビから、きらきらした野菜が山のように積まれている様子が映し出された。
『本日限りの特売です! 秋の味覚も続々入荷しております!』
明るすぎる声と一緒に、赤いトマト、緑のきゅうり、艶のある茄子、きのこ、梨、鮮魚、揚げたてのコロッケが次々に映る。
あかりは、ちゃぶ台の前に座り、ペットボトルのお茶を飲みながら、何となくそれを眺めていた。
その横で、月読命だけが、妙に真剣な顔をしていた。
「……今のは、何だ」
「スーパーだよ」
「すぅぱぁ」
月読命は、初めて神名を聞いたみたいな重さで、その言葉を繰り返した。
「食物を、あれほど一所に集めているのか」
「まあ、そうだね。 野菜も肉も魚も、お菓子もあるし」
「米もか」
「ある」
「酒もか」
「あるけど、そこ食いつく?」
月読命は黙った。
けれど、その目はテレビから離れなかった。
画面では、季節の特集として、夏野菜と秋の食材が同じ棚に並んでいる様子が映っていた。
月読命が、低く言う。
「人の世は、季節を棚に置くのか」
「言い方」
「たいそう大きな市だな」
「まあ、現代の市って言えば市かもね」
あかりは、嫌な予感がした。
「……ツク」
「何だ」
「行きたいの?」
「……」
「スーパー」
「……」
「目が、めちゃくちゃ行きたいって言ってる」
月読命は、ほんの少しだけ視線をそらした。しかし、すぐにあかりの目を見つめ直した。
あかりにはその目がうるうるしているように見えた。
「人の世を知る必要がある」
「行きたいんだね」
「見聞を広めるだけだ」
「行きたいんだね」
「……必要がある」
あかりは、しばらく月読命の様子を見続けた。
整いすぎた顔、うるうるした目、神様らしい理由づけ。何よりも、スーパーへ行きたいという圧が凄い。
「……分かった。......行こうか」
月読命の目が、わずかに輝いた。いや、確かに輝いた
「ただし!」
あかりは人差し指を立てた。
「変なこと言わない。 目立たない。 急に神様っぽいことしない。 勝手に酒売り場に吸い寄せられない」
「吸い寄せられはせぬ」
「そこだけ否定するんだ」
あかりは立ち上がり、買い物用のエコバッグを取った。
こうして、日曜日の午前に、あかりは、スーパーへ向かうことになった。
神様を連れて。
*
外に出ると、日差しは思ったより強かった。
夏ほど刺すようではない。けれど、歩いていると額にじわりと汗がにじむ。遠くで鳴く蝉の声は弱くなっていて、その代わりに植え込みの奥から小さな虫の声が混じっていた。
「秋っぽくなってきたけど、昼間はまだ暑いね」
「そうか」
「ツクは暑くないの?」
「特には」
「でしょうね」
月読命は、涼しい顔で歩いていて、あかりだけが、すでに汗ばんでいた。
スーパーへ最短で行くには、そのスーパーの真隣にある公園の中を通る必要がある。
しかし、公園の中を通ることにはリスクもあった。近所には顔見知りも多い。月読命の存在が広まるかもしれない。
それでも、あかりは涼しいスーパーの店内に早く入りたい気持ちを優先してしまった。
日曜日だからか、公園には子供たちがいた。小学生くらいの子が何人か、ボールを蹴ったり、走り回ったりしている。少し離れたところには、母親らしい女性たちが数人、買い物袋をベンチの上に置いて話し込んでいた。
ーーやば。知った顔が、いっぱいある。
あかりは、月読命のシャツの裾を軽く引いた。
「ツク、通るだけだからね」
「分かっている」
「本当に?」
「分かっている」
その瞬間、サッカーボールが転がってきた。
ころころ、と月読命の足元で止まる。
子供の一人が叫んだ。
「お兄さん、取ってー!」
月読命は足元のサッカーボールを見下ろし、それから子供を見た。
「我に命じるか」
「違う違う違う!」
あかりは即座に割って入った。
「命令じゃなくてお願い! ただのお願い!」
「お願い?」
月読命は少し考えてから、サッカーボールを子供の方へ軽く蹴り返した。
軽く蹴った、ように見えた。
ボールは物凄い勢いでまっすぐ飛んだかと思うと、子供の胸の前で、まるで勢いを失ったようにふわりと落ちた。
「すっげーー!!」
子供の目が輝いた。
「今のなに!?」
「めっちゃ取りやすかった!」
「なになにー!?」
「どうしたのー?」
「お兄さん、サッカーうまい人!?」
「さっかぁ」
「覚えなくていい」
あかりは小声で言ったけれど、もう遅かった。
子供たちが、わらわらと集まってくる。
「お兄さん、背たか!」
「なんか白い!」
「しゃべり方、変!」
「侍?」
「違う」
「忍者?」
「違う」
「じゃあ、ラスボス?」
月読命が止まった。
「らすぼすとは何だ」
子供の一人が胸を張る。
「最後に出てくる、一番強いやつ!」
月読命は、ほんの少し考えた。
「ならば、おおむね間違ってはいない」
「認めないで!」
あかりが叫んだ。
だが、子供たちはもう完全に盛り上がっていた。
「白いラスボスだ!」
「白ボス!」
「ラスボスしろ兄ちゃん!」
「ホワイトボス!」
「ホワイトボスはやめようね!? 缶コーヒーみたいになっちゃうから!」
あかりの声は、公園の元気に吸い込まれていった。
そのとき、少し小さい男の子が、月読命の服の裾を、ちょんちょん、と引っ張った。
「ねえ、白いラスボス、鬼ごっこできる?」
「鬼となれというのか」
「そう!」
「鬼を軽々しく扱うでない」
「遊びの鬼! 本物の鬼じゃない!」
あかりは自分で言ってから、何を説明しているのか分からなくなった。
「ねぇ、あかりお姉ちゃんもやろ!」
「え、私?」
「ラスボスの仲間でしょ!」
「その配役はちょっと雑! 囚われの姫か、女幹部にして!」
ーーいや、私やる気満々か!
断るつもりだった。スーパーに行くつもりだった。今日はちゃんとした料理を作るために、食材を買うつもりだった。
なのに。
ノリノリで子供たちと遊んでいた。
「十数えたら、つかまえに行くんだよ!」
「十か」
「そう! いーち、にーい……」
子供たちが走り出す。
月読命は真顔で立っている。
あかりは、なぜか一緒に走っていた。
「ちょっとだけだからね!」
叫びながら、あかりは公園の中を駆けた。
子供たちは速いし、元気が無限にあるけれど、あかりはすぐに息が上がった。
一方、月読命は歩いているように見えた。
そう見えた、のに……。
「えっ、ツク近っ!」
「歩いた」
「歩いてない! それは人間の歩き方じゃない!」
「白いラスボス、速い!」
「歩いてるのに速い!」
「やっぱラスボスだ!」
月読命は、子供たちに追いつきそうで追いつかない、絶妙な距離を保っている。それが本気を出していないというのは分かる。
分かるが、加減の仕方が神様だ。
「子供らに合わせている」
「ラスボス感ハンパないってば!!」
あかりがそう言うと、子供たちが大笑いした。
つられて、あかりも笑ってしまった。
最初は止めるつもりだったのに。気がついたら、走って、息を切らして、笑っていた。
*
次に始まったのは“だるまさんがころんだ”だった。
「白ボスもやって!」
「何をする遊びだ」
「動いたら負け!」
「動かぬことならできる」
「それ、強すぎない?」
子供たちが月読命に一生懸命ルールを教える姿は、見ていて微笑ましかった。だが、あかりが嫌な予感を覚えた時には、もう始まっていた。
「だーるーまーさーんーがーこーろーんーだ!」
子供が振り向く。
月読命は止まっていた。
次の瞬間。
「だーるーまーさーんーがーこーろーんーだ!」
振り向く。
月読命は、さっきより極端に近い。
「ワープした!」
「しておらぬ」
「した!」
「歩いた」
「絶対ワープ!」
「歩いた」
「歩き方がワープ!」
あかりはこらえきれずに吹き出した。
「ツク、だめ……真顔で否定するの、余計っ、おもしろっ……!」
「事実を述べている」
「それがもう、ぷっ……おもしろいの!」
子供たちは腹を抱えて笑っている。
月読命だけが、なぜ笑われているのか分からない顔をしていた。
その様子を、公園の端から母親たちが見ていた。いつの間にか、あかりと月読命のことが井戸端会議の議題に上がっていた。
「ねえ、あのお兄さん、誰?」
「あかりちゃんの彼氏?」
「すごい綺麗な顔してない?」
「分かる。 俳優さんみたい」
「でも、しゃべり方、時代劇っぽくない?」
「そこがまた……ねえ」
何が「ねえ」なのか。あかりは聞こえなかったことにした。
神様が、近所の公園で、子供にはラスボス扱いされ、母親たちには彼氏扱いされている。
状況がもうだいぶ手遅れで、あかりは深いため息をついた。
「……噂になりそう」
◇
しばらくして、あかりはベンチに座り込んだ。
「無理……ちょっと休憩……」
子供たちも、かなり汗をかいている。犬を連れていた子が、リードを持ったまま水筒を飲んでいた。
その小さな犬が、月読命の足元に近づいてきた。
犬は、月読命を見上げて、しっぽを振る。
「戌か」
「犬は知ってるんだ」
「知っている。 古く、縁がある」
「犬と古く縁がある神様って何?」
「昔のことだ」
「雑に神話っぽいこと言って逃げた」
月読命が犬の頭にそっと手を置くと、犬のしっぽが、ぶん、と揺れた。
さらに、ぶんぶんぶん、と揺れた。
「白いラスボス、犬も仲間にした!」
「動物も従えるんだ!」
「従えてはおらぬ」
月読命は真顔で言った。
公園の端では、数羽の鳥が地面を跳ねていた。こちらを見ているような気がする。
一歩近づき、子供たちの声に驚いたように、また一歩下がる。
近づきたそうにしているのに、子供たちの声と動きに押されて、それ以上は来ない。
「ねえ、あそこの鳥もこっち見てない?」
「来たがっている」
「なんで分かるの?」
「来ぬからだ」
「禅問答?」
あかりは首をかしげたが、月読命はそれ以上何も言わなかった。
風が吹いて、木の葉が少しだけ揺れる。残暑の中に、秋の気配がほんの少し混ざっていた。
あかりはその場にしゃがみ込んでペットボトルのお茶を飲み、月読命を見上げた。
子供たちと鬼ごっこで走り回り、だるまさんがころんだで明らかに人間離れした動きをしたはずなのに、月読命は最初とまったく同じ顔をしていた。
「ツクって、本当に汗かかないんだね」
「汗を流すほど、動いてはおらぬ」
「いや、めちゃくちゃ動いてたから」
「ラスボスは汗かかないんだよ!」
子供の一人が言った。
「最終形態だから!」
「最終形態とは何だ」
「覚えなくていいやつ!」
あかりが即答すると「お姉ちゃん、ラスボスに厳しいー!」と言いながら子供たちは笑った。
*
ようやく公園から解放されたころには、予定よりかなり時間が経っていた。
「白いラスボス、また来てね!」
「あかりお姉ちゃんも!」
「次は本気出してね!」
「私はそこそこ本気だったよ!」
あかりが手を振ると、子供たちもぶんぶん手を振り返した。
犬まで、しっぽを振っていた。
公園を出たあかりは、深く息を吐く。
「……スーパー行く前に、こんなに疲れることある?」
「なぜ疲れる」
「走ったから。 笑ったから。 あと、神様を公園デビューさせたから」
「公園でびゅう」
「覚えなくていいよ」
月読命は少し振り返ってから言った。
「子供らは、よく笑う」
「ツクが変だからね」
「我は変ではない」
「変だよ。 白いラスボスだし」
「……その名は、悪くない」
「気に入らないで」
あかりは笑いながら、汗ばんだTシャツの背中を指でつまんで、ぱたぱたと風を入れた。
スーパーの看板が見えた。いや、公園からすでに見えていたのに、やっと見えた、と感じているだけだ。
月読命の目が、静かに輝く。
「……あれか」
「うん。 あれがスーパー」
「大きな市だ」
「まだ外からしか見てないでしょ」
「確かめる」
「その顔、もう確かめるだけじゃ済まないやつだよね」
あかりは、もう一度深く息を吐いた。
その時の自分は、まだ知らなかった。
神様をスーパーに入れるということが、どれほど危険なことなのかを。
公園でラスボスになった神様が、次に足を踏み入れようとしているのは、現代の食の迷宮だった。




