第17話 神様が近い夜
月読命の寝場所が窓際に決まってから、十日あまりが過ぎた。
最初の夜こそ、あかりは妙に緊張した。
六畳の部屋の窓際に、神様が布団を敷いて眠っている。いや、眠っているのかどうかは分からない。月読命は、横になってもあまり動かないし、寝息もほとんど立てない。朝になっても髪は乱れず、顔も崩れず、あかりが買ってきた白い部屋着にも、なぜかほとんど皺がつかない。
寝起きという、人類共通の弱点が、この男神には存在しなかった。
ーーできればその神力を、洗濯物にも少し分けてほしい。神力かどうか分かんないけど。
それでも、部屋の中に「誰かの寝場所」があるというだけで、暮らしの輪郭は確かに変わった。ちゃぶ台の位置を少しずらすようになったし、洗濯物を畳む場所に気をつけるようになったし、スマホを見ながらごろごろする時も、なんとなく足の向きを考えるようになった。
そして、月読命は現代の人間世界について、主にテレビから学び始めた。それは、思ったよりも厄介だった。
ある朝、天気予報を見ていた月読命は、真剣な顔で言った。
「この巫女は、明日の空を読むのか」
「気象予報士ね。 巫女じゃないよ」
「空の機嫌を、数値で語っておる」
「そういう学問だからね」
「人の世は、神託を絵にするのか」
「神託じゃなくて天気図」
別の日には、料理番組を見て眉をひそめた。
「供物を刻みながら笑うとは、ずいぶん陽気な儀式だ」
「儀式じゃなくて料理番組」
「この者、魚に刃を突き立てながら『簡単ですね』と言ったぞ」
「まあ、慣れてる人には簡単なんじゃない?」
「命を捌く手つきが軽い」
「重い!」
月読命が夕方の通販番組にも引き込まれていたのは、画面の中で、明るい声の女性が同じ言葉を何度も繰り返していたからだ。
『今だけ! 数量限定! お電話が混み合っています!』
月読命は、じっと画面を見つめていた。
「これは呪か」
「通販」
「同じ言葉を繰り返し、人の心を動かす。 呪ではないのか」
「考え方によっては、まあ、ちょっと呪かも?」
「人の世は恐ろしいな」
「そこまで!?」
さらに、たまたま流れていた恋愛ドラマを月読命が見始めた時には、画面の中で、男女が雨の中、見つめ合っていた。男が女の肩をつかみ、今にも唇同士が触れ合いそうな場面だった。
あかりは反射的にリモコンの電源ボタンを押した。
「なぜ消す」
「......教育に悪いから」
「我は子どもではない」
「現代恋愛初心者でしょ」
「恋愛、とは何だ」
「れっ......、はい、終了ーー!!」
月読命は不満そうな目をしたが、それ以上は聞いてこなかった。
聞かれても、あかりは困る。
ーー恋愛って何??
そんなものを、神様に説明できるほど、あかり自身だって分かっていなかった。
あかりこそ、現代恋愛初心者なのだから。
*
部屋の中には少しずつ生活の匂いが増えていった。
あかりは、匂いに敏感だった。
雨の前の湿った匂い。実家の押し入れの木の匂い。干した洗濯物の匂い。父が残していった古いCDケースの埃っぽい匂い。
匂いは、記憶より先に胸に入ってくる。
だから、月読命にほとんど匂いがないことにも、あかりは早い段階で気づいていた。汗臭くもなければ、体臭なんてものも全く感じない。
しかし、日を重ねるうちに、月読命の周りには、少しずつこの部屋の匂いが混じり始めた。布団、洗剤、ほうじ茶、コンビニの肉まん。匂いのない神様が、六畳の匂いを纏っていった。
そしてその夜、あかりはカーテンを少し開けて、空を見上げた。
「あれ」
ーー月が見えない。
雲が厚いわけではない。夜空はむしろ、よく晴れていた。星もいくつか見える。けれど、いつも窓の向こうにあった白い光が、どこにもない。
あかりはスマホを手に取って月齢アプリを開くと、画面には黒に近い月の絵が表示されている。
「……新月」
窓際の布団の上に座っていた月読命が、ゆっくりと顔を上げる。
テレビの音量は小さくしてある。画面では、夜のニュース番組が淡々と流れていた。けれど月読命の目は、テレビではなく、窓の外の暗い空に向いていた。
「ツク?」
あかりが呼ぶが、月読命は返事をしなかった。
月読命は、いつもと同じように窓際に座っていた。それなのに今夜は、彼のまわりにあるはずの静けさが、どこか薄く感じた。
月明かりに守られている感じがしない。神様が弱っている、というほどではないけれど、いつもなら触れる前から指先を引っ込めたくなるような隔たりが、今夜は少しだけ解けていた。
ーー近い。
ふいに、そう思った。
月が見えている夜の月読命は、窓の外の白い光とつながっているように見える。六畳に座っていても、どこか遠い。手の届く場所にいるはずなのに、彼の向こう側に、あかりの知らない神域が広がっているような気がしていた。
でも今夜は違った。
月がない。白い光が感じられない。そのせいで、月読命はいつもより、この部屋の中で人っぽかった。布団の上に座っている一人の男の人に見えた。
そう見えてしまったことで、あかりは言葉を紡ぐのに困った。
ーー普通の男が、布団の上で座ってる......。
「……月がないと......変な感じ?」
なるべく普通に聞いたつもりだった。
月読命は、窓の外を見たまま答えた。
「白が薄い」
「白?」
「月の神域と、我を結ぶものだ。今宵は、それがほとんど届かぬ」
あかりは、スマホの画面の中の『新月』を見た。
月がなくなったわけではない。太陽と月と地球の位置の問題で、地上に月明かりが届かないだけ。暦の上では、ただそれだけのことだ。
でも、月読命にとっては違うのだろう。
「それって、具合悪いってこと?」
「具合」
月読命は、その言葉を確かめるように繰り返した。
「病ではない」
「じゃあ、しんどい?」
「しんどい、というものが何かは分からぬ」
「えーと……体が重いとか、落ち着かないとか、いつもできることができないとか」
月読命は、自分の手のひらを見る。
白く整った芸術品のような手に長い指。それは、まさに人間離れした手なのに、今夜はその手が、血が通った人間の、ただの綺麗な手に見えた。
「満ちていたものが、静まっている」
彼は言った。
「弱る、というより、静まる。 遠くの水音が聞こえなくなるようなものだ」
「水音?」
「たとえだ」
「分かりにくいけど、なんとなく分かる」
あかりは、カーテンを閉めるか迷った。月がないなら、カーテンを開けていても意味がない。それでも、閉めてしまうと、彼から夜空まで取り上げるような気がした。
ーー可哀想。
神様相手に、そんな言葉を使っていいのか分からない。でも、今夜の月読命は、わずかにそう見えた。
あかりは立ち上がった。
「ほうじ茶、飲む?」
月読命が振り向く。
「......ほうじ茶か」
「温かいやつ。 寒いなら」
「寒いとは言っておらぬ」
「はいはい。 じゃあ、寒くない神様に、温かいほうじ茶を出しますか」
月読命は何か言いたそうにしたが、結局黙った。
あかりは台所に向かうと、電気ケトルに水を入れる。スイッチを押すと、かちりと小さな音がした。しばらくして、水が温まり始めるかすかな音が、六畳の静けさに混じった。
月読命は、その音に気を向けた。
「それは、湯を沸かす器か」
「そう。 火を使わないやつ」
「火を使わずに湯を生むのか」
「電気でね」
「人の世は、火を隠すのが上手い」
「なんか名言っぽい」
あかりは笑いながら、急須に茶葉を入れた。ほうじ茶の香ばしい匂いが、あかりは好きだった。緑茶ほど澄ましていなくて、コーヒーほど強くない。そして麦茶より少し大人なのに、気取っていないし、夜に飲んでも目が冴えることはない。
湯を注ぐと、香りが一気に広がった。
六畳の部屋に、ほうじ茶の匂いが満ちるころ、あかりは湯呑みを二つ持って戻った。
「熱いから気をつけてね」
月読命は、湯呑みを受け取る手をほんの少し止めた。
「熱いものを、なぜ持たせる」
「持たないと飲めないでしょ? 熱いのはお茶の方だから」
「熱いと分かっているものを、口に入れるのか」
「そういう文化です」
「人は不可解だ」
「ツクの方がよっぽど不可解だよ」
月読命は湯呑みを見つめ、慎重に口をつけて、ほんの少しだけ飲む。すると、眉がかすかに動いた。
「かすかに苦い」
「ほうじ茶だからね」
「だが、嫌ではない」
「それ、けっこう大事な感想だよ」
「大事なのか」
「嫌じゃないものって、結構、あとから好きになることがあるもん」
月読命は、湯呑みの中の茶を見下ろした。
「嫌ではないものが、好きになる」
「うん。 食べ物でも、人でも、場所でも。 最初からすごく好きっていうより、気づいたら落ち着く、みたいな」
「落ち着く」
「そう。 気づいたら、そこにあると安心する感じ」
月読命は、自身の中にある真っ白な水面が揺れたことに気づいた。
ーー安心。
その言葉は、神の理には置きにくかった。神域にあるものは、揺らがない。満ち欠けはあっても、秩序は崩れない。だが、今夜の自分は、月の白が届かないだけで、どこかが静まりすぎている。
そこへ、あかりの声が落ちた。
ーー嫌ではない。むしろ落ち着く。そこにあると、『安心』する。白が薄れた場所には、本来なら闇が入るはずだ。だが、そうではない。ほうじ茶の香り、かすかな苦味、湯呑みを包む指先の暖かさ、夜の暗さを解く、あかりの声......。
月読命の内側にある真っ白な水面に、水の色がひとつ落ちた。夜明け前の霞がかった水面のような薄い水色だった。
あかりが笑うたび、その水色はかすかに揺れた。あかりが黙ると、色も静まった。
月読命は、月の神の名を持つものとして、当たり前のように月の満ち欠けを知っていた。潮の満ち引き、夜の到来も、日の出も、白が遠のく感覚も勿論知っていた。だが、人の声が心の内側に色を落とすことは知らなかった。
あかりは、自分の湯呑みに口をつけた。
ーー温かい。
喉を通って、胸のあたりまでじんわり落ちていく。ほうじ茶の香りが、月読命の周りにも漂っているような気がした。匂いのなかった神様のそばに、自分の部屋と同じ匂いがあるのは、不思議な感覚だった。
あかりは、湯呑みを両手で包んだまま、窓際の月読命を見る。黒い髪、整いすぎた顔、そして、その手には湯呑みがある。
湯気が、月読命の顔の前をゆっくり昇っていく。
ーーなんか......緊張する。
あかりは、変に意識しないように、少し明るい声を出した。
「月がない夜って、ツク的にはレアイベントなの?」
「れあいべんと」
「珍しい出来事ってこと」
「珍しくはない。 月は満ち、欠けるものだ」
「そっか。 神様だもんね。毎月あることか」
「だが、地上で迎えるのは久しい」
月読命にとって、それはどんな夜なのだろう。帰れないことを思い知らされる夜なのか、月の神域が遠のく夜なのか。それとも、今まで気づかなかったものに気づく夜なのか。
あかりには、今この時に気の利いたことを言えるはずもなかった。
けれど、一人にはしたくないと思った。
「テレビ、つけておく?」
「どちらでもよい」
「じゃあ、消すね。 ニュースって、夜に見るとなんか疲れるし」
あかりはリモコンを押した。
画面が暗くなり、部屋の音が減った。外の気配は、窓の向こうからかすかに聞こえるだけだった。
ほうじ茶の香りが、まだ部屋には残っている。
湯呑みを包む手の掌の余熱も、今夜は妙にはっきり感じられた。あかりがいつも一人で過ごしていた夜に、今は月読命がいる。
「......ツク」
あかりが呼ぶと、月読命は顔を上げる。
「眠れそう?」
「我は、眠る必要があるのか分からぬ」
「でも、横になった方がいいんじゃない? よく分かんないけど、元気なさそうに見えるよ」
「......横になる、という理は分からぬ」
「人間はそうするの」
「我は人ではない」
「知ってる。 でも、今日はちょっと人っぽい」
言ってから、あかりは「しまった」と思った。失礼だったかもしれない。神様に向かって、人っぽいなんて。
でも月読命は怒らなかった。ただ、湯呑みを見下ろしていた。
「人っぽい、とは」
「えっと……なんか、いつもより、遠くない」
あかりは言葉を探した。
ーー遠くない。近い。
でも、近いと言ってしまうのは、なんとなく恥ずかしかった。
「月がないからかもしれないけど。 いつものツクって、ここにいるのに、月の方にもいる感じがするから」
「今宵は、白の道が細いだけだ」
「うん。 だからかな。 今日は、ちゃんとこの部屋にいる感じがする」
月読命は、あかりを見た。
その視線を受けて、あかりの胸がドクンと跳ねる。
見られているだけなのに、距離が急に縮まったように感じた。月明かりがないせいで、彼の目の奥がいつもより暗い。暗いからこそ、白い光に逃げることはない。神様の目ではなく、ひとりの男の人の目に見える。
あかりは慌てて湯呑みに口をつけた。
「ま、まあ、今日は無理しないで寝よう。 私、明日も大学あるし」
「そなたは、毎朝どこかへ行く」
「大学生なので」
「学び舎か」
「そう。 学び舎」
「人は、毎日学ぶのか」
「学ばない日もあるけどね」
「そなたは、よく動く」
「バイトもあるし、買い物もあるし、普通に生活してたら動くよ」
「我は、そなたの生活を乱しているか」
あかりは、少し驚いた。月読命がそんなことを聞くとは思わなかったからだ。
「乱してるか乱してないかで言えば、だいぶ乱してる」
「そうか」
「あ、落ち込まないで。 いい意味で」
「乱すことに、よい意味があるのか」
「あるよ。 たぶん」
あかりは笑った。
「一人だったら、テレビにツッコミ入れないし。 ほうじ茶も二人分淹れないし。 布団の位置で悩まないし」
「それは、手間ではないのか」
「手間だよ」
「ならば......」
「でも、嫌ではない」
月読命の内側で、薄い水色が強く揺れた。
あかりの「嫌ではない」と言ったその言葉は、ほうじ茶の香りよりも確かに月読命の心に残った。
ーー淡い蒼色。水色よりもわずかに深く、夜の底に沈む前の空の端のような色だ。『温かい』という言葉とは違う。『嬉しい』という言葉でもない。ただ、白が白のままではなくなる。
月読命は、湯呑みを両手で持つあかりを見た。
彼女の髪は少し乱れていて、部屋着の袖は片方だけわずかに上がっている。湯気のせいなのか、頬がほのかに赤い。
ーー神域にはないものばかりだ。乱れ、匂い、温度、疲れ、眠気。それらは、清らかでも、完全でもない。だが今夜は、それらを見ていると我の内側に落ちた淡い蒼色が消えずに残る。
「......そなたは」
「ん?」
「我がここにいることを、嫌ではないのか」
あかりは、まっすぐ聞かれて、答えに詰まった。
ーー嫌ではない。それは本当だ。
でも、本当すぎることは、声に出すと形が変わってしまう気がする。
「……嫌だったら、布団なんて敷かないよ」
あかりは、少しだけ視線を逸らして言った。
「嫌だったら、お茶も出さないし。 テレビの見方も教えないし。 ツッコミ入れたりもしない」
「そうか」
「そうです」
月読命は、ほんのわずかに目を伏せた。笑ったわけではないけれど、その表情から、鋭すぎる神様らしさは感じられない。
あかりは、胸の奥が落ち着かなくなるのを感じた。
ーー今夜のツクは、やっぱり近い。かなり近い気がする。月がないだけで、こんなに違うの?それとも、十日くらい一緒にいたから?
ほうじ茶の匂いがして、布団の匂いがして、自分の部屋の匂いがしている中に、匂いのない神様が座っている。でも今夜は、その匂いのなささえ、部屋の匂いに包まれているように思えた。
「そろそろ寝よっか」
ドギマギしながら、あかりは立ち上がって、湯呑みを片づけた。
照明を少し暗くする。月がない夜の部屋は、とても暗かった。
窓際の布団に、月読命が横になる。そして、あかりも自分のベッドに入った。
「寒くない?」
「寒くはない」
「本当?」
「そなたは、我を寒がりにしたいのか」
「違うけど。 今日のツク、いつもより静かだから」
「問題ない」
「そっか」
あかりは、天井を見た。
月のない夜のせいで、ツクはいつもよりもっとこちら側にいた。それがなんだか不思議で、それ以上に嬉しかった。
「おやすみ、ツク」
暗い部屋に、あかりの声が落ちた。
それはただ、ひとりの人間の女が、同じ部屋で夜を終わらせるために口にした短い言葉だったが、その声は月読命の内側に蒼色を強く残した。これまでの薄い水色よりも、少しだけ深い色だった。
月読命は、その蒼が美しいと思った。
「……おやすみ、あかり」
月読命は、そう返した。
「うん」
あかりは布団にくるまって、鼻先だけで小さく笑った。
その笑い声が、また蒼色を揺らした。
ーー夜が明ければ、この色は解けるか。月が満ちれば、また白に覆われるか。神であっても、案外自身のことが分からぬものだ。
月読命は内心で自身に呆れていた。
そして、夜が明けるのを初めて名残惜しいと思ったのだった。




