第16話 神様の寝場所問題
月読命がトイレの使い方を覚えた翌日の夜、あかりはコンビニのバイトを終えて、アパートへ戻る道を歩いていた。
昼ほどの暑さはないのに夜気はまだぬるく、バイト帰りの身体に夏の疲れがじわりとまとわりついてくる。
店の明かり、自販機の低い音、遠くを走る車のライト、それと、どこかの部屋から漏れるテレビの音までいつも通りの夜だった。
けれど、あかりの頭の中は、朝からずっと一つのことでいっぱいだった。
――今夜、あの神様をどこに寝かせるか。
昨日の夜は、もう考える余裕がなかった。ラーメンを食べて帰宅。そして......トイレ。それだけで、ほとんど終わってしまった。
月読命は「眠らずともよい」と言った。けれど、あかりは、その言葉を信じたというより、考える力を失ってベッドに倒れ込んだ。
しかも、シャワーも浴びていない。
思えば、その前の夜もそうだった。月読神社で月読命と出会い、何者かから逃げて、部屋に連れ帰り、気づけば朝だった。
ーー二晩連続!女子として、これはかなりまずい!
◇
朝、目を覚ました時、あかりはまず自分の髪の重さに絶望した。そして次に、窓際に正座したままの月読命を見て、別の意味で絶望した。
月読命は、昨夜あかりが眠った時とほとんど同じ姿勢で座っていたのだ。背筋を伸ばして静かに窓の方を向き、まるで置き忘れて一晩中ほったらかしにされた人形のように。
ーーいや、……もしかして、本当に一晩中そこにいた……?
「……ツク」
寝起きのかすれた声で呼ぶと、月読命はゆっくり振り向いた。
「起きたか」
「起きたか、じゃなくて」
あかりはベッドの上で上体を起こし、乱れた髪を押さえた。
「もしかして、ずっとそこにいた?」
「いた」
「寝てない?」
「眠らずともよい」
その時は、それ以上突っ込む余裕がなかった。立ち止まっている暇はなかった。
バイトの時間は迫っているし、二晩分の生活を取り戻すには、まず洗濯機を回さなければならない。月読命には、勝手に外へ出ないこと、冷蔵庫やテレビに触らないことだけを念押しして、あかりは大急ぎでシャワーを浴び、化粧をして部屋を出た。
◇
そして、今。
その問題を一日中持ち越したまま、夜になった。
あかりはアパートの階段の下で、ふう、と息を吐きながら、二階の自分の部屋を見上げた。カーテンは閉まっていて、明かりもついていない。
月読命は、照明をつけることをまだ覚えていない。いや、覚えさせてはいけない気もする。
下手に触られて、電気系統に神力が反応したら怖い。
「……よし」
あかりは小さく気合を入れた。
ーー今日こそ、生活を立て直す。まず、シャワー。絶対にシャワー。これは女としての尊厳の問題だ。そして、その次に......。
神様の寝場所問題である。
*
鍵を回して、ドアを開ける。
「ただいま」
部屋の中は暗かったけれど、窓際に人の気配を感じる。カーテンの隙間から落ちる薄い月明かりの中に、月読命が座っていた。
やはり正座で。
「戻ったか」
「ただいま」
あかりは靴を脱ぎながら、部屋の照明をつけ、恐る恐る聞いた。
「……変なことしてないよね?」
「変なこととは何だ」
「冷蔵庫開けたり、テレビつけたり、窓から出ようとしたり、私のベッドに潜り込んだり」
「しておらぬ」
「......そっか......まあ、よかった」
あかりはひとまず胸を撫で下ろした。
部屋は無事、スマホの充電器も無事、本棚も無事、下着類もたぶん無事。
あかりは二人分のコンビニ弁当を机の上に置いた。そして、どうしても先に済ませなければならないことを月読命に告げる。
「ツク」
「何だ」
「私は、まずシャワーを浴びます」
「水を浴びることか」
「正確には、お湯だけど」
「湯浴みか」
「あ、そこは分かるんだ」
「湯で身を清めることは知っている」
「そっか。 今日は絶対に浴びる」
「わざわざ我に宣言することか?」
「昨日は無理だったの。 今日は女としての尊厳がかかってる。 これはとても大事なことなの」
月読命は、少しだけあかりに圧倒されているように見えた。
湯浴み、という言い方は古めかしいけれど、意味は通じているらしい。ただし、あかりの部屋の狭いユニットバスで、壁にかけてあるシャワーヘッドからお湯が出てくる仕組みを知っているとは思えない。
月読命は、浴室の方をちらりと見た。
「だが、この部屋に湯殿があるようには見えぬ」
「そんな荘厳なものはないよ」
「では何と言う」
「お風呂。 というか、私はシャワーだけで済ませることも多いけど」
「湯が、どこから来る」
「壁から」
月読命は黙った。
はっきりと黙った。
「……壁から、湯が来るのか」
「来ます。 正確にはシャワーで頭の上から、って感じだけど......」
「人の世は、滝を部屋に入れたのか」
「滝!?」
あかりは苦笑した。
月読命は、浴室のドアをまじまじと見ている。
「待って待って。 ツクもシャワー浴びたいの?」
「我は要らぬ」
「え?」
「我は汚れぬ」
真顔だった。それはもう、神様の宣言だった。
「いや、そういう問題じゃなくて」
「汗も、ほとんどかかぬ」
「お腹は減るのに?」
月読命は、少しだけ黙った。
「……そこは、分からぬ」
「分からないんだ」
「この身は、地上に合わせられているらしい。 腹は減る。 満ちる。 下へも向かう」
「最後の説明はもういい」
「我には、といれが要る」
「いいってば」
あかりは言いながら、着替えを取り出した。
Tシャツ、部屋着用のショートパンツ、下着、バスタオル。
ーー今夜こそ、絶対にシャワーを浴びる。
「いい? 私がシャワーを浴びている間、浴室のドアは開けない。 窓も開けない。 冷蔵庫もテレビも触らない」
「何もするなということか」
「机の上のお弁当は食べてて」
「いや、弁当はそなたと共に食べる。 我は月を見て待つ」
「……そう。 じゃあ、待ってて」
あかりは浴室へ向かった。そして、ドアを閉める直前にふと振り返ってみた。
月読命は窓際に正座していた。背筋を伸ばし、静かにこちらを見ていた。
静かに......こちらを見ていた。
ーーえぇぇ......なんでまだこっち見てんの?
「……ツク」
「何だ」
「本当に開けないでね」
「開けぬ」
「絶対?」
「絶対だ」
「......約してよね......」
あかりはドアを閉めた。服を脱いで、浴室に入り、蛇口を捻ると、頭の上にあるシャワーヘッドからお湯が降ってきた。
月読命の言葉を思い出して、少し笑いそうになった。ーー人の世は、滝を部屋に入れたのか。たしかに、そう言われると、急にすごいことをしている気がしてくる。
髪を伝って熱めのお湯が背中を流れた瞬間、あかりは思わず声が漏れた。
「ああぁ……」
二晩分の疲れが、ゆっくり流れていく気がする。
月読神社で月読命と出会い、そのまま部屋へ連れ帰った夜。その翌朝には千晴に怒られ、昼には服を買い、そして晩御飯にラーメンを食べ、トイレの仕方を教えた。何よりも、神様とはいえ、異性と同居している。
ーー色々ありすぎだよ……。
けれど、まだ二日しか経っていない。その、たった二日で、生活の形が変わってしまった。
ふと、昨日の夜のことを思い出してしまった。月読命に抱えられて、夜の街をアパートまで戻ってきたことを。
あの時は必死だったけれど、今、温かいお湯を浴びる中で少しだけ落ち着いてしまうと、急に思い出す。
自分の身体を支えていた硬い腕、見上げた時に近くにあった整いすぎた顔、月明かりを受けて輪郭だけが淡く光っていた黒い髪。「神様だから」で済ませるには、月読命はあまりにも男の人だった。
あかりは胸を包み込むように手を当てた。そして、手を下へも伸ばそうとして……止めた。
ーー何をしてるの、私!
あかりは慌てて、顔にお湯を浴びせた。顔が熱いのを、お湯のせいにしたかった。
今も彼はたぶん、窓際に座っていて月を見ている。帰れない、けれど、帰るべき場所を。
あかりは髪を洗いながら、ふと考えた。
ーー今日も寝ないつもりなのかな。
「眠らずともよい」と、たしかに月読命はそう言った。神様なら、そうなのかもしれない。けれど六畳の部屋で、一晩中、正座して窓の方を向いているのは何か違う気がする。
少なくとも、この生活の中では。
「……寝場所」
シャワーの音に紛れて、小さくつぶやいた。
今夜は、ちゃんと決めなければならない。
*
シャワーを終えて部屋に戻ると、月読命は思ったとおり、窓際に座っていた。何も触った形跡はないし、動いた気配もない。
ただ、カーテンの隙間から見える夜空を見ていた。
「開けなかった?」
「開けておらぬ」
「冷蔵庫は?」
「開けておらぬ」
「テレビは?」
「触れておらぬ」
「えらい」
「我は子どもではない」
「現代初心者」
「……そうであった」
月読命は少しだけ悔しそうに言った。
二人で机の上のコンビニ弁当を食べてから、あかりはドライヤーをかけた。ちなみに、お弁当を食べてる間、月読命は弁当の白米と焼き魚に対しても、なぜか供物を評するような厳かな感想を述べた。
ぶおん、と音がした瞬間、月読命がこちらを見る。
「風か」
「温かい風が出るんだよ」
「人の世は、風も器に入れる」
「入れてるわけじゃないけど、まあ、そんな感じ」
あかりは髪を乾かしながら言った。
月読命はドライヤーをしばらく見ていたが、近づいてはこなかった。
ーーえらい。......いや、やっぱ子供扱いになってる。......でも、仕方ないよね。
この部屋にある現代家電は、今の月読命にとって、どれも不用意に触らせたくない物ばかりだった。月読命の神力が何を引き起こすか分からない。しっかりと使い方を教えて、何も起こらないことをこの目で確かめるまでは、遠ざけるのが一番いい方法だと思った。
髪を乾かし終えると、あかりはようやく人間に戻った気がした。
ーーいや、もともと人間だし!尊厳が回復しただけ!
「よし」
あかりはドライヤーを片づけた。
「これで私は生き返った」
「生きていたではないか」
「綺麗な状態に戻ったってこと」
「そなたは綺麗だ」
「......待って。 い、今のは、その、状態の.....話で」
「状態」
「髪とか肌とか、.....そういう」
「そなたは綺麗だ」
「二回言わないで……」
あかりは思わず顔をそらした。
今度は、シャワーのお湯で顔の火照りをごまかすことはできなかった。
「さて!」
あかりは逃げるように部屋を見回した。六畳、ベッド、ちゃぶ台、本棚、クローゼット、窓際。
そして、月読命。
逃げられない現実が、そこにあった。
「ツク」
「何だ」
「寝場所の話をします」
「寝場所」
「そう。 ツクの寝る場所」
月読命は、やはり不思議そうな顔をした。
「我は、眠らずともよい」
「それは昨日聞いた」
「ならば、我の寝場所などなくてもよいであろう」
「ダメです」
「なぜだ」
「私が落ち着かないから」
「そなたが」
「そう。 私が」
月読命は少し考えた。
「そなたが気にするなら、必要か」
「そういうこと」
「分かった」
「とにかく、今日はちゃんと寝場所を作る」
「寝具ならば、敷物があればよい」
「あ、寝具は分かるんだ」
「寝るために敷くものも、頭を支えるものも、古くからある」
「そっか。 じゃあ話が早い」
あかりは立ち上がって、押し入れへ向かった。その奥に、予備の布団がある。
千晴や母が泊まりに来た時用に置いていた予備の布団は、一人暮らしの部屋には少し邪魔だったけれど、捨てずにおいてよかったと、あかりはこの時初めて思った。
「よいしょ……」
押し入れの奥から布団袋を引っ張り出す。
少し重い。
月読命が立ち上がった。
「持とう」
「いい。 普通に持てる」
「重そうだ」
「重いけど持てる」
「ならば、半分持つ」
「半分?」
月読命が、あかりが持っていた布団袋の端を持った瞬間、重さがふっと消えた。
「軽っ、……ツクが持つと軽いね」
「そうか」
月読命は何でもない顔をしている。
ーー助かる。かなり助かる。でも、少し頼もしく見えてしまうのはまずい。
二人で布団袋を部屋の真ん中まで運び、中から、敷布団、掛け布団、枕を取り出す。
月読命は静かにそれを見ていた。
「これは、そなたのものか」
「うん。 予備だけど」
「誰かのためのものか」
「千晴とか、お母さんとか。 泊まりに来た時用」
「ならば、我が使ってよいのか」
月読命は、遠慮しているようだった。
ーー意外!......ってわけでも.....ないかも。
そういえば、この神様は物に対する扱いがとても丁寧だった。
「使っていいよ。 私がそう決めたから」
「そなたが」
「うん。 この部屋の主は私なので」
言ってから、少しだけ恥ずかしくなった。六畳のアパートで「主」と言うと、何だか大げさだ。
けれど、月読命は笑わなかった。
「ならば、借りる」
「はい。 貸します」
あかりは布団を抱え直して部屋を見回すが、ベッドの横は狭いし、ちゃぶ台の横もぎりぎりだった。玄関側は落ち着かないだろうし、クローゼット前だと朝に困るはずだ。
「場所は……やっぱり窓際かな」
そこなら、布団一枚分をなんとか敷ける。
月読命も、自然と窓の方を見た。
「窓のそばか」
「嫌?」
「嫌ではない」
少し間を置いて、月読命は「月が見える」と言った。その声は、いつもより少しだけ寂しそうに聞こえて、あかりは布団を広げようとしていた手を一瞬止めた。
ーー月が見える。
ただそれだけの言葉なのに、月読命が言うと、洗濯物を干すための窓が、もうただの窓ではなく、遠い場所へつながっている境界みたいに思えた。
「……じゃあ、窓際で」
「うむ」
「ただし、カーテンは基本閉めて。 月を見る時は、外から見えないくらい少しだけ開けてね」
「承知した」
「あと、窓は開けない。 虫が入るから」
「虫か。 女が虫を嫌うのは、遥か昔から変わらぬな」
「だって気持ち悪いじゃん」
当然でしょ、という顔をして、あかりは布団を窓際に敷いた。掛け布団はまだ暑いかもしれないので、足元に畳んで置く。とりあえず、枕もその上に置いた。
六畳の部屋に、月読命の寝床が完成した。
五分足らずで神様の寝床が完成してしまうのはどうかとも思ったけれど、ーーないよりはましでしょ。と、あかりは思い直した。
「できた!」
あかりは腰に手を当てた。
「今日からここがツクの寝場所です」
あかりは、月読命が布団を見るその目が、真剣すぎる気がした。
「何?」
「いや」
「嫌だった?」
「嫌ではない」
「じゃあ、何?」
「そなたは、我のために場所を作ったのだな」
あかりは普通に笑ってしまった。
「何よ、改まって! 布団敷いただけなんだけど!」
ただ、一晩中正座されると落ち着かないし、神様とはいえ床にそのまま寝かせるわけにもいかない。千晴や母のための予備布団があったから使っただけだ。
布団を敷いただけのはずなのに、月読命の反応が大げさすぎておかしかったし、照れくさくもあった。
「まあ、ここにいるなら、必要でしょ……」
言い終える頃には、声が少し小さくなっていた。
「そうか」
「うん」
「ならば、借りる」
「どうぞ」
また、妙に改まったやり取りになった。
月読命は、敷かれた布団の前に正座しようとしたので、あかりは慌てて止める。
「寝る場所だから!」
「うむ」
「座る場所じゃなくて!」
「うむ」
「いや、正座しちゃってるじゃん……人の話聞いてる?」
「聞いておる」
月読命は姿勢を正し、顔をゆっくりと上げて、まっすぐ正面へと目を向けた。
「いや、さらに正座の完成度を上げないで」
「寝床を借りるのだろう」
「うん」
「ならば、粗略には扱えぬ」
月読命はそう言って、布団の前で一度、深く目を伏せた。まるで、社の前で何かを捧げる前のような所作だった。
「……寝るの、そんな厳かにやる?」
「寝床を与えられたのだ」
「いや、......予備の布団だけど」
「それでも、与えられた場所だ」
月読命はそう言って、ゆっくりと布団に手をついた。それから慎重に静かに横たわった。ただ布団に寝るだけなのに、なぜか一つの儀式のようだった。
ーー真面目すぎ。
すっかり気を取り直したあかりは、声量も元に戻っていた。
「では、最後に私が寝る前のルールを現代初心者のツクに教えて差し上げます」
「まだあるのか」
「あります。 生活はルールの連続です」
「生活とは、祭祀に似ているな」
「そういう時だけ急に神様っぽいこと言う」
「我は神だ」
「知ってます」
あかりは指を立てながら説明した。
「電気を消したら静かにする。 夜中に勝手に出歩かない。 窓を開けない。 冷蔵庫を開ける時は私に聞く。 トイレは勝手に行ってよし!」
「よいのか」
「いいです。 そこはもう自立してください」
「お腹が鳴ったら言う」
「それは必要か」
「必要です」
「また勝手に鳴るかもしれぬ」
「……やっぱり朝まで我慢して」
「よいのか」
「私の睡眠も大事なので。 ......そして、最後に」
「まだあるのか」
「おやすみ、って言う」
月読命は、少しだけ目を瞬いた。
「おやすみ」
「寝る前の挨拶」
「挨拶か」
「そう。 寝る前は、おやすみ」
「なぜ言う」
あかりは少し考えた。
「そこに誰かがいるって、確認するためじゃない?」
言ってる自分も正しいのか分からなかった。そんなふうに考えたことはなかったからだ。ただの挨拶だし、何気ない毎日の言葉だ。でも、一人暮らしを始めてから、「ただいま」に返事がないことには慣れていた。
慣れていたはずだった。
ただ、この部屋に、自分以外の声がある。それはたぶん、思っていたより大きい。
「誰かがいる」
月読命が繰り返した。
「うん。 たぶんね」
月読命は、窓の方を見た。
カーテンの隙間から、月明かりが細く入っている。
「では、今夜は言うのか」
「言います」
「我も言うのか」
「言ってくれると、ありがたいです」
「分かった」
あかりは、急に恥ずかしくなった。
ーーなんだこの会話。
神様に「おやすみ」を教えている。しかも、言ってくれるとありがたいです、なんて言っている。
変だ。
ーーでも、変なのに、嫌ではない。
*
「じゃあ、電気消すよ」
「うむ」
照明を消すと、部屋はすぐに夜へ戻った。
カーテンの隙間から、細い月明かりが落ちている。窓際の布団に横になった月読命の横顔が、白く照らされた。
コンビニで自動ドアに戸惑い、Tシャツに負けかけ、ラーメンに完敗した神様。
それでも、月明かりの中の月読命は、やっぱり綺麗だった。
「人に眠りは不可欠だ」
月読命が、静かに言った。
「それはツクでもそう思うんだね」
「人は眠っている間にだけ、神域に縋ることができる。 夢は、地上に縛られた魂が、夜の間だけ遠いものへ手を伸ばす道だ」
その言葉は、昼間の現代初心者のものではなく、夜を知る神様の言葉なのかもしれない。
「だから眠れ、あかり。 人は、眠らねばならぬ」
「......うん。 ツクも、眠れないかもしれないけど、横にはなってて。 私が気にするから」
月読命は、静かに目を瞑った。
「心得た」
あかりは、窓際の布団を見た。
ここが月読命の帰るべき場所とはまだ呼べないかもしれない。それでも今夜、ここには月読命の寝場所がある。
「おやすみ、ツク」
「おやすみ、あかり」
六畳の部屋に、自分以外の声で返ってくる「おやすみ」があった。あかりは、自分の顔が今とてもニヤけている自覚があった。
月読命の言葉を借りるなら、こういう時はきっとこう言うのだろう。
「……悪くない」
「何がだ?」
「拾わなくていいから!」
言ってから、あかりはもう一つ大事なことに気づいた。
「寝る前は、歯磨き!!」
窓の外で、月が静かに光っている。
まだ終わらない夏の夜は、少しだけ深くなっていた。




