第15話 神様とトイレ
ラーメン屋を出ると、夜の空気が少しだけ涼しかった。
昼の熱がまだアスファルトに残っているのに、夜の京都はどこか柔らかい。背後では、店の明かりがまだ夜の通りにこぼれている。
あかりは満腹だった。月読命の腹も、たぶん満腹だろう。
それだけのことが、少し幸せだった。
満月の夜から、まだ一日しか経っていないのに、もうこんなふうに、夜道を並んで歩いている。
ーー変だ。でも、変なままでいい気がする。
月読命は、ふと空を見上げた。
あかりも、つられて見上げると、空には月があった。昨日ほど強くはないけれど、確かに白く光っている。
「月だね」
「そうだな」
「ツクの月?」
「我のものではない」
「でも、関係あるんでしょ」
「ある」
「そっか」
二人は並んで歩いた。
ラーメンの熱が、まだ身体の中に残っている。夏の夜はまだ暑く、首筋に汗が滲む。スープの塩気も、麺の重さも、歩くたびに少しずつ馴染んでいく。
あかりは、月読命の横顔を見た。
現代服にまとめられた黒髪と整った綺麗な顔に帽子の影。黙って歩いている姿だけなら、少し目立つ観光客くらいには見えるはずだ。
「どうだった? ラーメン」
あかりが聞くと、月読命は少し考えた。
「不思議だった」
「おいしい、じゃなくて?」
「そうだ、おいしい。だが、それだけでは、らぁめんの価を評するに足りぬ」
「大層お気に召したんですね」
「あれは、水と熱と命が、ひとつの器に収まっていた。さらに全ての食材が適切に、かつ適度に主張するよう作られた完璧なものだった。長い時をかけて研鑽された技の塊を食していたようなものだ。神饌でよかろう」
「神の食レポか!」
割と無表情だと思っていた月読が、とても興奮しているように見えて、あかりはツッコミを入れてしまった。
でも、月読命が初めてラーメンを食べたその場に自分がいた。それが、胸の奥で大切なものみたいに残った。
「人は、毎日食べるのであろう」
「ラーメンばっかりじゃないよ。 でも、基本は毎日」
「日に何度も」
「人によるけど、だいたい三回とか」
「三回」
「朝、昼、夜。 まあ、忙しかったりすると抜いたりもするけど」
「そなたは今日、抜いていたな」
あかりは一瞬、目を瞬かせた。
「気づいてたの?」
「昼に、そなたは急いでいた」
「まあ、バイト先で食べたけどね。 休憩の時に」
「廃棄前の弁当、と言っていたものか」
「あ、覚えてたんだ」
「そなたが食べると言った」
月読命は静かに答えた。
何気ない言葉を、この神様は時々ひどく丁寧に覚えている。
あかりは少しだけ視線をそらした。
「ツクも、次からはちゃんと食べようね」
「必要があれば」
「必要あったじゃん。 めっちゃ鳴ってたじゃん」
「めっちゃ、とは」
「何回も。 強めに」
「……あれは、身体が勝手に鳴った」
「お腹ってそういうものです」
月読命は納得していない顔をした。
「神の身体が、勝手に鳴る」
「今は地上仕様なんでしょ?」
あかりは軽く尋ねたつもりだったけれど、少しだけ引っかかった。
ーー地上仕様ってふざけて言っちゃったけど、軽い話じゃないのかも。
「ねえ、ツク」
「何だ」
「さっき、分からないって言ってたけど」
聞きかけて、あかりは口を閉じた。
月読命がこちらを見る。
「何だ」
「……やっぱり、今じゃなくていい」
「なぜだ」
「今は、ラーメンおいしかったね、で終わりたい」
月読命は、しばらくあかりを見ていたけれど、何かを発見したように、はっきりと口にした。
「そなたは、時々不思議なところで引く」
「踏み込まない方がいい時もあるんです」
「そうか」
ーーたぶん、聞くことでツクの内側に踏み込むことになる。
そうなる確信はなかった。でも、今夜は何事もなく終わらせたかった。
あかりは月を見上げた。
夜の道に、昨夜とは違って薄く月明かりが落ちている。あの時は、月明かりそのものが世界の境界を開いているようだった。けれど、今夜の月は、もう少し穏やかだ。
ただ二人の上にあって、帰り道を照らしている。
「ツクってさ」
「何だ」
「月を見てると、帰りたいって思う?」
自分で聞いてから、後悔した。
ーーいや、私、言った側から踏み込んでるし!
月読命は、すぐには答えなかった。夜道を歩く足音だけが、かすかに続く。
月読命の足音は、ほとんどなくて、あかりのスニーカーが道路と擦れる音だけが大きく聞こえた。
「帰りたい、という言葉は難しい」
「難しい?」
「帰る場所であることと、帰りたい場所であることは、同じではない」
月読命が月を見る、その横顔は静かだった。
「月の神域は、我の在るべき場所だ」
「うん」
「だが、今は道が閉じている」
「帰れないんだよね」
「そうだ」
「じゃあ、帰りたい、って思っても帰れない」
「そうだな」
月読命は、少しだけ視線を下ろした。
「だが」
「うん」
「今、そなたの部屋に戻ることも、帰ると言うのだろう」
月読命は続けて言った。
「人の世で、帰りたいと思った時、そなたの住む、あの部屋が帰るべき場所となるやもしれぬ」
あかりの胸が、小さく鳴った。
ーそんなことを言われたら、困る。そんなふうに、自分の部屋を帰る場所の一つみたいに言われたら......。
「……ツク」
「何だ」
「あの部屋、狭いよ」
「知っている」
「物も多いし」
「知っている」
「エアコンは箱だし、風出すし」
「それも知った」
「冷蔵庫は勝手に開けちゃだめだし」
「約した」
「食べ物も、ちゃんと確認しないと危ないし」
「学んだ」
「神様が帰る場所にするには、かなり生活感あるよ」
月読命は、少しだけ考えた。
「生活とは、そういうものではないのか」
あかりは、言葉に詰まった。
ーーそれは、そうかもしれない。
生活とは、狭くて、物が多くて、約束があって、食べ物があって、冷蔵庫を勝手に開けてはいけなくて、箱から風が出るものなのかもしれない。
そう考えると、なんだか急に笑えてきた。
「そうだね。 生活って、そういうものかも」
あかりが笑うと、月読命は無表情な顔ながらも不思議そうにした。
「なぜ笑う」
「嬉しいから」
「嬉しい」
「うん。 たぶん」
月読命は、また分からないという顔をしたけれど、否定はしなかった。
二人はしばらく黙って歩いた。
遠くで自転車のベルが鳴る、コンビニの明かりが見える、どこかの家からテレビの音が少し漏れている。
平凡な夜だ。
その中に、月の神様がいることを考えると、あかりは不思議でならなかった。
でも、慣れてしまいそうで、それも少し怖かった。
*
アパートまで、あと少しというところだった。
月読命が、ふと足を止めた。
あかりは数歩進んでから、振り返る。
「ツク?」
月読命は立ち止まっていた。月明かりの下で、真剣な顔をしている。さっき、ラーメンを前にした時よりも、さらに真剣な顔だった。
「どうしたの?」
月読命は、しばらく沈黙した。
そして、低く言った。
「……あかり」
「な、何?」
「腹の奥に、先ほどとは違う気配がある」
「違う気配……?」
「空いてはいない」
「うん」
「満ちている。 だが、満ちたものが、動いている」
「……動いている?」
「下へ、……向かおうとしている」
「どのへんまで?」
「尻の方まで来ている」
「……」
あかりは、数秒かけて理解した。
月読命は、本気だった。
本気で、未知の現象としてそれを訴えていた。
夜の京都の道で、月の神様が、あまりにも神妙な顔で、自分の腹の奥に起きた変化を報告している。
ラーメン......食べた......満ちた.....下へ......向かう......尻。
あかりの頭の中で、点と点がつながり線となった。その線の名は、ーー消化器官だ。
あかりは息を吸った。
そして、夜の京都の道で叫んだ。
「トイレーー!!」




