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Moon Light Lover  作者: 巡
第3章 長月編

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第15話 神様とトイレ


 ラーメン屋を出ると、夜の空気が少しだけ涼しかった。


 昼の熱がまだアスファルトに残っているのに、夜の京都はどこか柔らかい。背後では、店の明かりがまだ夜の通りにこぼれている。


 あかりは満腹だった。月読命の腹も、たぶん満腹だろう。


 それだけのことが、少し幸せだった。


 満月の夜から、まだ一日しか経っていないのに、もうこんなふうに、夜道を並んで歩いている。


 ーー変だ。でも、変なままでいい気がする。


 月読命は、ふと空を見上げた。


 あかりも、つられて見上げると、空には月があった。昨日ほど強くはないけれど、確かに白く光っている。


「月だね」


「そうだな」


「ツクの月?」


「我のものではない」


「でも、関係あるんでしょ」


「ある」


「そっか」


 二人は並んで歩いた。


 ラーメンの熱が、まだ身体の中に残っている。夏の夜はまだ暑く、首筋に汗が滲む。スープの塩気も、麺の重さも、歩くたびに少しずつ馴染んでいく。


 あかりは、月読命の横顔を見た。


 現代服にまとめられた黒髪と整った綺麗な顔に帽子の影。黙って歩いている姿だけなら、少し目立つ観光客くらいには見えるはずだ。

 

「どうだった? ラーメン」


 あかりが聞くと、月読命は少し考えた。


「不思議だった」


「おいしい、じゃなくて?」


「そうだ、おいしい。だが、それだけでは、らぁめんの価を評するに足りぬ」


「大層お気に召したんですね」


「あれは、水と熱と命が、ひとつの器に収まっていた。さらに全ての食材が適切に、かつ適度に主張するよう作られた完璧なものだった。長い時をかけて研鑽された技の塊を食していたようなものだ。神饌でよかろう」


「神の食レポか!」


 割と無表情だと思っていた月読が、とても興奮しているように見えて、あかりはツッコミを入れてしまった。


 でも、月読命が初めてラーメンを食べたその場に自分がいた。それが、胸の奥で大切なものみたいに残った。


「人は、毎日食べるのであろう」


「ラーメンばっかりじゃないよ。 でも、基本は毎日」


「日に何度も」


「人によるけど、だいたい三回とか」


「三回」


「朝、昼、夜。 まあ、忙しかったりすると抜いたりもするけど」


「そなたは今日、抜いていたな」


 あかりは一瞬、目を瞬かせた。


「気づいてたの?」


「昼に、そなたは急いでいた」


「まあ、バイト先で食べたけどね。 休憩の時に」


「廃棄前の弁当、と言っていたものか」


「あ、覚えてたんだ」


「そなたが食べると言った」


 月読命は静かに答えた。


 何気ない言葉を、この神様は時々ひどく丁寧に覚えている。


 あかりは少しだけ視線をそらした。


「ツクも、次からはちゃんと食べようね」


「必要があれば」


「必要あったじゃん。 めっちゃ鳴ってたじゃん」


「めっちゃ、とは」


「何回も。 強めに」


「……あれは、身体が勝手に鳴った」


「お腹ってそういうものです」


 月読命は納得していない顔をした。


「神の身体が、勝手に鳴る」


「今は地上仕様なんでしょ?」


 あかりは軽く尋ねたつもりだったけれど、少しだけ引っかかった。


 ーー地上仕様ってふざけて言っちゃったけど、軽い話じゃないのかも。


「ねえ、ツク」


「何だ」


「さっき、分からないって言ってたけど」


 聞きかけて、あかりは口を閉じた。


 月読命がこちらを見る。


「何だ」


「……やっぱり、今じゃなくていい」


「なぜだ」


「今は、ラーメンおいしかったね、で終わりたい」


 月読命は、しばらくあかりを見ていたけれど、何かを発見したように、はっきりと口にした。


「そなたは、時々不思議なところで引く」


「踏み込まない方がいい時もあるんです」


「そうか」


 ーーたぶん、聞くことでツクの内側に踏み込むことになる。


 そうなる確信はなかった。でも、今夜は何事もなく終わらせたかった。


 あかりは月を見上げた。


 夜の道に、昨夜とは違って薄く月明かりが落ちている。あの時は、月明かりそのものが世界の境界を開いているようだった。けれど、今夜の月は、もう少し穏やかだ。


 ただ二人の上にあって、帰り道を照らしている。


「ツクってさ」


「何だ」


「月を見てると、帰りたいって思う?」


 自分で聞いてから、後悔した。


 ーーいや、私、言った側から踏み込んでるし!


 月読命は、すぐには答えなかった。夜道を歩く足音だけが、かすかに続く。


 月読命の足音は、ほとんどなくて、あかりのスニーカーが道路と擦れる音だけが大きく聞こえた。


「帰りたい、という言葉は難しい」


「難しい?」


「帰る場所であることと、帰りたい場所であることは、同じではない」


 月読命が月を見る、その横顔は静かだった。


「月の神域は、我の在るべき場所だ」


「うん」


「だが、今は道が閉じている」


「帰れないんだよね」


「そうだ」


「じゃあ、帰りたい、って思っても帰れない」


「そうだな」


 月読命は、少しだけ視線を下ろした。


「だが」


「うん」


「今、そなたの部屋に戻ることも、帰ると言うのだろう」


 月読命は続けて言った。


「人の世で、帰りたいと思った時、そなたの住む、あの部屋が帰るべき場所となるやもしれぬ」


 あかりの胸が、小さく鳴った。


 ーそんなことを言われたら、困る。そんなふうに、自分の部屋を帰る場所の一つみたいに言われたら......。


「……ツク」


「何だ」


「あの部屋、狭いよ」


「知っている」


「物も多いし」


「知っている」


「エアコンは箱だし、風出すし」


「それも知った」


「冷蔵庫は勝手に開けちゃだめだし」


「約した」


「食べ物も、ちゃんと確認しないと危ないし」


「学んだ」


「神様が帰る場所にするには、かなり生活感あるよ」


 月読命は、少しだけ考えた。


「生活とは、そういうものではないのか」


 あかりは、言葉に詰まった。


 ーーそれは、そうかもしれない。


 生活とは、狭くて、物が多くて、約束があって、食べ物があって、冷蔵庫を勝手に開けてはいけなくて、箱から風が出るものなのかもしれない。


 そう考えると、なんだか急に笑えてきた。


「そうだね。 生活って、そういうものかも」


 あかりが笑うと、月読命は無表情な顔ながらも不思議そうにした。


「なぜ笑う」


「嬉しいから」


「嬉しい」


「うん。 たぶん」


 月読命は、また分からないという顔をしたけれど、否定はしなかった。


 二人はしばらく黙って歩いた。


 遠くで自転車のベルが鳴る、コンビニの明かりが見える、どこかの家からテレビの音が少し漏れている。


 平凡な夜だ。


 その中に、月の神様がいることを考えると、あかりは不思議でならなかった。


 でも、慣れてしまいそうで、それも少し怖かった。


   *


 アパートまで、あと少しというところだった。


 月読命が、ふと足を止めた。


 あかりは数歩進んでから、振り返る。


「ツク?」


 月読命は立ち止まっていた。月明かりの下で、真剣な顔をしている。さっき、ラーメンを前にした時よりも、さらに真剣な顔だった。


「どうしたの?」


 月読命は、しばらく沈黙した。


 そして、低く言った。


「……あかり」


「な、何?」


「腹の奥に、先ほどとは違う気配がある」


「違う気配……?」


「空いてはいない」


「うん」


「満ちている。 だが、満ちたものが、動いている」


「……動いている?」


「下へ、……向かおうとしている」


「どのへんまで?」


「尻の方まで来ている」


「……」


 あかりは、数秒かけて理解した。


 月読命は、本気だった。


 本気で、未知の現象としてそれを訴えていた。


 夜の京都の道で、月の神様が、あまりにも神妙な顔で、自分の腹の奥に起きた変化を報告している。


 ラーメン......食べた......満ちた.....下へ......向かう......尻。


 あかりの頭の中で、点と点がつながり線となった。その線の名は、ーー消化器官だ。


 あかりは息を吸った。


 そして、夜の京都の道で叫んだ。


「トイレーー!!」

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