第14話 神様とラーメン
あかりはスマホで近くの店を調べようとして、すぐにやめた。
疲れているし、お腹も空いている。であれば、注文してから、あまり待たない方がいい。そして、アパートから近くて、もちろん、美味しくないと嫌だ。
そんな我が儘な条件に合う店があるのか。
ーーある。
「ツク、ラーメンにしよう」
「らぁめん」
「人類が発明した、わりと偉大な食べ物」
「神饌か」
「……新鮮? 出来立てを提供してくれるけど、火を通してるから新鮮かと聞かれると……」
「偉大なのだろう」
「好きな人にとっては、かなり」
あかりは財布とスマホを持った。
「近くに遅くまでやってるラーメン屋があるから、そこ行こ。名前もツクにぴったりだし」
「名が、我に」
「うん」
あかりは腰に手を当て、胸を張って宣言した。
「神様を神様の店に連れていきます」
「神の店」
「名前がね」
「神域か」
「神域? ラーメン屋なんだけど」
「ならば、なぜ神を名乗る」
「それは私も知らない」
「まあ、店名のインパクトは強いよね」
「神を名乗るほどの食物なのか」
「それは食べてから判断してください」
「分かった」
月読命は、あかりを見た。
「そなたがいるなら、どこでもよい」
また、そういうことを真顔で言う。
あかりは一瞬だけ詰まった。
「っ……はいはい。行きますよ」
照れを誤魔化すように言って、玄関へ向かう。
月読命も立ち上がった。
その時、腹がまた鳴った。
ーーぐうう。
静かな部屋にはっきり響いたので、つい、あかりは振り返ってしまった。
月読命は、真剣な顔で自分の腹を見ている。
「我だ」
「分かってるよ」
「なぜ鳴る」
「お腹すいてるから」
「腹は、鳴るものなのか」
「鳴るものです」
「不可解だ」
「現代どころか、たぶん太古からそう」
「なんで知らないのよ」と、あかりは笑う。
月読命は、自分の腹の音に納得していないのか、不満そうだった。その姿があまりにもおかしくて、でも少しだけ愛おしいような気がして、あかりは慌ててその感情を胸の奥に押し込んだ。
「ほら、行くよ。ツク」
「分かった」
*
ラーメン屋は、アパートから歩いて十分ほどのところにあった。
大きな店ではない。
けれど、夜の通りの中で、その看板だけがやけに目立っていた。
ーーセアブラノ神。
あかりは店の前で立ち止まり、看板を指さした。
「ほら」
月読命は、静かにその文字を見上げた。
「……神」
「うん」
「背脂の神、ということか」
「たぶん、そういうことだと思う」
「そんな神の名なぞ知らん」
「神の名前じゃないと思う。ラーメンに入ってる脂のことだよ」
「しかし、脂の神ということであろう」
「そう言われると、すごいギトギトしてそうな神様だね」
店の外まで、出汁と醤油と油の匂いが漂っていた。夜気の中に、熱い湯気の気配が混じっている。
並んで店内に入ろうとしたところで、月読命は急に足を止めた。
「何……、何かいるの?」
「……匂いがする」
「ラーメン屋だからね」
「水ではない。草でもない。肉でもない。だが、すべて混じっている」
「鼻がいいというか、表現が怖いというか」
あかりは暖簾をくぐった。
「こんばんはー」
「いらっしゃいませ」
店内は、夜の熱を持っていた。
鍋の音、麺を上げる音、カウンターに置かれた水のピッチャー、箸立て、調味料。
月読命が店内を見回そうとしたので、あかりが小声で止めた。
「そんなに見ない」
「またか」
「またです」
月読命は、店内へ向けかけた視線を、ゆっくりと手元へ戻した。
ーー成長している。いや、成長なのか。とにかく、少しずつ慣れている。
あかりは券売機の前で足を止めた。
「何食べる?」
「分からぬ」
「じゃあ、まずは一番それっぽいやつかな。背脂のラーメン。最初から店名回収していこう」
「店名回収」
「こっちの話」
「神を名乗る食物を、神である我が食すのか。いいだろう」
「喧嘩を買ったみたいになってる。まずは食券を買って!」
あかりはこの店の看板メニューのラーメンを二つ選んぶことにした。ボタンを押すと、がちゃん、と小さな音を立てて食券が出てくる。
月読命が、その薄い紙を見た。
「これが、食を得るための札か」
「そう。現代の通行手形みたいなもの」
「食の門を通る札」
「説明間違えたかも……」
あかりは食券を店員に渡した。
「背脂二つですね」
「お願いします」
それから、あかりはカウンター席に月読命を座らせ、自分は隣に座った。
水はセルフサービスだったので、あかりが二人分を汲んで持ってきた。
月読命はコップを見る。もうペットボトルほど驚かない。ただ、コップの中の水を静かに見てから、あかりを見る。
「飲んでいいよ」
「うむ」
月読命は素直に水を飲んだ。ご主人様の許可をもらわないと水が飲めない犬みたいで、なんだか可愛い。
「冷たい」
「そこはまだ言うんだ」
「喉を通る冷たさは、やはり違う」
「きっと喉乾いてたんだね」
少しして、ラーメンが運ばれてきた。
白い器の中で、醤油色のスープが店の天井から降り注ぐ照明光を受けて揺れている。表面には細かな背脂が浮かび、湯気の中で白くきらめいていた。麺の上にはチャーシュー、メンマ、海苔、ネギが載り、熱と匂いが一気に立ち上がる。
月読命は、その器を見たまま動かなかった。
「ツク?」
あかりが声をかけるが、月読命は器の中を見つめたまま、低く唸るように言った。
「……これは、何だ」
「ラーメン」
「名ではなく、これは何だ」
「だからラーメンだってば」
あかりが言うと、月読命は少し眉を寄せた。
怒っているのではない。本気で分からないようだ。おそらく名前ではなく、本質を問うているのだろう。
「水に、熱と、油が重なっている。肉も草も穀もあるのに、ひとつも争っておらぬ」
「ラーメンを和平会議みたいに見てない?」
「穀物を練り固めた上で、さらに細く裂いたものが沈んでいる」
「麺ね」
「肉もある」
「チャーシューね」
「草もある」
「ネギね」
「黒き薄いものもある」
「海苔ね」
「白き脂が浮いている」
「それが背脂」
月読命は、そこで少し黙った。
「汁も、穀も、菜も、肉もある。脂もある。……人の世は、これを一つの器に収めるのか」
「うん。それがラーメン」
「粗末にしていない。どれも、役目を失っておらぬ」
月読命は、しばらく黙っていた。
店の中では、他の客が普通に麺をすすっている。ずず、と音がする。
月読命がそちらを見た。
「音を立てている」
「ラーメンは、わりと啜るものだから」
「すする」
「できる?」
「分からぬ」
「そこも初めてか」
あかりは割り箸を割って、月読命に渡した。
「箸、使える?」
「使える」
「ほんと?」
月読命は箸を受け取り、かなり自然に持った。
あかりは驚いた。
「使えるんだ」
「箸は知っている。食を扱っていたことはある」
「えー、意外!」
「我を何だと思っている」
「Tシャツに負けてた神様」
「負けてはおらぬ」
真顔で返され、あかりは笑いそうになった。
「じゃあ、まずスープ飲んでみて。熱いから気をつけて」
「熱い」
「そう。熱い。ゆっくり」
月読命はレンゲを取った。
あかりが使い方を見せると、同じようにスープをすくう。
湯気が、月読命の顔の前を白く流れた。それをしばらく見つめてから、口をつけた。
ほんの少し。
スープが、月読命の口の中に入ったその瞬間、動きが止めまった。
「熱かった?」
あかりが慌てる。
月読命は答えない代わりに、静かにレンゲを下ろし、そして、目を瞑った。
「……これは」
「大丈夫?」
月読命は、一気に目を見開いた。
「これは、何だ」
「だからラーメンだって」
「違う」
月読命は、首を振って否定した後、ゆっくりと確かめるように、その違いを語り始めた。
「水ではない。だが、水だ。命の気配が、形を失って溶けている。塩、油、熱、肉、草、穀物。すべてが崩れ、混ざり、ひとつの味になっている」
「ラーメンをそこまで神話的に語る人、初めて見た」
「人は、これを食べるのか」
「うん。けっこう食べる」
「なぜだ」
「おいしいから」
あかりは、他に言いようがなくて、笑うしかなかった。
月読命は、その言葉を聞いて、もう一度スープを飲んだ。
今度は少し多めに。
そして、静かに息を吐いた。
「まさか、魚もか!」
「煮干しのことかな」
「魚まで、形を失っている」
「出汁ってそういうものだからね」
「これは、時が味になっている」
「出汁を時間概念で語られた」
あかりはそう言ったけれど、月読命の真剣な表情は崩れない。
「おいしい?」
「……おいしい、とは」
「あ、そこから?」
「これは、身体が求める味だ」
ーー身体が求める、か。
月読命の身体。本人にも理由の分からない、地上の身体。神であるはずの彼の身体が、目の前の一杯を求めている。
その事実が、湯気の向こうの器に浮かんでいた。
あかりは、あえて明るく言った。
「じゃあ、次は麺」
「麺」
「箸で持って、こう。熱いから、ちょっと冷まして。で、食べる」
あかりが実演する。
月読命は、それを真剣に見ていた。
「そんなに見ないで…..」
「学んでいる」
「なら……仕方ないか」
月読命は箸で麺を持ち上げた。
思ったより器用に持てていたけれど、長く伸びた麺をどこまで持ち上げればいいのか分からないらしく、少しずつ上へ上げていき、目線の高さまで箸がきたところで、あかりに制止された。
「待って待って、そんなに持ち上げなくていい」
「終わりが見えぬ」
「いや、終わりはあるよ!麺だからね」
「長い」
「そういうもの」
あかりは笑いながら、麺を少し戻すように教えた。
月読命は、慎重に麺を口へ運ぶ。そして、すすろうとして止まった。
「……音を立てるのだったな」
「無理に立てなくてもいいよ」
「周囲は立てている」
「合わせようとしなくていい」
「人の世は難しい」
「ラーメンだけでそこまで言う?」
月読命は、麺を食べ、咀嚼する。静かに、しかし確かに味わっている。
やがて、飲み込んだ。
「穀物が、細き形になり、汁をまとっている」
「麺の感想が壮大」
「噛むたびに、違う」
「そう。だからおいしい」
「……おいしい」
月読命が、その言葉を口にした。
あかりも笑みを浮かべながら言った。
「うん。おいしい」
月読命は、もう一度麺を取った。今度はさっきより迷いが少ない。 スープを飲み、麺を食べ、次に、まだ手をつけていなかったチャーシューを見つめた。
「これは肉か」
「チャーシュー」
「肉だな」
「肉です」
「食べる」
「どうぞ」
月読命はチャーシューを食べた。そして、また黙った。
「どう?」
「噛むほど、肉がほどける。熱と塩を抱いている」
「チャーシューの感想だけ妙に色っぽい」
「だが、悪くない」
「悪くない、いただきました」
あかりは自分のラーメンを食べながら、隣の月読命を見た。
神様が、ラーメンを食べている。
それは、どう考えても普通ではないのに、不思議なほど自然でもあった。
月読命は、現代の暮らしをまだ何も知らないはずだ。ラーメンも、コンビニも、服屋も、ペットボトルも、バイトも。
けれど、食材を見る目だけは、なぜかひどく古く、真剣だった。
「ツク」
「何だ」
「おいしい?」
月読命は、すぐには答えなかった。
スープを見つめ、麺を見つめ、そして、静かに言った。
「……おいしい。おいしい……」
その声には、深いものがあった。ただの感想ではなく、太古から続く何かに、今、舌先で触れたような響きだった。
「二回言うほど?」
「二回、言うほどだ」
「最初のごはんがラーメンって、けっこう勝ちだよ」
「我は勝った」
「そういう勝ち負けではないけど、まあ勝った」
「我はラーメンに勝ったのだな」
「いや、ラーメンには完敗だよね」
「不可解だ」
月読命が、麺を啜るその横顔は真剣なのに、どこか幼い。
あかりは、自分の器に視線を戻した。
胸の奥に、言葉にしにくい感情が溜まっていた。
*
月読命は、ラーメンを完食した。
というより、スープまで飲み切った。
あかりは少し驚いた。
「全部食べたね」
「身体が求めた」
「そっか」
「不思議だ」
「何が?」
「食べる前は、内が空いていた。今は、満ちている」
「うん。お腹いっぱいってやつ」
「腹が、満ち足りた」
「そう」
月読命は、空になった器を見つめていた。
さっきまで湯気を上げていた器だったが、今は底にほんのわずかなスープが残っているだけ。
あかりは、水を飲んだ。冷たい水が喉を通る。バイト終わりの身体に、ラーメンの熱と塩気が染みていったのがようやく分かって一息ついた。
疲れていた。でも、少し元気になった。
月読命も、そうなのだろうか。
神様にも、こういう満足があるのだろうか。
「ねえ、ツク」
「何だ」
「また食べたい?」
月読命は、少し考えた。
「……分からぬ」
「分からないんだ」
「だが」
「うん」
「この満ち足りた感じは、悪くない」
「そっか」
月読命は、空になった器をもう一度見て、静かに言った。
「食べるとは、ただ満たされるだけではない」
あかりは、その言葉の意味を理解できなかった。でも、聞き流してはいけないという気もした。
月読命は目を伏せている。
月読命が湯気の消えた器の底に何を見ているのか、あかりには分からなかったけれど、できるだけ声は柔らかくしたいと思った。
「今は、それでいいんじゃない?」
「それで」
「うん。食べて、おいしかった。それで、今はいいよ」
月読命は、あかりを見た。
しばらくして、静かにうなずいた。
「……そうだな」
月読命が初めて食べたラーメンの味。
ーーきっと、忘れることはないんだろうな。
あかりは、そう思った。




