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Moon Light Lover  作者: 巡
第2章 日常入門編

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第13話 神様、腹が減る


 太陽は、京都の通りの上に、黄色く張りついている。さっきまで冷房の効いた服屋の中にいたせいで、外へ出た瞬間、あかりの首筋に汗がにじんだ。


 月読命は、服屋で選んだグレーの半袖シャツに白いTシャツを重ね、黒に近い細身のズボンを穿いていた。長い黒髪は、ヘアゴムで低い位置にまとめられている。ストールは外して、キャップを被らせたら、昨日の夜に月読神社で出会った時よりは、ずいぶん人間の世界に紛れられる格好になっていた。


 けれど、完全に普通かと言われると、そんなことはない。


 背筋の伸び方も、視線の静けさも、何もしていないのに空気の中で妙に浮いて見える感じも、やっぱり人とは違う。


 服を替えたくらいで、神様が普通の観光客になるわけがなかった。


 でも。


 あかりは、月読命の横顔を盗み見た。


 昨日よりは、近い。


 遠い月の上にいる神様ではなく、自分の隣を歩く誰かに、少しだけ近づいた気がした。


「……何だ」


 月読命が、あかりの視線に気づいた。


「何でもない」


「そうか」


「そういうの、気づかなくていいから」


「なぜだ」


「こっちにも都合があるから」


 月読命は、分からないという顔をした。


 その反応が、もう少しだけ普通になってきた気がして、あかりは余計に困る。


 千晴がスマホを確認しながら、横から声を挟んだ。


「あかり、バイト何時から?」


「十四時から。 だから、一回帰って、ちょっと準備して、それから行く」


「けっこうギリじゃない?」


「うん。 正直、まあまあギリ」


 あかりは現実を見た。


 昨日の夜、月読命と出会った。


 そこから逃げて、部屋に連れて帰って、寝落ちして、朝起きて、千晴が来て、説教されて、コンビニに行って、水を買って、服屋で服を買った。


 一日分どころか、三日分くらいの出来事があった気がするのに、現実の時間はまだ、満月の夜の翌日でしかない。そして、汐見あかりは大学生であり、コンビニバイトの人間である。神様が部屋にいようが、月明かりの下で人生が変わろうが、シフトは消えない。


「行くのか」


 月読命が言った。


「行かなきゃ。 急に休んだら迷惑がかかるし」


「迷惑」


「うん。 シフトに穴が空く」


「穴が空くのか」


「物理的な穴じゃない」


 あかりが言うと、千晴がすぐに補足した。


「人手が足りなくなるってことです、月読さん」


「なるほど」


 月読命は、あかりと千晴を順に見た。


「人の世では、人が一人欠けるだけで、場が乱れるのだな」


「まあ、コンビニは特にね」


 あかりは苦笑した。


「私がいなくても世界は回るけど、店長は困る」


「世界より店長が先なのか」


「今の私の世界ではね」


 月読命は、また分からないという顔をした。


 千晴が自分のスマホを見ながら、小さくため息をついた。


「私もこのあとバイト。 夕方からだけど、一回帰らないと無理」


「千晴も?」


「うん。 あかりだけ働かせて、私だけ遊んでるわけじゃないので」


「偉い」


「言い方が子どもに対するやつ」


「じゃあ、社会人みたい」


「大学生です」


 千晴は短く返してから、月読命を見た。


「というわけで、月読さん。しばらく一人で待機です」


「待機」


「はい。 あかりの部屋で、夜まで大人しく待つ」


「大人しく」


「勝手に外に出ない、窓から出ない、壁を抜けない、あと、部屋にある分からない箱とか機械は触らない」


「分からぬものは、触らぬ」


「そうです。 ペットボトルを奉(たてまつ)らない」


「それはもう理解した」


「ならよし」


 千晴はうなずいた。


 あかりは少し心配になった。


「でも、本当に一人で大丈夫かな」


「大丈夫ではないと思う」


「即答しないで」


「でも、連れていけないでしょ。 バイト先に」


「それは無理」


 コンビニに月読命を連れていく。想像しただけで、あかりに変な汗が流れた。昨日の夜に現れた神様を、コンビニのバックヤードに置いておくわけにもいかない。


「じゃあ、部屋で待っててもらうしかないよね」


「うん」


「危ないものは隠して、ガスは触らせない。電子レンジも無理、包丁も無理、ベランダにも出さない。 水道は……まあ、水道くらいはいいか」


「水道も神妙に見つめそうだけどね」


「それくらいなら許容範囲じゃん」


 あかりは、月読命を見た。


「ツク、夜まで部屋で待ってられる?」


「待つことはできる」


「本当に?」


「長い時を、月の巡りとともに過ごしてきた」


「スケール、でかっ!」


「数時間であれば、問題ない」


 そう言われると、確かに待つこと自体は得意そうだ。月の神様が、六畳の部屋でじっと待つ。


 想像すると、シュールだ。


「じゃあ、帰ろう。 バイト行く準備しなきゃ」


 千晴と別れて、あかりが歩き出すと、月読命も静かについてきた。


 新しい服を着た月読命は、夏の京都の昼の往来の中にいる。それは、やっぱり不思議だったけれど、今は考えている時間がない。


 バイトに遅れる。


 それは、神話と比べるべくもなく差し迫った現実だった。


   *


 部屋に戻ると、六畳の空気は熱に満たされていた。あかりは窓を少し開け、エアコンをつける。冷たい風が小さく吹き出した。


 月読命は、エアコンの風を見上げる。


「箱から風が出る」


「これはエアコン」


「えあこん」


「部屋を涼しくする機械。夏の味方です」


「人の世は、箱から風を出し、水を封じ、音の鳴る扉を開ける」


「まとめると変な文明だね」


「変ではある」


「否定して」


 あかりはバッグの中身を確認し、財布とスマホ、バイト先のロッカーの鍵を入れ直した。髪も、鏡の前で結び直す。時計を見ると、あまり余裕はなかった。


「ツク、私はバイトに行くから。 ここで待ってて。 絶対に外に出ないでね」


「心得た」


「あ、あとこれ」


 あかりは小さな台所の横にある白い箱を指さした。


「冷蔵庫」


「れいぞうこ」


「食べ物とか飲み物を冷やして入れておく箱。勝手に開けないで」


「食物を、箱に入れて冷やすのか」


「うん。 そういうものなの」


「なぜ冷やす」


「長く置いておくため、かな。 傷みにくくなるから」


「食物は、時が経つと変わるのか」


「変わるし、悪くなる」


「……人の食物は、時にも弱いのだな」


「まあ、だいたいそう」


 月読命は、納得したような、していないような顔で冷蔵庫を見ていた。食べ物に興味を持ったというより、人間の生活の仕組みをひとつ観察した、という顔だった。


「人は、日に食べるのか」


「......ああ、毎日食べるのか、ってこと? そりゃ食べるよ。 今日は、バイトの休憩中に何か買うと思う。 廃棄前のお弁当をもらえる時もあるし」


「そうか」


「……ツクは?」


「我は神だ」


「うん」


「食事は要らぬ」


「本当に?」


「問題ない」


 あかりは、少しだけ眉を寄せた。


 本当に問題ないのだろうか。


 昨日の夜から、月読命が何かを食べたところは見ていない。水も、さっきようやく飲んだばかりだ。


 神様だから平気。


 そう言われれば、そうなのかもしれないけれど、今の月読命は、現代服を着て、自分の部屋に立っている。そう思うと、もう完全に遠い神話の中だけの存在には見えなかった。


「じゃあ、一応、これ置いとく」


 あかりは、コンビニで買った水と、未開封の菓子パンをちゃぶ台に置いた。


「もし、何か変だなって思ったら、これ食べて。 袋はここから開ける。 分からなかったら、無理に開けないで待ってて」


「食べる必要はない」


「分かってる。 でも、念のため」


「念のため」


「そう。 現代人は念のためで生きてるの」


 神様に対して、だいぶ雑な現代人代表をしている自覚はあった。でも今は、ひとつひとつ正しく説明している時間がない。


 月読命は、その菓子パンを静かに見た。


「これは、供物か」


「違う。 非常食」


「ひじょうしょく」


「困った時に食べるもの」


「困ったら待つのではなかったか」


「待つ。 でも、お腹が空いたら食べてもいい」


「腹が......」


 月読命は、まるで遠い言葉を聞いたように、それを繰り返した。


「我には、不要だ」


「……そっか」


 あかりはそれ以上、強くは言わなかった。ただ、ちゃぶ台の上に水と菓子パンを置いたままにした。


 そして、メモを書いた。


『神力は絶対使わない。外に出ない。火を使わない。冷蔵庫を勝手に開けない。困ったら待つ。あかりは夜帰る。』


 書いてから、最後の一文に少し照れた。


 でも、そのまま置いた。


「これ、読める?」


 月読命はメモを見た。


「読める」


「じゃあ、これ守って」


「守る」


「本当に?」


「我は約した」


 ——約した。


 その言い方が、古臭くてあかりは笑った。


「じゃあ、行ってきます」


「行ってくる、とは」


「出かける時の言葉。帰ってくる前提の言葉」


 月読命は、その説明を聞いて、確かめるように言葉を繰り返した。


「帰ってくる前提か」


「そう」


「では」


 月読命は、静かに言った。


「行って来るのだ、あかり」


 胸の奥が、妙にきゅっとした。


 こんなの、ただの挨拶だ。ただの言葉だ。


 なのに、名前を呼ばれて、見送ってくれる人がいるみたいで、なんか嬉しい。


「……行ってきますなのだ」


 口にしてから、あかりは一拍遅れて固まった。


「……今のなし」


「なぜだ」


「変な口調が移った」


「我のせいか」


「ツクのせい」


 あかりは誤魔化すようにドアを開けた。外に出ると夏の熱気が、すぐに身体を包んだ。


 鍵をかけるその音を聞きながら、あかりは小さく息を吐いた。


 部屋に神様を残してバイトへ行くなんて、冷静に考えたら、どうかしている。


   *


 月読命は、六畳の部屋に一人残された。


 ドアの向こうで、あかりの足音が遠ざかっていく。やがて、それも聞こえなくなり、部屋には箱から出る冷たい風の音だけが残った。


 月読命は、しばらく玄関の方を見ていた。


 ——行ってきます。


 帰ってくる前提の言葉。


 人の世には、去る時にも、戻ることを含んだ言葉がある。


 月読命は、それを不思議だと思った。


 神域において、去ることは去ることだった。


 戻るかどうかは、言葉ではなく、定めや命によって決まる。


 けれど、あかりは当たり前のように言った。


 ——夜には帰るから。


 帰ってくる前提。


 その言葉は、部屋の中にまだ残っているようだった。


 月読命は、ゆっくりと部屋の中を見回した。


 六畳の部屋には、小さなちゃぶ台と布団、本棚、洗濯物を入れる籠、小さな台所が収まっている。壁にはエアコンがあり、窓にはカーテンがかかっていた。人一人の生活を収めるには狭い。


 けれど、月読命から見ると、知らない物ばかりだ。


 あかりが毎日使うもの、あかりが選んだもの、あかりが置いたもの、あかりが忘れているもの。


 どれもが神域にはなかった。


 月読命は、ちゃぶ台の前に座った。


 正座ではない。千晴に「椅子じゃない床生活なら、普通に座ってください」と言われたことを思い出し、足を少し崩して座る。


 普通に。


 普通という言葉も、難しい。


 しばらく、何もしなかった。


 窓の外から、車の音が聞こえる。人の声がする。遠くで、蝉が鳴いている。


 月読命は、ちゃぶ台の上のメモを見た。


『神力は絶対に使わない。外に出ない。火を使わない。冷蔵庫を勝手に開けない。困ったら待つ。あかりは夜帰る。』


 困ったら待つ。


 ——困る。


 困ることなど、記憶を探っても出てこなかった。大抵のことはどうにかなった。どうにでもしてきた。


 ——人の世に降りてきたのは幾歳月ぶりのことであろうか。こんなにも繁栄していたとは......人の世の物も、理解できずとも壊さずに避けることはできる。


 あかりが戻るまで、ただ待てばいい。


 月読命は、そう思っていた。


 しかし。


 しばらくして、腹の奥で、何かが鳴った。


 ぐう、と。


 六畳に、聞き慣れない音が響いて、月読命は静かに顔を上げた。


 部屋を見る。


 もう一度、鳴った。


 ——ぐう。


 今度は、はっきり分かった。


 自分の腹だ。


 月読命は、自分の腹に視線を落としながら思った。


 痛みはない。外からの攻撃でもない。何かが、内側で起こっている。何か空洞のようなものが、身体の中にできている。そこが、何かを求めている。


 月読命は、しばらくその感覚の名を探して、やがて思い当たる。


 ——空腹。


 腹が、空く。


 月読命は、低く息を吐いた。


 これは弱さではない。


 そう思おうとした。


 けれど、腹の奥はまた小さく鳴った。


 神である自分の身体が、何かを求めている。その事実だけが、静かにそこにあった。


 なぜ、こんな感覚があるのか。なぜ、地上に降りた自分の身体が、これほど人に近い反応をするのか。


 月読命には分からなかった。


 分からないまま、どこか遠い記憶の底で、食物と、怒りと、踏みにじられた何かの気配だけがかすかに揺れた。


 月読命は、ちゃぶ台の上の菓子パンを見た。


 あかりが置いていった食物。粗末にしてよいものではない。あかりは、何か変だと思ったら食べていいと言っていた。


 だが、月読命は手を伸ばさなかった。


 我には、不要だ。そう言った。


 そして何より、自分の身体が食物を求めているという事実を、まだ認めたくなかった。


 腹は、また鳴った。


 月読命は、静かに耐えたていたが、次第に喉が渇いた。


 ちゃぶ台の上には、あかりが置いていったペットボトルがある。少し前、あかりに教えられながら、ようやく飲めた水。


 月読命はそれを見つめた。


 もう一度、喉の奥が渇きを訴える。


 月読命は、ペットボトルを手に取った。今度は、キャップの部分をつままず、胴を握る。あかりに教えられた通り。ボトルを押さえ、キャップだけを回す。


「……こうだったな」


 月読命は、慎重にキャップへ指をかけた。だが、慎重さと力加減は別のものだった。白い蓋を回そうとした瞬間、透明なボトルの胴が、ぐしゃりと大きくへこんだ。


 次の瞬間。


 水が跳ねた。


 勢いよく口元から噴き上がり、月読命の手を濡らし、ちゃぶ台を濡らし、床の上へ広がっていき、水が六畳の部屋に流れ出す。さらに、自らの服にもシミが広がる。


「……冷たい」


 月読命は、しばらく動けなかった。


 手の中には、へこんで少しだけ小さくなった器。目線の先には、広がっていく水。


 ちゃぶ台の端から、ぽたり、と雫が落ちた。


 月読命は、静かに床を見て思った。


 これは、敵ではない。災厄でもない。だが、あかりの部屋に広がっている。


 月読命は、ゆっくりと視線を上げた。


 ちゃぶ台の上には、あかりのメモがある。


『困ったら待つ。』


 月読命は、もう一度、床を見た。


 待てば、水は消えるのか。いや、おそらく、消えない。では、どうする。


 月読命は、部屋を見回した。


 ——物が多すぎる。どうすべきか......。


 その中で、白い布を見つけた。


 たしか、朝、あかりが顔を拭いていたものに似ている。


 月読命はそれを手に取った。そして、床の水にそっと置いた。


 水が布に吸われていく。


「……これだ」


 月読命は少しだけ目を細めた。


 布は、水を吸い取る。だが、すべては受け取れない。床には、まだ水が残っている。


 月読命は、布を探して重ねた。もう一枚、さらにもう一枚と。


 六畳の部屋で、月の神様が、こぼした水を拭いていく。


   *


 バイト中、あかりは何度も時計を見た。


 入口で聞き慣れたメロディーが鳴るたび、あかりはいつもどおり「いらっしゃいませ」と声をかけた。レジを打ち、公共料金を受け取り、揚げ物を補充する。ペットボトル飲料を並べながらも、頭の隅ではずっと六畳の部屋のことを考えていた。


 月読命は大丈夫だろうか。冷蔵庫を開けていないだろうか。エアコンに話しかけていないだろうか。窓から出ようとしていないだろうか。


 ——いや、窓から出るって何。


 自分で考えて、自分で不安になった。休憩時間には、廃棄処分待ちだった小さな弁当をもらった。 朝からまともに何も食べていなかった身体に、冷めかけたご飯と梅干しの塩気が染みる。


 食べながら、あかりはふと思った。「ツク、本当に大丈夫かな」と。自分はこうして食べられる。でも、部屋に残した月読命は、たぶん何も食べていない。本人は、神だから食事を取らなくても平気だと言っていたけど、神様の「平気」は、どこまで信じていいのだろうか。


 千晴からメッセージが来ていた。


『月読さん、生きてる?』


 あかりは即座に返す。


『神様だからたぶん生きてる』


 少しして、返信が来た。


『そういう問題じゃない』


『分かってる。 心配』


『バイト終わったら直帰しなよ』


『うん』


『あと、絶対に部屋の惨状を写真で送って』


『惨状前提やめて』


『月読さんが一人で六畳にいるんだよ?』


『否定できない』


 あかりはスマホを見ながら、笑った。心配なのに、笑ってしまう。


 それが不思議だった。


 昨日の夜は、怖いというより、分からなかった。今日の朝も、混乱していた。でも今は、六畳の部屋に月読命がいることを、受け止め始めている。


 おかしな話だ。


 一日しか経っていない。まだ、何も分かっていない。月読命がなぜ地上に降りてきたのか、誰かが追ってきているのか、なぜ帰れないのか。


 それなのに。


 あかりは、バイトが終わったら早く帰りたいと思っている。部屋に帰れば、月読命がいることが、心配で、落ち着かなくて、少しだけ嬉しい。


「汐見さん、休憩終わりね」


「あ、はい!」


 店長の声で、あかりは我に返った。


 スマホをしまって仕事に戻る。


 外は少しずつ、夕方へ近づいていた。


   *


 あかりが部屋に戻ったのは、二十一時を少し過ぎた頃だった。


 階段を上がりながら、心臓が少し速くなる。


 鍵を取り出してドアの前に立った。中から物音はしない。


 静かすぎる。


 あかりは、はやる気持ちを抑えて、鍵を回してドアを開ける。


「ただいま」


 言ってから、少しだけ照れた。


 昨日までは、一人暮らしの部屋に帰っても、ただいまなんて言わなかった。


 部屋の奥には、月読命がいた。


 ちゃぶ台の前に、静かに座っている。


 ——正座だ。


 姿勢は崩れていないし、部屋も壊れていないし、冷蔵庫も無事だ。エアコンも動いている。


 あかりは、ほっと息を吐いた。


「よかった。 ちゃんと待ってた」


「約した」


「偉い」


 月読命は、あかりと千晴の会話を覚えていたのか、少しだけ眉を寄せて言った。


「それは、子どもに対する言い方であろう」


「ちょっとだけ」


「ちょっとだけ、子どもなのか」


「......ちょっとだけね」


 イタズラっぽく笑いながら、あかりは靴を脱ぎ、バッグを置いた。そこで、足元に少しだけ違和感を覚えた。


 床が、かすかに湿っている。


「……ツク、カーペットが、ちょっと湿ってない?」


 月読命は、静かに答えた。


「水の封を解こうとして、失敗した」


「現代生活、まずフタから難所なの?」


「封じられていた水ではなかったのか」


「ペットボトルです」


「ぺっとぼとる」


「で、こぼしたの?」


「こぼした」


「どれくらい?」


 月読命は、ほんの少しだけ視線をそらした。


 あかりは嫌な予感がした。


「どれくらい?」


「かなり」


「ああ……」


 あかりは頭を抱えた。


 見ると、部屋の端に濡れたタオルが数枚、きちんと重ねられていた。そして、その上に白いショーツが二枚、同じようにきちんと重ねられていた。


 きちんと。


 ものすごくきちんと。


 濡れたタオルとショーツが、神事の後の供物みたいに整然と積まれていた。


「……ツク」


「何だ」


「それ、下着」


「水を吸った」


「吸うけど!」


 あかりは一度、天井を見上げた。


 言いたいことは山ほどあった。ただ、ショーツをそんなところに置いていたのは自分である。神様の前で、ズボラな生活を反省する日が来るとは思わなかった。


 『せめて洗濯後の下着でありますように』と、心の中で祈った。


 祈ってから、祈る相手が目の前にいることに気づいた。


「……拭いてくれたんだね」


「水は広がる。待っていても消えぬ」


「うん。 そこに気づいたのは偉い」


「また、子どもに対する言い方だ」


「……ちょっとだけ」


「......」


「でも、次からは、ペットボトルは無理に開けないで」


「うむ......」


 あかりはため息をつきながらも、少し笑ってしまった。


 ある意味で大惨事ではある。


 でも、月読命はちゃんと対処しようとした。


 ちゃぶ台の上を見ると、菓子パンは置いた時のままだった。袋も開いていない。ペットボトルの水だけが、ほとんどなくなっている。


「ツク、これ食べなかったの?」


「我には不要だ」


 月読命は、はっきりと答えた。


 その直後だった。


 ぐう、と。


 六畳に、あまりにも人間らしい音が響いた。


 あかりは固まった。


「……今の」


「我だ」


「自己申告しなくていいよ」


 あかりは一度、深く息を吸った。


「お腹、すいてるんじゃない?」


 月読命は、まばたきをした。


「腹が」


「うん」


「空く」


「うん……」


 月読命は、真剣な顔であかりを見ている。


 冗談ではないのだろう。この神様がふざけるタイプには見えない。


 しかし。


「あんな強気で『我には、不要だ』って言ってたのに……神様でも、お腹は空くと?」


 あかりが目を窄めて追求すると、月読命は、自分の腹へ静かに視線を逃した。


「……分からぬ」


「分からないの?」


「神である我の身体が、何かを求めている。その事実が、分からぬ」


 あかりは、言葉を失った。


 神様なのにお腹がすく。しかも、自信満々で不要だと宣言していた。その事実は、普通なら笑える。


 でも、月読命の顔は笑っていなかった。


 自分でも説明できないものに、戸惑っている顔だった。


 あかりは、聞きたいと思った。


 どうして?何が起きているの?地上に降りてきたことと関係があるの?


 でも、目の前にいる月読命は、昼から何も食べずに、ずっと一人で待っていたのだ。難しい話を掘り返す前に、するべきことがある。


「……じゃあ、とりあえず食べよ」


 月読命が顔を上げる。


「食べる」


「うん。 難しい話は、そのあと」


「そなたは、いつも先に動くな」


「お腹空いてる人を前にして、神話考察してる場合じゃないでしょ」


「神話考察」


「こっちの話」


 あかりはスマホを取り出して、千晴にメッセージを送る。


『ツク、お腹すいてた』


 すぐに返信が来た。


『そりゃ生き物だからね』


 続けてもう一通。


『いや神様だけど』


 あかりは吹き出した。


「千晴、何と」


「そりゃ生き物だからね、いや神様だけど、って」


 月読命は少し考えた。


「我は生き物なのか」


「……そこも難しいね」


「難しいのか」


「うん。 少なくとも今は、お腹が鳴る存在ではある」


「腹が鳴れば、生き物ということか」


「たぶん違う」


「しかし、神とて生きてはおるぞ」


「そこは私も否定してない」


「何を食べたいか分かる?」


「分からぬ」


「だよね」


 あかりは、少しだけ考えた。


 神様が、自分の空腹に戸惑っている。それは笑えるようで、笑ってはいけないことのようにも思えた。


 あかりはスマホを握り直した。


「じゃあ、食べに行こう」


 月読命が、ゆっくりと顔を上げる。


「食べに」


「うん。 まずは、お腹を満たす」


「腹を、満たす」


「そう。 たぶん、それが今いちばん大事」


 月読命は、しばらくあかりを見ていた。


 やがて、小さくうなずいた。


「……そうだな」


 神様が腹を空かせている。


 そんな一文は、普通なら安心して見ていられる物語や映画の中に出てくるものだ。


 でも今、それは目の前の現実なのだ。


 あかりは財布とスマホを持ち、月読命を促して玄関へ向かった。


 夜の京都は、昼間の熱をまだ残していたけれど、空に浮かぶ月が、その熱を幾分かやわらげている。


 あかりは月読命と並んで、夜の道へ踏み出した。

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