第13話 神様、腹が減る
太陽は、京都の通りの上に、黄色く張りついている。さっきまで冷房の効いた服屋の中にいたせいで、外へ出た瞬間、あかりの首筋に汗がにじんだ。
月読命は、服屋で選んだグレーの半袖シャツに白いTシャツを重ね、黒に近い細身のズボンを穿いていた。長い黒髪は、ヘアゴムで低い位置にまとめられている。ストールは外して、キャップを被らせたら、昨日の夜に月読神社で出会った時よりは、ずいぶん人間の世界に紛れられる格好になっていた。
けれど、完全に普通かと言われると、そんなことはない。
背筋の伸び方も、視線の静けさも、何もしていないのに空気の中で妙に浮いて見える感じも、やっぱり人とは違う。
服を替えたくらいで、神様が普通の観光客になるわけがなかった。
でも。
あかりは、月読命の横顔を盗み見た。
昨日よりは、近い。
遠い月の上にいる神様ではなく、自分の隣を歩く誰かに、少しだけ近づいた気がした。
「……何だ」
月読命が、あかりの視線に気づいた。
「何でもない」
「そうか」
「そういうの、気づかなくていいから」
「なぜだ」
「こっちにも都合があるから」
月読命は、分からないという顔をした。
その反応が、もう少しだけ普通になってきた気がして、あかりは余計に困る。
千晴がスマホを確認しながら、横から声を挟んだ。
「あかり、バイト何時から?」
「十四時から。 だから、一回帰って、ちょっと準備して、それから行く」
「けっこうギリじゃない?」
「うん。 正直、まあまあギリ」
あかりは現実を見た。
昨日の夜、月読命と出会った。
そこから逃げて、部屋に連れて帰って、寝落ちして、朝起きて、千晴が来て、説教されて、コンビニに行って、水を買って、服屋で服を買った。
一日分どころか、三日分くらいの出来事があった気がするのに、現実の時間はまだ、満月の夜の翌日でしかない。そして、汐見あかりは大学生であり、コンビニバイトの人間である。神様が部屋にいようが、月明かりの下で人生が変わろうが、シフトは消えない。
「行くのか」
月読命が言った。
「行かなきゃ。 急に休んだら迷惑がかかるし」
「迷惑」
「うん。 シフトに穴が空く」
「穴が空くのか」
「物理的な穴じゃない」
あかりが言うと、千晴がすぐに補足した。
「人手が足りなくなるってことです、月読さん」
「なるほど」
月読命は、あかりと千晴を順に見た。
「人の世では、人が一人欠けるだけで、場が乱れるのだな」
「まあ、コンビニは特にね」
あかりは苦笑した。
「私がいなくても世界は回るけど、店長は困る」
「世界より店長が先なのか」
「今の私の世界ではね」
月読命は、また分からないという顔をした。
千晴が自分のスマホを見ながら、小さくため息をついた。
「私もこのあとバイト。 夕方からだけど、一回帰らないと無理」
「千晴も?」
「うん。 あかりだけ働かせて、私だけ遊んでるわけじゃないので」
「偉い」
「言い方が子どもに対するやつ」
「じゃあ、社会人みたい」
「大学生です」
千晴は短く返してから、月読命を見た。
「というわけで、月読さん。しばらく一人で待機です」
「待機」
「はい。 あかりの部屋で、夜まで大人しく待つ」
「大人しく」
「勝手に外に出ない、窓から出ない、壁を抜けない、あと、部屋にある分からない箱とか機械は触らない」
「分からぬものは、触らぬ」
「そうです。 ペットボトルを奉らない」
「それはもう理解した」
「ならよし」
千晴はうなずいた。
あかりは少し心配になった。
「でも、本当に一人で大丈夫かな」
「大丈夫ではないと思う」
「即答しないで」
「でも、連れていけないでしょ。 バイト先に」
「それは無理」
コンビニに月読命を連れていく。想像しただけで、あかりに変な汗が流れた。昨日の夜に現れた神様を、コンビニのバックヤードに置いておくわけにもいかない。
「じゃあ、部屋で待っててもらうしかないよね」
「うん」
「危ないものは隠して、ガスは触らせない。電子レンジも無理、包丁も無理、ベランダにも出さない。 水道は……まあ、水道くらいはいいか」
「水道も神妙に見つめそうだけどね」
「それくらいなら許容範囲じゃん」
あかりは、月読命を見た。
「ツク、夜まで部屋で待ってられる?」
「待つことはできる」
「本当に?」
「長い時を、月の巡りとともに過ごしてきた」
「スケール、でかっ!」
「数時間であれば、問題ない」
そう言われると、確かに待つこと自体は得意そうだ。月の神様が、六畳の部屋でじっと待つ。
想像すると、シュールだ。
「じゃあ、帰ろう。 バイト行く準備しなきゃ」
千晴と別れて、あかりが歩き出すと、月読命も静かについてきた。
新しい服を着た月読命は、夏の京都の昼の往来の中にいる。それは、やっぱり不思議だったけれど、今は考えている時間がない。
バイトに遅れる。
それは、神話と比べるべくもなく差し迫った現実だった。
*
部屋に戻ると、六畳の空気は熱に満たされていた。あかりは窓を少し開け、エアコンをつける。冷たい風が小さく吹き出した。
月読命は、エアコンの風を見上げる。
「箱から風が出る」
「これはエアコン」
「えあこん」
「部屋を涼しくする機械。夏の味方です」
「人の世は、箱から風を出し、水を封じ、音の鳴る扉を開ける」
「まとめると変な文明だね」
「変ではある」
「否定して」
あかりはバッグの中身を確認し、財布とスマホ、バイト先のロッカーの鍵を入れ直した。髪も、鏡の前で結び直す。時計を見ると、あまり余裕はなかった。
「ツク、私はバイトに行くから。 ここで待ってて。 絶対に外に出ないでね」
「心得た」
「あ、あとこれ」
あかりは小さな台所の横にある白い箱を指さした。
「冷蔵庫」
「れいぞうこ」
「食べ物とか飲み物を冷やして入れておく箱。勝手に開けないで」
「食物を、箱に入れて冷やすのか」
「うん。 そういうものなの」
「なぜ冷やす」
「長く置いておくため、かな。 傷みにくくなるから」
「食物は、時が経つと変わるのか」
「変わるし、悪くなる」
「……人の食物は、時にも弱いのだな」
「まあ、だいたいそう」
月読命は、納得したような、していないような顔で冷蔵庫を見ていた。食べ物に興味を持ったというより、人間の生活の仕組みをひとつ観察した、という顔だった。
「人は、日に食べるのか」
「......ああ、毎日食べるのか、ってこと? そりゃ食べるよ。 今日は、バイトの休憩中に何か買うと思う。 廃棄前のお弁当をもらえる時もあるし」
「そうか」
「……ツクは?」
「我は神だ」
「うん」
「食事は要らぬ」
「本当に?」
「問題ない」
あかりは、少しだけ眉を寄せた。
本当に問題ないのだろうか。
昨日の夜から、月読命が何かを食べたところは見ていない。水も、さっきようやく飲んだばかりだ。
神様だから平気。
そう言われれば、そうなのかもしれないけれど、今の月読命は、現代服を着て、自分の部屋に立っている。そう思うと、もう完全に遠い神話の中だけの存在には見えなかった。
「じゃあ、一応、これ置いとく」
あかりは、コンビニで買った水と、未開封の菓子パンをちゃぶ台に置いた。
「もし、何か変だなって思ったら、これ食べて。 袋はここから開ける。 分からなかったら、無理に開けないで待ってて」
「食べる必要はない」
「分かってる。 でも、念のため」
「念のため」
「そう。 現代人は念のためで生きてるの」
神様に対して、だいぶ雑な現代人代表をしている自覚はあった。でも今は、ひとつひとつ正しく説明している時間がない。
月読命は、その菓子パンを静かに見た。
「これは、供物か」
「違う。 非常食」
「ひじょうしょく」
「困った時に食べるもの」
「困ったら待つのではなかったか」
「待つ。 でも、お腹が空いたら食べてもいい」
「腹が......」
月読命は、まるで遠い言葉を聞いたように、それを繰り返した。
「我には、不要だ」
「……そっか」
あかりはそれ以上、強くは言わなかった。ただ、ちゃぶ台の上に水と菓子パンを置いたままにした。
そして、メモを書いた。
『神力は絶対使わない。外に出ない。火を使わない。冷蔵庫を勝手に開けない。困ったら待つ。あかりは夜帰る。』
書いてから、最後の一文に少し照れた。
でも、そのまま置いた。
「これ、読める?」
月読命はメモを見た。
「読める」
「じゃあ、これ守って」
「守る」
「本当に?」
「我は約した」
——約した。
その言い方が、古臭くてあかりは笑った。
「じゃあ、行ってきます」
「行ってくる、とは」
「出かける時の言葉。帰ってくる前提の言葉」
月読命は、その説明を聞いて、確かめるように言葉を繰り返した。
「帰ってくる前提か」
「そう」
「では」
月読命は、静かに言った。
「行って来るのだ、あかり」
胸の奥が、妙にきゅっとした。
こんなの、ただの挨拶だ。ただの言葉だ。
なのに、名前を呼ばれて、見送ってくれる人がいるみたいで、なんか嬉しい。
「……行ってきますなのだ」
口にしてから、あかりは一拍遅れて固まった。
「……今のなし」
「なぜだ」
「変な口調が移った」
「我のせいか」
「ツクのせい」
あかりは誤魔化すようにドアを開けた。外に出ると夏の熱気が、すぐに身体を包んだ。
鍵をかけるその音を聞きながら、あかりは小さく息を吐いた。
部屋に神様を残してバイトへ行くなんて、冷静に考えたら、どうかしている。
*
月読命は、六畳の部屋に一人残された。
ドアの向こうで、あかりの足音が遠ざかっていく。やがて、それも聞こえなくなり、部屋には箱から出る冷たい風の音だけが残った。
月読命は、しばらく玄関の方を見ていた。
——行ってきます。
帰ってくる前提の言葉。
人の世には、去る時にも、戻ることを含んだ言葉がある。
月読命は、それを不思議だと思った。
神域において、去ることは去ることだった。
戻るかどうかは、言葉ではなく、定めや命によって決まる。
けれど、あかりは当たり前のように言った。
——夜には帰るから。
帰ってくる前提。
その言葉は、部屋の中にまだ残っているようだった。
月読命は、ゆっくりと部屋の中を見回した。
六畳の部屋には、小さなちゃぶ台と布団、本棚、洗濯物を入れる籠、小さな台所が収まっている。壁にはエアコンがあり、窓にはカーテンがかかっていた。人一人の生活を収めるには狭い。
けれど、月読命から見ると、知らない物ばかりだ。
あかりが毎日使うもの、あかりが選んだもの、あかりが置いたもの、あかりが忘れているもの。
どれもが神域にはなかった。
月読命は、ちゃぶ台の前に座った。
正座ではない。千晴に「椅子じゃない床生活なら、普通に座ってください」と言われたことを思い出し、足を少し崩して座る。
普通に。
普通という言葉も、難しい。
しばらく、何もしなかった。
窓の外から、車の音が聞こえる。人の声がする。遠くで、蝉が鳴いている。
月読命は、ちゃぶ台の上のメモを見た。
『神力は絶対に使わない。外に出ない。火を使わない。冷蔵庫を勝手に開けない。困ったら待つ。あかりは夜帰る。』
困ったら待つ。
——困る。
困ることなど、記憶を探っても出てこなかった。大抵のことはどうにかなった。どうにでもしてきた。
——人の世に降りてきたのは幾歳月ぶりのことであろうか。こんなにも繁栄していたとは......人の世の物も、理解できずとも壊さずに避けることはできる。
あかりが戻るまで、ただ待てばいい。
月読命は、そう思っていた。
しかし。
しばらくして、腹の奥で、何かが鳴った。
ぐう、と。
六畳に、聞き慣れない音が響いて、月読命は静かに顔を上げた。
部屋を見る。
もう一度、鳴った。
——ぐう。
今度は、はっきり分かった。
自分の腹だ。
月読命は、自分の腹に視線を落としながら思った。
痛みはない。外からの攻撃でもない。何かが、内側で起こっている。何か空洞のようなものが、身体の中にできている。そこが、何かを求めている。
月読命は、しばらくその感覚の名を探して、やがて思い当たる。
——空腹。
腹が、空く。
月読命は、低く息を吐いた。
これは弱さではない。
そう思おうとした。
けれど、腹の奥はまた小さく鳴った。
神である自分の身体が、何かを求めている。その事実だけが、静かにそこにあった。
なぜ、こんな感覚があるのか。なぜ、地上に降りた自分の身体が、これほど人に近い反応をするのか。
月読命には分からなかった。
分からないまま、どこか遠い記憶の底で、食物と、怒りと、踏みにじられた何かの気配だけがかすかに揺れた。
月読命は、ちゃぶ台の上の菓子パンを見た。
あかりが置いていった食物。粗末にしてよいものではない。あかりは、何か変だと思ったら食べていいと言っていた。
だが、月読命は手を伸ばさなかった。
我には、不要だ。そう言った。
そして何より、自分の身体が食物を求めているという事実を、まだ認めたくなかった。
腹は、また鳴った。
月読命は、静かに耐えたていたが、次第に喉が渇いた。
ちゃぶ台の上には、あかりが置いていったペットボトルがある。少し前、あかりに教えられながら、ようやく飲めた水。
月読命はそれを見つめた。
もう一度、喉の奥が渇きを訴える。
月読命は、ペットボトルを手に取った。今度は、キャップの部分をつままず、胴を握る。あかりに教えられた通り。ボトルを押さえ、キャップだけを回す。
「……こうだったな」
月読命は、慎重にキャップへ指をかけた。だが、慎重さと力加減は別のものだった。白い蓋を回そうとした瞬間、透明なボトルの胴が、ぐしゃりと大きくへこんだ。
次の瞬間。
水が跳ねた。
勢いよく口元から噴き上がり、月読命の手を濡らし、ちゃぶ台を濡らし、床の上へ広がっていき、水が六畳の部屋に流れ出す。さらに、自らの服にもシミが広がる。
「……冷たい」
月読命は、しばらく動けなかった。
手の中には、へこんで少しだけ小さくなった器。目線の先には、広がっていく水。
ちゃぶ台の端から、ぽたり、と雫が落ちた。
月読命は、静かに床を見て思った。
これは、敵ではない。災厄でもない。だが、あかりの部屋に広がっている。
月読命は、ゆっくりと視線を上げた。
ちゃぶ台の上には、あかりのメモがある。
『困ったら待つ。』
月読命は、もう一度、床を見た。
待てば、水は消えるのか。いや、おそらく、消えない。では、どうする。
月読命は、部屋を見回した。
——物が多すぎる。どうすべきか......。
その中で、白い布を見つけた。
たしか、朝、あかりが顔を拭いていたものに似ている。
月読命はそれを手に取った。そして、床の水にそっと置いた。
水が布に吸われていく。
「……これだ」
月読命は少しだけ目を細めた。
布は、水を吸い取る。だが、すべては受け取れない。床には、まだ水が残っている。
月読命は、布を探して重ねた。もう一枚、さらにもう一枚と。
六畳の部屋で、月の神様が、こぼした水を拭いていく。
*
バイト中、あかりは何度も時計を見た。
入口で聞き慣れたメロディーが鳴るたび、あかりはいつもどおり「いらっしゃいませ」と声をかけた。レジを打ち、公共料金を受け取り、揚げ物を補充する。ペットボトル飲料を並べながらも、頭の隅ではずっと六畳の部屋のことを考えていた。
月読命は大丈夫だろうか。冷蔵庫を開けていないだろうか。エアコンに話しかけていないだろうか。窓から出ようとしていないだろうか。
——いや、窓から出るって何。
自分で考えて、自分で不安になった。休憩時間には、廃棄処分待ちだった小さな弁当をもらった。 朝からまともに何も食べていなかった身体に、冷めかけたご飯と梅干しの塩気が染みる。
食べながら、あかりはふと思った。「ツク、本当に大丈夫かな」と。自分はこうして食べられる。でも、部屋に残した月読命は、たぶん何も食べていない。本人は、神だから食事を取らなくても平気だと言っていたけど、神様の「平気」は、どこまで信じていいのだろうか。
千晴からメッセージが来ていた。
『月読さん、生きてる?』
あかりは即座に返す。
『神様だからたぶん生きてる』
少しして、返信が来た。
『そういう問題じゃない』
『分かってる。 心配』
『バイト終わったら直帰しなよ』
『うん』
『あと、絶対に部屋の惨状を写真で送って』
『惨状前提やめて』
『月読さんが一人で六畳にいるんだよ?』
『否定できない』
あかりはスマホを見ながら、笑った。心配なのに、笑ってしまう。
それが不思議だった。
昨日の夜は、怖いというより、分からなかった。今日の朝も、混乱していた。でも今は、六畳の部屋に月読命がいることを、受け止め始めている。
おかしな話だ。
一日しか経っていない。まだ、何も分かっていない。月読命がなぜ地上に降りてきたのか、誰かが追ってきているのか、なぜ帰れないのか。
それなのに。
あかりは、バイトが終わったら早く帰りたいと思っている。部屋に帰れば、月読命がいることが、心配で、落ち着かなくて、少しだけ嬉しい。
「汐見さん、休憩終わりね」
「あ、はい!」
店長の声で、あかりは我に返った。
スマホをしまって仕事に戻る。
外は少しずつ、夕方へ近づいていた。
*
あかりが部屋に戻ったのは、二十一時を少し過ぎた頃だった。
階段を上がりながら、心臓が少し速くなる。
鍵を取り出してドアの前に立った。中から物音はしない。
静かすぎる。
あかりは、はやる気持ちを抑えて、鍵を回してドアを開ける。
「ただいま」
言ってから、少しだけ照れた。
昨日までは、一人暮らしの部屋に帰っても、ただいまなんて言わなかった。
部屋の奥には、月読命がいた。
ちゃぶ台の前に、静かに座っている。
——正座だ。
姿勢は崩れていないし、部屋も壊れていないし、冷蔵庫も無事だ。エアコンも動いている。
あかりは、ほっと息を吐いた。
「よかった。 ちゃんと待ってた」
「約した」
「偉い」
月読命は、あかりと千晴の会話を覚えていたのか、少しだけ眉を寄せて言った。
「それは、子どもに対する言い方であろう」
「ちょっとだけ」
「ちょっとだけ、子どもなのか」
「......ちょっとだけね」
イタズラっぽく笑いながら、あかりは靴を脱ぎ、バッグを置いた。そこで、足元に少しだけ違和感を覚えた。
床が、かすかに湿っている。
「……ツク、カーペットが、ちょっと湿ってない?」
月読命は、静かに答えた。
「水の封を解こうとして、失敗した」
「現代生活、まずフタから難所なの?」
「封じられていた水ではなかったのか」
「ペットボトルです」
「ぺっとぼとる」
「で、こぼしたの?」
「こぼした」
「どれくらい?」
月読命は、ほんの少しだけ視線をそらした。
あかりは嫌な予感がした。
「どれくらい?」
「かなり」
「ああ……」
あかりは頭を抱えた。
見ると、部屋の端に濡れたタオルが数枚、きちんと重ねられていた。そして、その上に白いショーツが二枚、同じようにきちんと重ねられていた。
きちんと。
ものすごくきちんと。
濡れたタオルとショーツが、神事の後の供物みたいに整然と積まれていた。
「……ツク」
「何だ」
「それ、下着」
「水を吸った」
「吸うけど!」
あかりは一度、天井を見上げた。
言いたいことは山ほどあった。ただ、ショーツをそんなところに置いていたのは自分である。神様の前で、ズボラな生活を反省する日が来るとは思わなかった。
『せめて洗濯後の下着でありますように』と、心の中で祈った。
祈ってから、祈る相手が目の前にいることに気づいた。
「……拭いてくれたんだね」
「水は広がる。待っていても消えぬ」
「うん。 そこに気づいたのは偉い」
「また、子どもに対する言い方だ」
「……ちょっとだけ」
「......」
「でも、次からは、ペットボトルは無理に開けないで」
「うむ......」
あかりはため息をつきながらも、少し笑ってしまった。
ある意味で大惨事ではある。
でも、月読命はちゃんと対処しようとした。
ちゃぶ台の上を見ると、菓子パンは置いた時のままだった。袋も開いていない。ペットボトルの水だけが、ほとんどなくなっている。
「ツク、これ食べなかったの?」
「我には不要だ」
月読命は、はっきりと答えた。
その直後だった。
ぐう、と。
六畳に、あまりにも人間らしい音が響いた。
あかりは固まった。
「……今の」
「我だ」
「自己申告しなくていいよ」
あかりは一度、深く息を吸った。
「お腹、すいてるんじゃない?」
月読命は、まばたきをした。
「腹が」
「うん」
「空く」
「うん……」
月読命は、真剣な顔であかりを見ている。
冗談ではないのだろう。この神様がふざけるタイプには見えない。
しかし。
「あんな強気で『我には、不要だ』って言ってたのに……神様でも、お腹は空くと?」
あかりが目を窄めて追求すると、月読命は、自分の腹へ静かに視線を逃した。
「……分からぬ」
「分からないの?」
「神である我の身体が、何かを求めている。その事実が、分からぬ」
あかりは、言葉を失った。
神様なのにお腹がすく。しかも、自信満々で不要だと宣言していた。その事実は、普通なら笑える。
でも、月読命の顔は笑っていなかった。
自分でも説明できないものに、戸惑っている顔だった。
あかりは、聞きたいと思った。
どうして?何が起きているの?地上に降りてきたことと関係があるの?
でも、目の前にいる月読命は、昼から何も食べずに、ずっと一人で待っていたのだ。難しい話を掘り返す前に、するべきことがある。
「……じゃあ、とりあえず食べよ」
月読命が顔を上げる。
「食べる」
「うん。 難しい話は、そのあと」
「そなたは、いつも先に動くな」
「お腹空いてる人を前にして、神話考察してる場合じゃないでしょ」
「神話考察」
「こっちの話」
あかりはスマホを取り出して、千晴にメッセージを送る。
『ツク、お腹すいてた』
すぐに返信が来た。
『そりゃ生き物だからね』
続けてもう一通。
『いや神様だけど』
あかりは吹き出した。
「千晴、何と」
「そりゃ生き物だからね、いや神様だけど、って」
月読命は少し考えた。
「我は生き物なのか」
「……そこも難しいね」
「難しいのか」
「うん。 少なくとも今は、お腹が鳴る存在ではある」
「腹が鳴れば、生き物ということか」
「たぶん違う」
「しかし、神とて生きてはおるぞ」
「そこは私も否定してない」
「何を食べたいか分かる?」
「分からぬ」
「だよね」
あかりは、少しだけ考えた。
神様が、自分の空腹に戸惑っている。それは笑えるようで、笑ってはいけないことのようにも思えた。
あかりはスマホを握り直した。
「じゃあ、食べに行こう」
月読命が、ゆっくりと顔を上げる。
「食べに」
「うん。 まずは、お腹を満たす」
「腹を、満たす」
「そう。 たぶん、それが今いちばん大事」
月読命は、しばらくあかりを見ていた。
やがて、小さくうなずいた。
「……そうだな」
神様が腹を空かせている。
そんな一文は、普通なら安心して見ていられる物語や映画の中に出てくるものだ。
でも今、それは目の前の現実なのだ。
あかりは財布とスマホを持ち、月読命を促して玄関へ向かった。
夜の京都は、昼間の熱をまだ残していたけれど、空に浮かぶ月が、その熱を幾分かやわらげている。
あかりは月読命と並んで、夜の道へ踏み出した。




