第12話 神様、服を着る
通りの向こうに、カジュアル衣料店の看板が見えている。全国どこにでもありそうな、明るくて安くて、大学生にも入りやすい店。
月読命の今の格好は、かなり危うい。
キャップとストールでごまかしているとはいえ、白銀めいた衣の気配は完全には消えていない。長い黒髪も、顔立ちも、立ち姿も、どうしても人目を引く。
昨日の夜よりはまし。
でも、ましなだけだ。
「よし」
あかりは小さく気合を入れた。
「ツクを現代人にします」
「我は人ではない」
「そういうことを店内で言わないね」
千晴が即座に言った。
「月読さん、今からはとにかく普通の観光客です」
あかりは、そこで少しだけ瞬きをした。
月読さん。
昨日まで、千晴はずっと「月読命さん」と呼んでいた。少し距離を置いた、丁寧で、警戒も混ざった呼び方だった。
それが今、自然に短くなった。
月読命も気づいたのか、わずかに千晴の方を見る。
千晴は、何でもない顔をしていた。
「何ですか」
「いや」
月読命は静かに答えた。
「呼び名が変わった」
「変でした?」
「いや」
月読命は少し考えたあと、言った。
「好きに呼べば良い」
千晴は特に表情を動かさずに言った。
「じゃあ、それで」
それだけだった。
でも、あかりには分かった。これは、千晴なりの受け入れ方だ。完全に信じたわけじゃない。何もかも納得したわけでもない。それでも、昨日突然現れた危険な不審者ではなく、あかりの隣にいる変な人として、日常の中に入れ始めている。
あかりは、なぜか少し嬉しくなった。
「なに笑ってるの」
「いや、千晴が月読さんって言ったなと思って」
「深い意味はない」
「あるでしょ」
「ない」
「絶対ある」
「服、買うよ」
「話そらした」
「そらしてない。現実を見てる」
千晴は店の入口へ歩いていった。
自動ドアが開く。
月読命は、今度は立ち止まらなかったけれど、開いたドアをほんの少しだけ見てから、中へ入った。
――成長している。
あかりは心の中で、小さく拍手した。
*
店内は、コンビニとは違う明るさだった。
白い照明。整然と並んだ色とりどりの服。壁に掛けられたシャツ。棚に重ねられたパンツ。ハンガーが触れ合う軽い音。どこかから流れる穏やかな店内音楽。
月読命が周囲を見回しかけたので、あかりはすかさず小声で言う。
「そんなに見ない」
「またか」
「またです」
千晴も言った。
「服屋で全部じっと見ると、完全に初来店の外国人観光客か、挙動不審な人になります」
「我は初めて来た」
「事実をそのまま態度に出さないでください」
月読命は少しだけ眉を寄せた。
「人の世では、初めて見るものを初めて見るように見てはならぬのか」
「うん」
「難しいな」
「でしょうね」
千晴が淡々と答える。
あかりは店内を見回した。
「とりあえず、Tシャツとパンツかな。あと、羽織れるシャツ。靴は……今日は昨日のやつのままでぎりぎりいける?」
「靴も変えた方がいいけど、まず服だね」
千晴が月読命を上から下まで見るその視線があまりにも冷静で、あかりは少しだけ感心する。まだ、月読命を正面から見るとどこか落ち着かないからだ。
綺麗すぎるのだ。
神様だと分かっていても、いや、分かっているからこそ、見慣れない。
けれど千晴は違う。採寸でもするような目で見ている。
「背が高いから、サイズはLかXLかな。肩幅もあるし」
「肩幅……」
あかりは思わず月読命の肩を見た。
確かに広い。
昨夜、あの肩にしがみつき、腕に抱えられていたことを思い出しそうになり、慌てて目をそらす。
――だめだ。思い出すな。あれは緊急事態だった。お姫様抱っこではない。人命救助。神命救助。
いや、神命って何。
「顔赤いけど」
千晴が言った。
「暑いだけ」
「店内、冷房効いてるよ」
「内側が夏」
「ああ、そっちね」
月読命が、二人を見ていた。
「そなたは暑いのか」
「暑くない!」
「今、暑いと言った」
「そういう意味じゃない!」
「また不可解なことを」
「現代の常識です!」
「常識なわけない」
千晴が横から小さく刺した。
あかりは反論できなかった。
*
千晴は手際よくハンガーを取り、まずは無難な黒いTシャツを選んだ。次に、白いTシャツ。そして、薄いグレーの半袖シャツ。
月読命の体の前に次々と当てていく。
「黒は似合うけど、ちょっと迫力が出すぎる」
「分かる。夜の神様感が増す」
「白は今の衣と近すぎる」
「神様感が消えない」
「グレーは?」
千晴が半袖シャツを当てると、あかりは見入ってしまった。
月読命の白銀めいた衣の上に、淡いグレーのシャツを重ねる。それだけで、ほんの少し、地上の人に近づいた気がした。完全に普通にはならない。
それでも、隣を歩いてもぎりぎり言い訳ができる。
――服の力ってすごい。
「いいかも」
「うん。これ、よさそう」
あかりも千晴も同時にうなずく。
月読命は、自分の前に当てられた服を見ていた。
「これらは、そなたたちが選ぶのか」
「うん。自分で選べる?」
「選ぶ基準が分からぬ」
「ですよね」
千晴が即答した。
「じゃあ、とりあえずこっちで選ぶ。月読さん、嫌な色とかある?」
「嫌な色」
月読命は、店内を見回した。
青、白、黒、灰色、緑、赤、紺。色とりどりの服が並んでいる。
月読命は少し考えてから、あかりを見た。
「そなたが選べ」
「私?」
「そなたが、我を人の世に近づけようとしている」
「それは、そうだけど」
「ならば、そなたが見て、よいと思うものがよい」
まただ。
この神様は、どうしてそういうことを真顔で言うのか。たぶん、何も分かっていないのだろう。『服を選ぶ』という日常的な行為に、どれだけの親密さが含まれてしまうのか。
自分が選んだ服を、月読命が着る。それだけのことだ。ただ、それだけのことなのに。
「……じゃあ、これ」
あかりはグレーのシャツを少し強く握った。
「これがいいと思う」
「うむ」
月読命はうなずいた。
迷いがない。
それもまた、ずるい。
「はいはい」
千晴がハンガーを取った。
「じゃあ、試着しましょう」
「しちゃく」
「着てみること」
「ここでか」
「ここでは着ない」
「では、どこで」
「試着室」
千晴が店の奥を指差した。
月読命は、カーテンで仕切られた小さな空間を見た。
「小さき部屋か」
「服を試すための場所」
「店の中に、衣を替えるための小部屋があるのか」
「着替えるからです」
「ここで衣を替えるのか」
あかりは一瞬だけ固まった。千晴は、言葉を選ぶように視線を斜め下に落とし、それから、月読命を見据えてはっきりと話した。
「月読さん、とりあえず中で着替えてください」
千晴は、月読命の手に下げられているコンビニ袋を指さした。
「まず、さっきコンビニで買ったものから。靴下と、肌着。袋から出してください」
「肌着」
「人の衣の下に着るものです」
千晴は、淡々と言った。そして、あかりが服の着方を月読命に教える。
「上は、肌に近いところに着るの。前後を間違えないようにね。タグがある方が首の後ろに来るように頭を通すんだよ。下は……」
「下は?」
月読命が静かに聞き返した。
あかりは、その時点で固まった。
頬が熱くなる。
耳まで熱い。
なぜ自分は、服屋の試着室の前で、月の神様に下着の着方を説明しているのだろう。
千晴が平然と続きを説明してくれた。
「下は、腰で穿くものです。足を左右に通して、引き上げます」
「腰で、穿く」
「そうです。細かい説明はしません」
「なぜだ」
「しません」
千晴がきっぱり言った。
あかりも、赤い顔のまま何度もうなずいた。
「とにかく、肌に近いものから順番に着てください。肌着、靴下、Tシャツ、パンツ、最後にこのシャツ。分からなかったら声をかけてください。ただし、カーテンは開けないで」
「開けてはならぬのか」
「絶対に」
千晴が言った。
「絶対に!」
あかりも思わず重ねた。
月読命は、二人の反応を静かに見比べた。
「……分かった」
月読命は試着室へ入って行った。
そして、カーテンが閉まる。
あかりは、息が荒くなっていることに気づいた。
別に何もない。
ただ着替えているだけだ。
服を買いに来て、試着しているだけ。
――なのに、カーテン一枚向こうに白銀の衣を脱いだ月読命がいると思うと......。
「顔」
千晴が言った。
「何」
「また変」
「......変じゃない」
「分かりやすいなあ」
「何が」
「いや、別に」
千晴の口元を少しだけ歪めたその顔は、何かを分かっている顔だ。
「千晴」
「何」
「今、何か思ったでしょ」
「思った」
「何」
「言ったら怒ると思う」
「じゃあ言わないで」
「うん」
言わないでくれるのはありがたい。でも、言わないことで余計に分かることもある。
あかりは、手に持ったハンガーを熱くなったお腹の下あたりで、意味もなく持ち直した。
カーテンの向こうで、布が動く気配がした。妙に大きく聞こえる衣擦れの音に、あかりの耳が熱くなる。
――だめだ。本当にだめだ。
現代服を買っているだけ。ただの生活準備。ただの買い物。
でも......、昨日まで月明かりの下にいた神様が、今は試着室の中で、素肌の上から......自分が選んだ服に着替えている。
「……あかり」
カーテンの向こうから月読命の声がした。
「な、な、何ぃ?」
「これは、首を通す場所が二つあるのか」
「ない! ないよ! 一つ!」
「腕を通す場所と似ている」
「待って、今どういう状態!?」
「開けてはならぬのだろう」
「開けないで! 開けないでいいから!」
千晴が肩を震わせ始めた。
「笑わないでよ!」
「無理」
「千晴!」
「だって、あんたテンパりすぎ!そして、神様がTシャツに負けてる」
「神様対Tシャツ!?」
試着室の中から、月読命が反論した。
「負けてはおらぬ」
その一言は、妙に神様の矜持が出ていて、あかりは思わず吹き出しかけた。
「......ッ、ツク......、タグが後ろ。首のところに、小さい布ある?」
「ある」
「それを背中側にして」
「背中」
「うん。背中」
「分かった」
しばらく、静かな格闘の気配が続いた。そして、カーテンの向こうが静かになった。
「できた?」
「おそらく」
「おそらく?」
「合っているかは分からぬ」
千晴が一歩前に出た。
「月読さん、カーテンを少しだけ開けてください」
「分かった」
カーテンがほんの少しだけ開き、まず千晴がその隙間から中を確認した。上から下まで、淡々と視線を動かすその顔は、冷静だった。
冷静すぎて、逆に怪しい。
あかりは、その横で息を潜めていた。
「……ちゃんと着れてる」
千晴は相変わらず冷静に言った。
ただ、その声には、ほんの少しだけ残念そうな響きが混じっていた。
「なんでちょっと残念そうなの!」
あかりは思わずツッコんだ。
「いや、もう少し向きとか、重ね方とか、いろいろ間違えてる可能性を想定してたから」
「本当にそれだけ!?」
「それだけです」
「今、目がちょっと違った!」
「確認です」
「確認の範囲、広くなかった!?」
「安全確認」
「何の安全!?」
千晴は、こほんと小さく咳払いをした。
「月読さん、開けて大丈夫です。全体を見せてください」
「分かった」
カーテンが、ゆっくり開いた。
グレーの半袖シャツ。中に覗く白いTシャツ。黒に近い細身のズボン。
月読命はまったく違って見えた。
神様ではない。いや、神様なのは変わらない。背筋の伸び方も、目の静けさも、どこか人間離れしている。それでも、さっきまでよりずっと、隣を歩ける人に見えた。
京都に旅行に来た、少し目立つ男の人。黙っていれば、そう見えなくもない。
黙っていてくれれば。
「……どうだ」
月読命が聞いたが、あかりはすぐには答えられなかった。
似合っている。とても似合っているのだ。
それは間違いないのに、『似合っている』と言った瞬間、自分の中の何かが変な方向へ転びそうで怖かった。
「いいんじゃない」
先に千晴が言った。
「かなり自然になった」
「自然」
「少なくとも、神様には見えにくくなった」
「それはよいことなのか」
「今は、すごくよいことです」
月読命は、あかりを見た。
「そなたは」
「え?」
「そなたは、どう思う」
完全に目を捉えられて、まっすぐに聞かれてしまった。
あかりは、自分の頬が熱くなるのを感じて目を逸らした。けれど、逸らした先の鏡に映る月読命は、視線をあかりに注いだままだ。
そんな視線を向けられ続けていては、もう言わざるを得なかった。
「……似合ってる」
声は小さかった。
「そうか」
「うん」
「ならば、これにする」
あまりにも簡単に決められてしまったことに、あかりは複雑な気持ちになる。正直、嬉しい。でも、本当に言われるがままに決めて後悔はないのか。
「いや、他のにしてもいいんだよ」
「そなたが似合うと言った」
「言ったけど」
「ならば、これでよい」
千晴が横で、小さく息を吐いた。
「これはまた」
「何」
「いや、あかり、頑張って」
「何を!?」
「いろいろ」
「分かりたくないけど、何となく分かるのが嫌!」
月読命の『何が問題なのか分からない顔』を見てあかりは少しだけ笑った。
昨日までは月読命のことが正直怖かった。今も怖くないわけではないけれど、少しずつ日常が混じっている。
自動ドア、入店音、ペットボトル、Tシャツ、試着室。
月の神様が、ひとつずつ人の世を覚えていくその横に、自分がいる。
そう思うと、胸の奥がくすぐったいような、苦いような、不思議な気持ちになった。
*
会計を終えて店を出る頃には、朝の涼しさはもう残っていなかった。
通りには人が増え、店先のシャッターも上がり、日差しは建物の影を短くしている。アスファルトの照り返しが、夏の匂いを濃くしていた。
月読命は、新しい服を着ていた。白銀の衣は、買った服と一緒に紙袋へ入れてある。
夏の光の下で見る月読命は、夜に見た時より少しだけ輪郭がやわらかく感じて、あかりは少しだけ驚いた。もしかしたら当たり前なのかもしれないけど、月の神様が夏の光の中でも、ちゃんと存在している。
「月読さん」
千晴が言った。
「その服なら、かなりましです」
「まし」
「褒めてます」
「そうか」
月読命は、服の袖を少しだけ見た。
「人の衣は短くて軽いな」
「動きやすいでしょ」
あかりが言うと、月読命はうなずいた。
「だが、頼りない」
「頼りない?」
「風も、光も、すぐに通しそうだ」
「夏服だからね」
月読命は、空を見た。
白い雲がゆっくり流れている。
昼の空に月は見えないけれど、月読命はそこにいる。
「人は、季節に合わせて衣を変えるのだな」
「うん。暑い時は薄くして、寒い時は厚くする」
「そのたびに、自分を少し変えるのか」
あかりは答えに迷った。
服の話をしているだけのはずなのに、月読命の言葉がなんとなく心の深くまで届いたようだった。
「まあ……そうかも。服って、自分を守るものでもあるけど、見せ方を変えるものでもあるし」
「見せ方」
「うん。どう見られたいか、とか。どこに行くか、とか。誰と会うか、とか」
言ってから、あかりは気づいた。
自分たちは今、月読命を『どう見られたいか』のために着替えさせたのだ。
神様ではなく、人間に見えるように。月明かりの存在ではなく、夏の道を歩く人に見えるように。
「ならば、今の我は、どう見られる」
どう見られる、か。
神様、不審者、観光客、綺麗な男の人。
あかりには、どれもが正しくて、どれも違うような気がした。
「……昨日より、近く見える」
あかりはそう言った。そう思ったことが言葉に出ていた。
月読命の目が、ほんの少しだけ揺れた。
「近く」
「うん。遠い神様っていうより、隣を歩いてる人っぽい」
言ってから、急に恥ずかしくなった。何を言っているのだろう。
――隣を歩いている人って。
それは単なる事実なのに、言葉にすると変だ。夫婦や恋人のような響きを持ってしまう。
月読命は、しばらく黙っていたが、やがて静かに言った。
「それは、悪くない」
あかりの胸が、小さく跳ねた。
千晴が、少し前を歩きながら言った。
「はい。いい空気に水を差すようで悪いけど、次は髪」
「髪?」
あかりと月読命の声が重なった。
千晴は振り返る。
「服が普通になったら、今度は髪が目立つ。長い黒髪をそのままゆるくまとめてるだけだと、やっぱり目を引く」
「切るの!?」
あかりは思わず大きな声を出した。
月読命も、ほんの少し目を見開いた。
「切るのか」
その声は、いつもよりわずかに硬かった。
千晴は二人を見比べ、そして、ため息をつく。
「切らない。今日は切らない」
「今日は?」
「今後は知らない。でも少なくとも今日は、結び方を変えるだけ」
あかりは、ほっとした。
月読命の黒髪。月明かりに照らされて煌めいていた長い髪。あの夜、月読神社で見た月読命の一部だ。
それが切られるところを想像して、胸が痛んだ。
「あかり」
月読命があかりを見た。
「なぜ、安堵した」
「え」
「髪を切らぬと聞いて、安堵した」
あかりは言葉に詰まった。千晴が、横からじっと見ている。
逃げたい。
でも、逃げ場がない。
「……似合ってるから」
あかりは、また『似合ってる』と言ってしまったことに気づき、慌てて言い訳した。
「その髪、綺麗だから急に切るのは、もったいない気がしただけ」
静かにあかりを見ていた月読命のその目が、柔らかさを帯びた。
「そうか」
――なんか、今の目、優しい......。
千晴が、今度こそ本当に大きくため息をついた。
「もう一回言うけど、ここ、昼の京都の往来だからね」
「分かってる!」
「甘い顔してた」
「してない!」
「月読さんも、そこで嬉しそうにしない」
「嬉しそうにしていたか」
「してました」
月読命は、少しだけ考えた。
「ならば、そうなのだろう」
「カマかけただけなんだけど、認めるんだ」
千晴が呆れたように言った。
夏の昼の道を、三人で歩く。
月読命は、現代の服を着ていて、手にはコンビニで買った水のペットボトルが握られていた。
昨日までなら、ありえない光景が現実としてここにある。
あかりは隣を歩く月読命を見上げた。
月の神様が自分の隣で、夏の京都を歩いている。




