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影添いの契 余白録 ―雨夜綴り―  作者:


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3/7

はじまりの手

雨の夜だった。


まだ、この場所に名前はない。


森は“近づいてはならないもの”として、ただ恐れられていた。


その入口に、一人の女が立っている。


年は若くない。

だが、老いてもいない。


ただ、どこか疲れたような目をしていた。


腕の中には、小さな布。


強く抱きしめているそれは——


もう、動かない。


「……どうして」


答えは、わかっていた。


それでも、口にせずにはいられなかった。


病だった。


村では、どうにもならないもの。


昔なら。


“差し出す”という選択があったのかもしれない。


だが、それはもう選ばれなかった。


だからこそ。


救われなかった命が、ここにある。


雨が、静かに降り続く。


女は、森を見つめる。


恐ろしい場所。


そう教えられてきた。


近づけば、何かに奪われると。


それでも——


足は、止まらなかった。


一歩。


また一歩。


ぬかるんだ地面を踏みしめて、奥へ。


やがて。


小さな開けた場所に出る。


そこに、“気配”があった。


白と、黒。


言葉にするより先に。


それが“そういうもの”だと、理解してしまう。


女の足が、止まる。


逃げるべきだ。


そう思うのに。


腕の中の重みが、それを許さない。


「……お願い」


声は、震えていた。


祈りだったのか。


縋りだったのか。


それとも——ただの叫びだったのか。


もう、自分でもわからない。


白は、動かない。


ただ、そこに在る。


黒が、わずかに視線を向ける。


その瞳に、強さはなかった。


ただ、静かに。


受け止めるような色だけがあった。


女は、ゆっくりと膝をつく。


そして。


腕の中の布を、そっと地面に置いた。


差し出したわけではない。


捧げたわけでもない。


ただ——


これ以上、抱えていられなかった。


「……ごめんね」


小さな声。


雨音に紛れて、消えそうになる。


そのとき。


黒が、ほんの少しだけ目を伏せた。


白が、わずかに寄る。


触れない距離で、並ぶ。


それ以上のことは、何も起こらなかった。


奇跡はない。


命は、戻らない。


それでも。


その場にあったものは——


奪う気配ではなかった。


責める気配でもなかった。


ただ、静かに“在る”もの。


女は、顔を上げる。


涙で滲んだ視界の中で。


その二つの影は、ただそこにいた。


「……そう、なんだね」


理解したわけではない。


けれど。


受け入れるしかない何かが、そこにあった。


女は、もう一度だけ手を合わせる。


願いではなく。


祈りでもなく。


ただ。


ここに在るものを、そのまま受け止めるために。


やがて。


彼女は立ち上がる。


振り返ることは、しなかった。


森を出るとき。


腕の中は、空だった。


それでも。


その足取りは、来たときよりもわずかに軽かった。


翌朝。


森の入口に、小さな石が置かれていた。


誰が置いたのかは、わからない。


その隣に、花が一輪。


また別の日には、別の誰かが手を合わせた。


やがてそれは、少しずつ形になっていく。


名前のなかった場所に、呼び名が生まれる。


——影添の社。


はじまりは。


祈りではなかった。


ただ、受け入れたという記憶。


そしてそれは——


今も静かに、受け継がれている。


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