【第2話】ひび割れた日常。新人騎士たちの初陣
かつてアルノたちが「エテルニス焼き」を頬張り、将来の夢を語り合ったタルタロスタウンの広場は、今日も変わらぬ活気に包まれていた。
春の陽光が石畳を暖かく照らし、色とりどりの露店からは香ばしいソースや、甘いお菓子の匂いが漂ってくる。
観光客たちは、天を突く巨大な岩山と、その入り口を護る高さ50メートルの『エテルニス(永遠の防壁)』を見上げ、その圧倒的な存在に感嘆の声を上げていた。
そう、いつもと変わらぬ平和そのものの昼下がり。
その静寂を破ったのは、微かな、しかし背筋が凍るような「異音」だった。
ピシッ!
と、氷が割れるような音が広場に響く。
直後、虹色に輝いていたはずのエテルニスの魔力結晶ガラスが、まるで故障しかけの映像投影機のように、わずかに明滅した。
直径20メートルに及ぶ巨大なルーンの一部が、砂嵐のようなノイズにかき消されていく。
「おい、見ろよ!門が……!」
誰かが叫んだ瞬間、ゆらめくガラスの向こう側から『それら』が飛び出してきた。
凄まじい圧力を感じさせる突進と共に姿を現したのは、全身を鋼のような剛毛で覆ったイノシシ型のビースト(狂獣)だった。
額からは禍々しい赤色の魔力結晶が突き出ており、その瞳には理性の欠片もない破壊衝動だけが宿っている。
続いて、大きなイタチのような姿をした二匹の小型ビーストが、異常な跳躍力で広場へと飛び出した。
彼らは細長い体をバネのようにしならせ、逃げ惑う人々の間を縫うようにして、獲物を探し鼻先を鳴らしている。
広場は一瞬にして阿鼻叫喚の地獄へと変じた。
「逃げろっ!魔獣だ!」
「誰か、騎士団を呼んでくれっ!」
「きゃあっ!いたいっ!」
逃げ遅れた一人の少女が、石畳に足を取られて転倒する。
その目の前には、よだれを垂らしながら突進の体勢を整える、イノシシ型のビーストが迫っていた。
絶望的な状況に、少女が目を閉じた、その時…。
シュッ、と鋭い風切り音が響き、少女の周囲の石畳に4本の金属製の杭が突き刺さった。
「バリア解放!」
凛とした声が響くと同時に、突き刺さった杭の間を青白い魔力のラインが走り、一辺5メートルほどの分厚い光の壁がビーストを閉じ込める。
突進してきたイノシシ型ビーストは、その強固な結界に正面から激突し、凄まじい衝撃音と共に、よだれを散らして弾き飛ばされた。
「全員下がって!みんなは民間人の避難を最優先に!」
広場の入り口から駆け込んできたのは、王国騎士団の真新しい制服とマントを身に纏った4人の男女だった。
先頭に立つのは、プラチナブロンドの髪をなびかせたシエル・ラインハルト。
その後ろには、冷静に魔力を練るエリシア、大きな猫の上でアイマスクをしたままのウィリー、そして陽炎のようにうまく姿を捉えられないセレンの姿がある。
「シエル、イノシシの足止めは完了しました。バリアの維持はマギアに任せます。私は……あっちを!」
エリシアが両手を左右に動かすと、彼女の周囲に二つの「小型キューブ結界」がふわりと浮かび上がった。
ガーディアン(結界師)にとって、自身の手から結界を離して操作するのは極めて高度な上級技術だ。
小型キューブは、突風のような速度で射出された。
それは結界の檻から逃れ、人々へ襲いかかろうとしたイタチ型のビーストの横腹へ正確にヒットした。
「ギャウッ!?」
不意の衝撃に、小型ビーストは石畳を転がり距離を取る。
「助かったわ、エリシア。こっちは私が掃除する」
シエルが腰の騎士剣を抜くと、刀身にプラチナ色のエーテルが炎のように立ち上がった。
エリシアが結界の檻に片手で触れ、その端を一瞬だけ開放すると、シエルはイノシシ型のビーストが待つ檻の中へと迷いなく飛び込んでいった。
「ハァッ!」
身体強化の魔力を両足にこめたシエルの踏み込みは、もはや人の目では追えない領域に達していた。
そして今度は魔力を脚から腕へ、一分の淀みもなく流転させる「ソーサナイト(魔導騎士)」の神速の一撃。
咆哮を上げて迎え撃とうとしたイノシシの視界から、プラチナ色の残像を残し、シエルの騎士剣が一瞬で消える。
ザンッ!!
すれ違いざまの一閃。
鋼のように硬いはずのビーストの体は、まるでバターを切るように、その首筋から一直線に両断された。
ドサリ、と重い音が響き、イノシシ型ビーストが沈黙する。
広場を覆っていた恐怖の空気が安堵に変わる……しかし、シエルの瞳に油断はない。
「ウィリー、セレン!弾かれた二匹が路地裏へ逃げたわ。あっちにはまだ避難が済んでいない人たちがいる。……追って!」
「オッケー、シエル。……さぁピロー、行こうか…」
ウィリーが声をかけると、巨大な猫型ファントム『ピロー』が、軽やかな足取りで石畳を蹴った。
「……了解。私からは逃がれられません」
セレンの声が、既に十数メートル先の屋根の上から響く。
二人のプロフェッショナルは、それぞれの獲物を仕留めるべく、迷路のようなタウンの路地裏へと疾風のように散っていった。
ーー
路地裏へと逃げ込んだイタチ型のビーストは、壁を垂直に駆け上がり、家々の軒先を飛び越えながら逃走を続けている。
タルタロスタウンの路地は入り組んでおり、さらに観光客向けの飾り付けや日除けのテントが視界を悪くしていた。
普通の騎士であれば、この迷路のような地形で素早い小型魔獣を追うのは至難の業だ。
しかし、ウィリーにとって死角は存在しない。
ウィリーは額にアイマスクをずり上げると、そのトパーズ色の瞳が鋭く光った。
「エーテルソナー、…展開」
ウィリーを中心に、目に見えない微細なエーテルの波がドーム状に広がり、半径500メートルほどをあっという間に埋め尽くした。
視界の利かない建物の角、積み上げられた木箱の裏、逃げ惑う人々の微かなエーテルの揺らぎ、そして、異質な魔力結晶の動き。
空間にあるすべての情報が、ソナーの反響となってウィリーの脳内に精緻な立体地図を描き出していく。
「……いた。2時の方向、173メートル。民家の裏庭に逃げ込んだね。…まずい、人がいる。1…2名」
ウィリーはピローの背に深くまたがり、毛並みに手を沈めて自身の魔力を流し込んだ。
テイマーにとって魔力での意思疎通は、言葉よりも早い。
ピローは「にゃおーん」と一声鳴くと、巨体をしならせて弾丸のような速度で曲がり角を抜け、狭い裏路地を突っ切る。
その裏庭では、大きな洗濯かごを落として腰を抜かしている老夫婦が震えていた。
彼らの眼の前には、身を低くして唸り声を上げ、今まさに飛びかかろうと後ろ足に力を溜めているイタチ型のビーストの姿があった。
額の紫色の結晶が、濁った光を放っている。
「ピロー、アイスウォール!」
ビーストが老夫婦の喉笛めがけて跳躍した、まさにその瞬間だった。
民家の屋根を飛び越えて現れたピローの長い尻尾の先から、氷河のごとく冷たい輝きを放つ魔石の力が発動する。
老夫婦とビーストの間の地面から、分厚く巨大な氷の壁が瞬時にせり上がった。
ガンッ!!
勢い余ったイタチ型ビーストが、氷壁に頭から激突して石畳に転がる。
「さぁ、君はここで終わりだよ…」
ウィリーはピローの背から見下ろし、いつもと変わらぬ眠たげな口調のまま、しかし一切の慈悲を排した声で告げる。
体制を立て直したビーストは、獲物を横取りされたことに激昂し、今度はピローとウィリーへと標的を変えた。
シャァァッ!と威嚇音を発しながら、ビーストは目にも止まらぬ速さで駆け出す。
民家の壁を蹴り、干してあったシーツを引き裂きながら、空中をジグザグに跳ね回る。
それは単調な突進ではなく、的を絞らせないための野生の本能からの行動だった。
「なかなかトリッキーな動きだね…、でも……」
ウィリーのソナーの前では、いかに不規則な動きだろうと、次にどこへ向かうかは完全に筒抜けだった。
「無駄だよ。……左の屋根から、3、2、1」
ウィリーのカウントダウンに合わせて、ピローはその場から一歩も動かずに尻尾を振り上げた。
魔石から放たれたのは、散弾状に広がる無数の氷のつぶて。
ビーストが死角をつくつもりで屋根からウィリーの背後へ向けて跳躍した瞬間、その着地点となる空中に、先回りするように氷の散弾が凄まじい勢いで降り注いだ。
「ギィッ、ガアァッ!」
空中で回避不能となったビーストの四肢を、鋭い氷のつぶてが次々と貫く。
血飛沫を上げて石畳に叩きつけられたビーストは、それでもなお、折れた足で這いずりながらウィリーを睨みつけていた。
額の結晶が異常な光を放ち、最後の足掻きで魔力を暴走させようとしている。
だが、王国騎士団の狩りは冷徹で完璧だ。
ウィリーはピローの首元を優しく叩き、最後の一撃を指示した。
「もう、おねむの時間だよ…。アイス・ファング…」
ピローの尾の魔石から、極太の氷の槍が一直線に放たれた。
それは抵抗しようとしたビーストの心臓を寸分の狂いもなく貫き、石畳に縫い付けると同時に、一瞬にして物言わぬ氷の彫像へと変えた。
「……大丈夫。もう怖くないよ」
ウィリーはピローにまたがったまま、腰を抜かして震えている老夫婦へ、安心させるように微笑みかけた。
そして、腰に下げた騎士団の支給品である通信用マギアを起動する。
「こちらウィリー。一匹討伐完了。怪我人はなし。そっちの処理班に、民間人の保護をお願い。…あ、それと、切り裂かれちゃった洗濯物とシーツの補償も、後で手配してもらえるかな」
いつもの気怠げな様子に戻りながらも、ウィリーはその視線をもう一匹が逃げた方向、セレンが向かった西の商業地区へと向けたのち、再びアイマスクを目元へと戻した。
これで、残るはあと一匹。
だが、心配は微塵もない。
王国騎士団の誇る最高の暗殺者が、その後を追っているのだから。




