見つかる前に
律の後ろ姿に、緊張で視界が揺れた。
(律⋯⋯ここまで来たんだ)
気付かれぬように、と思うと呼吸も浅くなる。
そっ、と後ずさる。
ゆっくりとした動作でも、靴の裏で鳴ってしまう砂利の音すら、聞こえているのではないかと不安になる。
律は、ずっと左右を見ては手元を見、左右を見ては手元を見ていた。
(今のうちに⋯⋯)
律の様子を見ながら、死角になるように山肌の茂みに近いところまで、一歩、また一歩⋯⋯、と後ずさったが、それがまずかった。
後ずさった足。
木の葉を踏み潰す音が、派手に響いた。
その音に気付いたのか、律が振り向いた。
麦わら帽子を被っているのに、服はレンのものなのに、俯いていれば、もしかしたら気付かれなかったかもしれない。
でも、俺は焦りのあまり、律が振り向いた瞬間、踵を返して思わず走り出していた。
走って走って走って、坂を駆け下りる。
でも、スピードは出せない。
(木の葉で滑ってコケたくない!)
夢の中の、逃げて捕まった“十四歳の僕”が重なる。
笑う律そっくりの少年の顔が、口元が、鮮やかに浮かび上がる。
ぐっ、と痛くなってくる脇腹を押さえる。
「はッ、はッ、は⋯⋯ッ!」
後ろを振り向けない。
律の顔した少年のように、冷たく怒りをぶつけられるのかと思うと⋯⋯、
(目印!目印の石⋯⋯!どこ⋯⋯!?)
木の陰に隠れた横道。
俺はそれだけを目指してひたすら走った。
「はあ!はあ!はあ!⋯⋯あ」
(あった⋯⋯!)
速度を落とす。通り過ぎないように。
横道へと曲がる直前、走ってきた道を振り返る。
(律⋯⋯来てない!良かった⋯⋯ッ!)
視界に映る道には、誰もいなかった。
一瞬、安堵で進む足が止まりかける。
でも、ここで止まったら、もう走れなくなりそうで⋯⋯、俺は痛む横腹を押さえ、レンの家を目指して、おぼつかない脚を懸命に動かすことだけに集中して走った。
不用心に開け放たれた引き戸。レンの家。
駆け込む。
日陰に入った途端、ヒヤリと冷たい風が通り抜ける。
「ただいま⋯⋯ッ!」
和室の上がり口、そこの俺は手をついて、ゼェゼェ、と乱れる呼吸を整えた。
全身、汗が一気に吹き上がる。
「え⋯⋯どうしたの⋯⋯?野犬いた?」
レンが仰向けになった状態で、目元のタオルを持ち上げながら、眩しそうにこちらを見ていた。
「あれ?麦わら帽子、被っていかなかったの?」
レンに言われて、何のことなのか分からず、頭に手をやる。
「あ⋯⋯、麦わら⋯⋯」
手が髪に触れて思い出す。
帽子を被って、食後の散歩に出た事を。
思わず、何度も撫でた。
帽子なんて無い。手が髪に直に触れるだけ。
「帽子⋯⋯ごめん。落とした、みたい⋯⋯。今は⋯⋯もう少し、休ませて」
息も切れ切れに答えた。
(走るのに夢中で。顎に紐、通しておけば良かった⋯⋯)
首に触れた時のゾワリとする感覚が嫌で、帽子の紐を首の後ろに回していたことを後悔する。
(今は、探しに行けない。律がまだ⋯⋯、いるかもしれない⋯⋯)
息を整えていると、起きたレンから麦茶を差し出された。
グラスを受け取り、一気に仰ぐ。
冷たい液体が喉を流れていく。
渇きが潤されて、はぁ、と大きく息を吐いた。
横腹が、ズクズクと痛んだ。
麦わら帽子を取りに戻ったのは、ずいぶん時間が経ってから。
辺りを窺いながら、進む山道。
ポツンと帽子は落ちていた。
拾いながら、周りを見る。誰もいない。
ホッ、と一息ついて俺は踵を返すと、急いでレンの元へと戻った。
俺の動きなんて、衛星で探知されているのに。それすら忘れて。
ナギが教えてくれた手首に仕込まれた、GPS付きのチップをこの時の俺は、失念していた。




