三十五
城壁の上に出たとたん、冷えた夜気が体をつつみ、春明は身震いをした。
ふり仰いだ空に月はない。この城で迎える二度目の朔月だ。
視線を下に転じると、遠くのほうで小さな灯火がゆらめいていた。濃い闇の中、風にあおられてちろちろと揺れるその炎は、死人の体からさまよいでた魂のようにも見えた。
氷のように冷たい城壁に手をあてながら、灯をめざしてゆっくりと歩を進める。
ぴい、と細く高い音が耳をうった。
やはり笛の音だと思ったとき、彼方から、かすかに同じ音色が聞こえた。城壁上の誰かが吹いた笛の音に呼応するように、その音は二度鳴った。
「春明どの」
やわらかな声で呼ばれ、春明は足を止めた。燭の明かりが近づいてくる。灯火の輪に、よく見知った顔の男がぼうと浮かびあがる。
「……阮之どの」
「どうしました。こんな夜更けに」
「ちょっと……寝つけなくて」
「今日はいろいろありましたからね」
阮之の声に労わりがにじむ。
「阮之どのこそ、どうしたんですか。いま、笛の音が……」
問いかけたところで、春明はぎくりとした。ゆれる炎のせいだろうか。笑みのかたちをつくる薄い唇が、常になく酷薄そうに見えたのは。
「さても運の悪いかただ」
嘲りのにじんだ声音でそう言いながら、阮之は懐に手をいれた。
「ようやく悪夢から解放された晩だというのに」
骨ばった手の中にきらりと光るものをひそませ、ゆっくりと春明に歩みよる。流れるようなその動作を、春明はただぼんやりと眺めていた。
「おやすみなさい。春明どの」
甘い毒を含んだ声とともに阮之が鋭く手をひらめかせた瞬間、春明の耳もとで風が鳴った。
「ぐっ……」
くぐもった悲鳴に、カン、と固い音がかさなる。阮之がとりおとした手燭の炎が、地に散った血飛沫を一瞬照らし、風にあおられてすぐに消えた。
「あいにく」
吹きつける風の中で、男にしてはやや高めのその声は、はっきりと春明の耳にとどいた。
「今夜は全員寝ずの番でね」
ぱん、と手を打つ音が響いた。
それを合図に、暗がりにぱっと灯りがともる。数名の兵が駆けより、手にした松明を阮之に向けた。
「……どういう、おつもりで」
自分をとりかこむ兵には目もくれず、阮之はただそのひとだけをにらみつける。
「あれ」
兵の間から華奢な人影がするりと前に進みでた。
「まだ芝居を続ける気かい」
「……子怜さま」
あえぐように春明がその名を呼ぶと、子怜はにこりと微笑んだ。
「やあ春明。怪我はない?」
こっちへおいでと手招きされて、春明は子怜のもとへ駆けよろうとしたが、その腕をぐいと引かれた。
え、と思う間もなく、後ろからのびてきた手にあごをつかまれる。上向かされたあごの下に、血塗れた刃が押しつけられた。先ほど子怜が投じ、阮之の左袖を切り裂いた短刀だった。
「動かないでください」
その声は、春明ではなく子怜に向けられていた。
「そこから一歩でも動いたら、この者の命はありません」
「芸がないね」
子怜はつまらなそうにつぶやくと、懐から小さな革袋をとりだして阮之の足もとに放った。
「返すよ。あなたのだろう」
袋の口から黒い砂のようなものがこぼれ、つんとした刺激臭をまきちらす。
「緑散」
春明の首にまわされた阮之の腕がぴくりと動く。
「あなたは黒霊燻と言ったけど、ぼくらはそう呼んだことはない。たんに緑散と呼んでいた。名の由来はその色にある。黒に見えるけど、陽の光のもとでは、わずかに緑がかっていることがわかるはずだ。水に溶かして紙に垂らしてみればさらにはっきりする」
ひとつの考えが、春明の頭にひらめいた。
「緑……あの、絵の」
「そうだよ」
子怜はうなずく。
「あの絵を描いたのはあなたかい、阮之どの。それとも、薬だけわたして洪に描かせた? まあ、どっちでもいい。いずれにせよ、あの絵を城内の兵にまわして奎厦に疑いの目を向けさせたのは、あなただろう」
ねえ阮之どの、と子怜は語りかける。
「正直、残念だよ。あのお茶、けっこうおいしかったのに」
阮之がしばしばふるまってくれた茶は、きれいな薄緑色をしていた。
春明の背後で、阮之がふっと笑った気配がした。
「どこであの薬の使い方をお知りになりました」
「戦場で。ああいうところでは悠長に香を焚いている暇なんてないからね。てっとりばやく飲み下したほうが効きもいいし」
「これはこれは……」
阮之の口から嘲笑がもれた。
「戦場にも伴われるほどの寵愛ぶりという噂は本当だったのですね。飼い主の枕元でさぞよい夢が見られたのではないですか」
「それほどでも」
あからさまな挑発を、子怜は無表情で受け流した。
「洪を殺したのも、あなただろう。彼の口からかすかにこの薬の匂いがしたからね。この薬、効きはいいけど、分量をあやまれば毒にもなる。ねえ、最初に死んだ兵、あれもわざとかい。それとも、盛る量をまちがえた?」
「このわたしが匙加減をあやまるはずはございませんよ。はじめに死人が必要だった。だから用意したまでです」
「だろうね。あなたは薬の扱いが本当にうまい。ぼくも噂は聞いたことがあるよ。毒使い……兄殺しの三公子」
子怜は皮肉っぽい口調でその名を口にした。
「梁の第三皇子、戴叔延」




