三十六
梁の第三皇子。子怜の口から発せられた言葉に、周囲の兵から声にならないざわめきがひろがった。
「いつからご存知でしたか」
亡国の皇子は落ち着いた様子で尋ねた。
「はじめから。あなたの顔を見てすぐにわかった。よく言われてなかった? 父親にそっくりだって」
「父と面識がおありでしたか」
「死に顔を見ただけだよ。首をくくったわりに、きれいな死に顔だったな」
梁の最後の皇帝は、皇城に攻め入った斉軍を前になすすべもなく、皇城の桃園で首を吊って果てたという。
「では、ご城主にお礼を申しあげましょう。よくぞあの男を自害に追いこんでくださいました」
「冷たいねえ。それが子の言うことかい」
「子なればこそわかるのですよ。あの男の、救いようもない愚かさが。まったく、無能きわまりない男でしたよ。国をかたむけ、反乱をおさえることもできず、はてに斉ごとき成りあがりに国を奪われるとは。こんなことなら、わたしがさっさと手を下しておけばよかった」
「兄たちと同じように?」
子怜はあきれたように肩をすくめた。
「あなたも報われないね。皇太子の地位をねらってせっせと裏工作にはげんでいる間に、肝心の玉座をかっさらわれるなんて」
「いっとき預けていただけですよ。そろそろ返してもらおうと思いましてね」
「いまさら梁の復興なんて、誰も望んじゃいないよ」
「わたしが望んでおります。それ以外の理由など不要」
阮之の丁寧な口調に、傲慢さがにじむ。
「手はじめに、この城をいただきます。どうぞ邪魔はなさいませんよう」
春明の首すじにあてがわれた刃が、皮膚に食いこんだ。
「やめておいたほうがいいと思うよ」
子怜は落ち着いた様子で腕を組む。
「慶州府に討伐軍の派遣を要請した。この城を手にいれたところで、すぐに奪い返されて終わりだ。あなたに逃げ場はない」
「ああ、あの若者の護送にかこつけて、州令府に書を送りましたか。残念ながら、あの馬車は宜京にはたどりつけませんよ」
子怜はわずかに身じろぎをした。
「奎厦を……」
「ご心配なく。あの若者は殺しませんよ。あれは、わたしの手足として使ってやるつもりでおりますから」
子怜はあきれたように両手をひろげる。
「ねえ、あなた何か勘ちがいしているんじゃないの? あなたにだまされた奎厦が、あなたの味方につくわけないだろう」
「つきますとも」
阮之は自信たっぷりに言った。
「ああいう不遇な若者は、すこし押してやれば容易にころぶものです。それに、あれはたいそうこの城に執着しておりましたから。そう、この城をくれてやると言えば……」
「無理ですよ」
声をあげたのは子怜ではなかった。
「それは無理です」
春明は同じ言葉をくりかえし、首をそらせて阮之をにらみつけた。刃が皮を裂いたが、痛みも気にならなかった。夢の中で数えきれないほど経験したことだ。
「奎厦さまは、あなたの味方にはなりません。絶対に。あんなに長く一緒にいて、そんなこともわからないんですか」
阮之を糾弾しながら、春明の頭に浮かんでいたのは亡き伯父の顔だった。三年前、鹿泉の城門にさらされていた伯父の首。生前のものとは似ても似つかぬ、どす黒いその顔を見たとき、春明の視界は暗転し、気がつけばその場にへたりこんでいた。両手をついた地面が、ひどく冷たかったことを覚えている。
あのとき、自分は何もできなかった。何が正しいことなのか、それすらわからず、ただ口をつぐんで身を隠すしかなかった。
だが、いまはちがう。
春明はまぶたを閉じ、伯父の顔をそっと胸の奥にしまいこむ。ふたたび目をあけたとき、視界はかつてないほど澄んでいた。
「奎厦さまは、あなたとはちがいます。あなたのように、いつまでも過去にしがみついているひとじゃありません」
阮之はふっと唇をゆがめた。
「ああ、おまえにはわからぬだろう」
侮蔑がしたたるような声だった。
「養父の命とひきかえに、己ひとりの生にしがみついているおまえには。不甲斐ない養子をもったものだと、叡生もあの世でさぞ嘆いていることだろうな」
阮之の口から発せられた伯父の名に、春明はがんと頭を殴られたような衝撃を覚えた。
「叡生の縁者だと思えばこそ目もかけてやったが、期待はずれもいいところだ。養父の仇をうつ気概もなく、敵にはいつくばって慈悲を乞う負け犬が。忠義をまっとうした叡生の名を汚すことはなはだしい……」
「春明」
静かなその声で、怒りのあまり阮之につかみかかろうとした春明は、すんでのところで思いとどまる。
「おやめ。怪我をするよ」
「そう。おとなしくしていたほうが身のためですよ」
以前の口ぶりにもどった阮之は、今度は子怜に語りかける。
「ご城主、あなたもわたしのもとへいらっしゃいませんか。あなたは殺すには惜しい。斉の皇太子とやらより、わたしのほうがよほどあなたの才を活かしてあげられますよ。どうです、わたしとともに梁の世をとりもどしませんか」
「とりもどす、ね……」
子怜は感情を欠いた声でつぶやいた。
「ぼくはあなたがうらやましい。まだとりもどせると、そう信じられるものを持っている、あなたが。ぼくには無理だ」
もし、幽鬼というものがいるならば、と春明は思った。それはきっと、いまの子怜のような顔をしていることだろう。
「ぼくの大事なひとは、梁に殺された。もう決して、とりもどすことはできない」
子怜の白い面からは、およそ人らしい温かみというもの一切がそぎおとされていた。
「だからせめて、あなたを殺そうと思う」
子怜は片手をあげた。それを合図に、ひかえていた兵がそろりと前に進み出る。
春明の喉もとにぐっと刃が押しあてられた。
「こちらに人質がいることをお忘れなく」
「あなたはよくよく人質をとることが好きだね。洪にもそうしろと勧めた? 彼もかわいそうに。あなたの悪事の片棒をかつがされて下手な芝居までしたのに、助けてもらうどころか結局は殺されて」
その言葉に春明ははっとした。
──助けてくれると言ったのに。
あの訴えは春明にではなく、その隣に立つ阮之に向けられたものだったのか。
「おやさしいことだ。一介の兵にそこまで情をかけるとは。ならば、この者も見殺しにはできますまい。さて、そこをどいていただけますか。城門を出るまでわたしに手だしはしないよう願います」
子怜は少しの間黙って阮之を見つめていたが、やがて小さくため息をつき、武器をかまえた兵たちをさがらせた。
「……子怜さま」
たまらず春明は声をあげた。
「やめてください。わたしはどうなってもいいですから……」
「大丈夫、大丈夫」
ひらひらと手をふる子怜は、いつもの飄々とした主人の顔にもどっていた。
「安心おし。ちゃんと助けてあげるから。いつかきみがぼくを助けてくれたようにね」
その言い方に、春明は妙なひっかかりを覚えた。子怜が捕らわれたあの晩、自分は何を──?
答えは、甲高い鐘の音とともにやってきた。
──カン!!
敵襲を知らせる鐘の音。
突如鳴り響いたその音に、その場にいた全員がはっとして頭上を見あげる。ただふたり、子怜と春明をのぞいて。
ひゅっと風を切って飛来した短刀が、春明を捕らえていた腕に深々と突き立った。その隙を逃さず、春明は阮之を思いつきとばした。足がもつれたところを抱きとめてくれたのは子怜だった。
「大丈夫かい」
「子怜さま……」
春明は子怜に弱々しい笑みを返した。
「やっぱり、教えてください」
ひとの投げとばし方。
「今度ね」
子怜はにっと唇の端をつりあげた。阮之はと見れば、いまや両腕を血に染め、兵に囲まれている。
鐘は鳴り続けている。
物見の鐘楼を見あげた春明は、夜の闇に黒々と浮かびあがる小柄な兵の姿をみとめた。力いっぱい鐘を打ち鳴らしているその兵の顔までは見わけられないが、春明は確信していた。その顔にはそばかすがいっぱいに散っているのだろうと。
「さてと、殿下」
子怜は芝居がかった仕草で阮之に一礼する。
「なかなかおもしろい芝居を見せていただきましたが、このへんで幕引きとさせていただきましょうか」
縄を手にした兵がそろそろと阮之に近づく。阮之は両腕をだらりとたらし、うなだれている。観念したかと、春明が胸をなでおろしたとき、ぎゃっと短い悲鳴があがった。
阮之に縄をかけようとした兵が、鮮血の吹き出す手を押さえてうずくまる。
いち早く反応したのは子怜だったが、阮之はその先をいった。深手を負っているとは思えない身軽さで城壁のへりに手をかけ、そのまま壁の向こう側へ身を躍らせる。のばした子怜の手が空をつかんだ瞬間、夜気を切り裂く鋭い笛の音が響いた。
「飛び降りた……!」
「馬鹿な! この高さだぞ」
ざわめく兵をかきわけ、城壁から身を乗り出した春明は、眼下に広がる光景に愕然とした。
闇に沈む地上に、無数の炎がゆれている。松明を手に城壁へ押しよせる軍勢。その数、万は超そうか。
「……子怜さま、これ……」
春明の隣で下をのぞきこんでいた子怜は、顔をあげて口もとに不敵な笑みをひらめかせた。
「夢じゃないらしいね」




