三十四
その晩、春明は寝台の上で身を起こし、ため息をついていた。早く眠りにつきすぎたせいだろう。すっかり目が冴えてしまっている。もういちど横になる気には到底なれなかった。
暗闇の中でうずくまっていると、頭の中にいくつもの顔が浮かんでは消えていく。
洪という名の脱走兵の、恐怖に引きつった顔。思えば、あれがすべてのはじまりだったのだ。あの哀れな兵の心は、とうとう死ぬまで安らぐことはなかった。せめて今は、ゆっくり眠ってくれているといいのだが。
仲間思いの刀児も、きっと同じことを願っているはずだ。あの少年兵にはずいぶん突っかかられたものだが、時と場所さえ違えば友人になれたかもしれない。年も同じくらいだし。
思いあまって今回の騒動を起こしてしまった彼のこの先が案じられたが、すぐに春明はその考えを打ち消した。自分が思い悩んでも詮無きことだと。これからのことは、いまや正式な城補となった阮之がすべてうまく計らってくれるだろう。
阮之は、春明がこの城を去ることを、ことのほか残念がってくれた。春明も阮之と別れるのは寂しかった。あの穏やかな笑みと優雅な所作は、亡き伯父を思いおこさせた。
寂しいといえば子怜と離れることも同じはずなのだが、あの気まぐれな主と二度と会えないかもしれないという思いは、奇妙なほど春明の心に響かなかった。
離れられてせいせいする、ということでは断じてない。むしろ逆だ。けれど、子怜を前にすると、なぜだかあらゆる感情が薄れていくような、奇妙な心持ちになるのだ。
出会ったときからそうだった。あのひとのまわりだけ、異なる風が吹いているような。それは白い花にも似た美貌のせいかもしれない。あるいは、夢見るような眼差しのせいかもしれない。
澄んでいながらも、奥底までは見とおすことができない双眸。ときおり、そこにひやりとするような光がよぎることも知っている。そんなときは、なぜかいつもより少しだけあのひとを身近に感じた。なぜだかは自分でもわからないが。
そして、奎厦。
明るく透ける翡翠の瞳が、光をはじいて金色に輝く。はじめて見たときは、その美しさに目を奪われた。普段は近寄りがたい雰囲気を醸しているが、地下書庫で語らったときのように、くつろいだ表情をしているときの奎厦は、頼もしい城輔でありながら、年相応の若者に見えた。
良いひとだったのだ。あらためて春明はそう思った。
不正に手を染めていたことは、たしかに許されざる罪だろう。城の兵を苦しめ、おそらく命まで奪っている。そう、刀児にしてみれば仲間の命を奪った憎い仇でしかない。
だが、自分にとっては命の恩人だった。忘れもしない、この城にたどりついた最初の晩。あのときは本当に危なかった……
思考が止まった。
あの晩、洪に襲われたところを、奎厦が助けてくれた。そのとき、奎厦はなにを持っていた?
春明は深く息を吸って額をおさえた。
思い出せ、と自分に言いきかせる。
思い出せ。
洪の手から自由になり、床に手をついて見あげた先に、あのひとがいた。その手には、鞘に包まれた剣があった。あれで洪を打ちすえてくれたおかげで、自分は助かったのだ。
たしか、その手は左手だった。では右手には──?
手燭だ。
黒霊燻といった、あの薬の香はひどく強い。もし、奎厦の手燭にその薬がしこまれていたとしたら、必ず春明の記憶に残っているはず。
あの晩、あのとき、匂いはなかった。
春明は寝台から飛び降りた。もどかしく沓をはき、上着をひっつかむ。
早く、この事実を子怜に伝えなければ。奎厦を乗せた馬車はとうにこの城を発ってしまった。だが、まだ間に合うかもしれない。自分には、まだできることがある。
ころげるように部屋の外で出たときだった。夜風にのって、か細い音が耳を届いた。
この音はどこかで、と耳をそばだてる。間をあけて、もう一度。今度はもっとはっきりと聞こえた。
しばしの逡巡の後、春明は暗い廊下にそろりと足を踏みだした。
向かう先は、決まっていた。




