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沙州関異聞  作者: いろは
第五章
34/42

三十三

「……前にお話ししましたよね。幼い頃にふた親を亡くしたわたしは、遠縁の伯父に育ててもらったと」


 春明はゆっくりと語りはじめた。自分にとって父にもひとしい伯父のことを。妻に先立たれ、子もいなかった伯父は、春明を実の息子のように慈しんでくれた。


「伯父は、梁に仕えていた文官でした。わたしを引きとってくれたときにはすでに職を辞しておりましたが、もとはかなりの高官だったそうです」


 それが、仇になった。


「三年前に梁がたおれて、斉の世になって半年ほど経った頃でした。屋敷に、妙な連中が出入りするようになりましてね。梁の遺臣とでも言うのでしょうか。もとは梁に仕えていた高官たち……そんなひとたちが集まって、何をしていたかというと……」


 春明はそこで言葉を切り、苦い笑みを浮かべた。


「子怜さまはご承知のことと思いますが」


 このひとは、なにもかもお見通しなのだ。


「わたしの伯父の名は、ばん叡生えいせい。住まいは慶州、鹿泉ろくせんでした」

「──鹿泉の乱」


 子怜が口にした名に、春明はうなずいた。梁の残党が企てた反逆事件、その首謀者の名は萬叡生という。


「これだけは申しあげておきますが、伯父は梁の復興を目指す気なんて一切なかったんです。伯父は賢いひとでした。斉の世は磐石で、梁の再興なんて夢物語だとわかっていたんです。昔の縁をすがって寄ってくる連中に、考えなおせと説いていたくらいです」


 だが、過去の栄華にとらわれた遺臣たちは、春明の伯父の説得など意に介さなかった。稚拙で無謀な反乱計画は着々と進み、いつの間にか伯父はその盟主とあおがれるようになってしまった。


 屋敷に斉の捕吏がやってきた日のことは、いまでもよく覚えている。


 おそらく伯父はとうに覚悟を決めていたのだろう。家人に手をつけぬことを捕吏に約束させ、自身は泰然として縄を受けた。捕吏につかみかかろうとした春明は、家令に抱きとめられて物置に隠された。反乱計画の首謀者の養い子だと知れれば、春明もただではすまなかったはずだ。


 伯父の首が城門にさらされたのは、その翌朝のことだった。


 萬家の財産は没収され、家人は散り散りになった。春明は、ただの下働きの子だと家人が口裏を合わせてくれたおかげで連座をまぬがれ、家人の遠縁にあたる湘県の一家に預けられた。


「文挙を受けたのは、それしか思いつかなかったからです。わたしが切り売りできるのは、伯父に教わった学問くらいしかありませんでしたから」


 伯父を殺した相手に膝を屈することに忸怩じくじたる思いを抱かないわけではなかったが、ほかに途はないと自分に言い聞かせた。


 文挙に臨んだ春明は、順調に里試と県試を突破し、州試の答案も難なく書きあげた。あのまま提出していれば合格は固かっただろう。


「だけど、駄目だったんです」


 最後の最後で。


 州試は、不正防止のために個室でおこなわれる。個室といっても、それこそ牢の独房のような狭い部屋だ。そこに受験者が一人ずつ入れられ、外から鍵をかけられる。試験は三日三晩ぶっとおしでおこなわれ、その間、受験者は部屋から出ることは許されない。水や食糧は自身で持ちこみ、夜は床に丸まって眠る。


 日に何度か、役人が窓格子の外から部屋の中をのぞく。受験者が不正をはたらいていないか、あるいは、過酷な試験に発狂して首をくくろうとする者がいないか監視するためだ。


 春明がそれに気づいたのは、試験の最終日のことだった。


 まず満足のいく答案を書きあげ、ふと机から顔をあげた春明は、そこで自分の部屋をのぞきこんでいた監視役の役人と目が合った。


「その瞬間、ああ駄目だって思ったんです」


 忘れもしない。その男は、かつて伯父に縄をかけた捕吏だった。


 おそらく、その捕吏は春明のことなどこれっぽっちもおぼえていなかっただろう。あくびまじりに春明の部屋を眺めわたし、すぐに歩き去っていったのだから。


 だが、春明は忘れていなかった。忘れよう、いまはとにかく忘れてしまおうと、記憶の底に押しこめて蓋をしていた思いが、捕吏の顔を見た瞬間に一気にあふれ出してしまったのだ。


「斉に仕えることはできないと、そう思いました」


 気がつくと、目の前の答案は真っ黒になっていた。何かを考える暇もなく、春明は無我夢中で答案を墨で塗りつぶしていた。ただ一箇所、己の名をのぞいて。


「名を残したのはなぜだい。斉への意趣返しのつもりだった?」


 いちどは完璧な答案を書きあげ、それをわざわざ塗りつぶしてみせたのは斉へのあてつけかと、そう子怜は問うた。このとおり才はある。だが、それを斉のために用いる気はないと、高らかに宣言したつもりだったのかと。


「そんなんじゃ、ないです」


 考えてやったことではなかった。あのときは目の前が真っ暗になり、気づけば勝手に筆が動いていた。だが、あとになって気づいた。自分はただ叫びたかっただけなのだと。


 自分はここにいる、と。おまえたちが捕らえ、殺した萬叡生の血筋は、ここにいると。


「斉を恨むつもりはありません。あのときの伯父が、本心はどうであれ謀事の中心にいたことは事実ですから」


 恨むべき相手がいるとしたら、それは伯父を無謀な企てに引きずりこんだ梁の遺臣たちだろう。だが、彼らも伯父と同様に処断された。


 拳をふりあげても、それをぶつける先が春明にはなかった。


 情けないことに、やってしまったあとになって怖くなった。


 答案の汚損は即失格。その上、ここまで派手に、かつ明らかに故意に汚したとなれば、文挙を冒涜したとの罪に問われかねない。くわえて、春明が三年前の反逆事件の首謀者の養い子であることが知られれば、さらに罪は重くなるだろう。


 州試が行われた宜京からの帰り道、自分を捕らえるために役人が追ってくるのではないかと何度も後ろをふりかえった。夜もろくに眠れず、浅いまどろみの中でしばしば伯父が夢に出てきた。伯父は、ただ黙って春明を見ていた。


 養家に帰ってひと月ほどたったが、捕縛の手がのびる気配もなく、日々は平穏に過ぎていった。だが、春明の心は不安にさいなまれ続け、ついに怯えることに疲れはててしまった。

 

 州試の合格発表にあわせて再び宜京に赴いたあの日、春明は州令府に名乗りでるつもりでいたのだ。罪人は自分であると。告白し、捕らえられ、早く楽になりたかった。


「そこで見事にあてが外れたわけです」

「ぼくのせいか」

「はい。子怜さまのおかげで」


 春明は微笑んだ。


 気まぐれな風に流されるように、辺境の城にたどりついた。その晩から伯父の夢は見なくなった。かわりにおとなうたのは楼西の夢。


 おどろき、恐れながらも、自分は確かに惹かれたのだと春明は思う。三百年もの間、せることのなかった、その怨恨に。かけがえのないものを奪われた者の思いの強さに。


 そして、できることなら見とどけたいと思った。ことの行く末を。楼西の最後の王の思いの行き着く先を。それをこの目で確かめられたなら、自分の胸のうちの、この行き場のない思い──恨み、恐怖、後悔、自責の念、その他もろもろの、もはや名もつけられないからみ合った思いに決着がつけられるのではないかと。


 だが、幕切れはひどくあっけなかった。


 はじめから、すべてが偽りだったのだ。楼西の憎悪を映した悪夢は、一人の不遇な青年がつくりあげた幻にすぎなかった。


 そうと知ったとき、春明はこの城に居続ける意味を見失った。


 われながら勝手だな、と春明は思う。勝手にすがって、勝手に失望して。


 それ以上に中途半端だ。斉を恨むことも、復讐に走ることもできず、ただ衝動的に名乗りをあげて、その結果に怯えるだけの己は、なんと情けないことか。


「この城、閉めるんですか」


 春明が長く抱えていた問いを口にすると、子怜はそうだともちがうともつかぬ顔をした。


「ぼくが決めることじゃない」


 そうですか、と春明はうなずいた。閉めるならば、それでいいかもしれない。この城は、ようやく安らかな眠りにつける。


「きみはどうする」


 今度は子怜が尋ねる。


「まさか、この期におよんで州令府に出頭するつもりじゃないだろうね」

「……子怜さま、わたしを見逃してくださるのですか」


 予想外の言葉に春明は目を見開いた。子怜が州令府の門前で自分に声をかけたのは、萬叡生の甥だと知ってのことだと思っていたのだ。随従としてそばにおき、監視していたのではないかと。


「馬鹿なことを」


 鼻で笑われたが、春明は不愉快ではなかった。


「言っただろう。なんとなく帰りたくなさそうな顔をしていたからだって。だから、ちょうどいいと思って拾っただけだよ」

「拾ったって、犬の仔じゃないんですから」

「どっちかっていうと迷子かな」

「それじゃかどわかしです」


 まあ実際拾われたのだろう。帰り道を見失った迷い犬。


「言っておくけど、きみが答案を汚した件は、哀れな狂人の仕業ということになっている。鹿泉ろくせんの乱だって、もう完全に片がついているんだ。今更ほじくりかえしたところで誰も得なんてしない。はっきり言って迷惑だね。むやみに州令府の仕事を増やすんじゃないよ」


 命を大切にしろ、などと情に訴えないところが、まったくこのひとらしい。


「子怜さまにお説教をされる日がこようとは思ってもみませんでした」

「ぼくもだよ。他人にとやかく言うのは好きじゃないし、そもそもがらじゃないんだ」


 子怜は肩をすくめてみせた。


「で、どうする。春明」


 さてどうしようと、今更ながらに春明は首をひねった。あいかわらずの迷い犬だ。ただはっきりしているのは、すでにここに自分の場所はないということだけ。


「湘県に帰ります」


 春明は子怜の前できちんと礼をとった。


「お世話になりました」


 ん、とうなずく子怜の顔はやさしかった。


「元気で」




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