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沙州関異聞  作者: いろは
第五章
33/42

三十二

 夢を見ていた。


 いつもの血なまぐさい夢ではない。明るい日差しがふりそそぐ、にぎやかな街中を歩いている夢だ。

 

 路沿いにぎっしりと並ぶ露店。声高に客を呼びこむ売り子。たくみな口上につられて店先をのぞけば、ひと癖もふた癖もありそうな店主が満面の笑みで迎えてくれる。


 腰をすえて値切りの交渉をはじめれば、いつの間にかまわりにひとが集まり、それは高いの、いや品がよいから仕方がないのと、無責任に口をはさんでくる。


 道行く人々の間を子どもたちが喚声をあげて駆けていき、すれちがいざまにぶつかられた男が耳慣れぬ言葉で悪態をつく。おや異国の、と足を止めたところでようやく気づく。街を歩く人々の半分は異国の民であることに。


 白い肌、黒い肌、光をつむいだ金の髪、燃えるような赤い髪、空を映した青い瞳……多彩な色がそこかしこにあふれ、聞こえてくる話し声もどこの地の言葉やら見当もつかない。

 

 強い日差しを避け、目についた店の軒下に腰をおろして冷えた瓜を購えば、先ほどの子どもたちが寄ってきて瓜をねだる。


 荷を満載した驢馬ろば駱駝らくだが目の前をひっきりなしに行き交い、ときおり、そこに西方の美しい馬の群れが混ざる。


 鮮やかな色彩の衣に身を包んだ女たち。それを目で追う男たち。道端で大道芸でもはじまったらしく、遠くから風にのって歓声と拍手が聞こえてくる。


 このにぎやかさは、まるで祭りの日みたいだ。


 そう思ったところで、春明は目が覚めた。




 しばらく寝台の上に横たわったまま、春明はぼんやりと暗い天井をながめていた。体の中に、まだ夢の温もりが残っているようだった。


 あの夢はおそらく、と春明は考える。在りし日の沙州関の姿だ。行き交う異国のひとびと。街の喧騒。いつか奎厦が語ってくれたとおりの情景。

 

 春明は深く息を吐き、もぞもぞと身を起こした。

 周囲の闇はとっぷりと重い。夜明けまではまだ間がありそうだった。

 

 昼間、春明は子怜に告げた。夜が明けたらこの城を出て行くと。


「急にどうしたの」


 書面に目を落としたまま、さして驚いたふうもなく子怜は尋ねた。その手にある紙の束は阮之がまとめた今回の騒動の報告書だ。


 前城輔、崔奎厦は正式にその任を解かれ、今朝方護送兵に連れられて沙州関をあとにした。

 行き先は慶州の州都、宜京。奎厦はそこで州令じきじきに裁かれることになるだろう。左術を用いて沙州関の兵を惑わし、再建費を横領した重罪人として。


「もうあの夢は襲ってこないよ。それに春明も知ってのとおり、いまは人手が足りない。阮之どのも頑張ってくれているけど全然追いついていないからね。春明にも手伝ってもらえるとありがたいんだけど」

「わたしは官吏ではありませんから」

「きみひとりの官職くらい、どうとでもしてあげるよ」

「結構です」


 返答が思ったより冷たく響いて、春明はあわてて言いそえた。


「お心遣いには感謝します。ですが、わたしは斉に仕えるつもりはありません」

「だから」


 子怜は紙の束を卓に放った。


「あんなことをしたわけか」


 その言葉の意味を悟り、春明はゆっくりと目を見開いた。


「……ご存知だったんですか」


 まあね、と子怜はうなずく。


「先だっての州試、答案の中でただひとつ、墨でめちゃくちゃに塗りつぶされたものがあったそうじゃないか。採点官はひどく困惑していたそうだよ。汚される前の答案は綺麗に埋まっていたらしいのに、なぜ、とね」


 文挙において、答案の汚損は即失格となる。どんなに見事な回答が記されていても、答案に一滴でも墨が垂れていようものなら、その時点で採点の対象から外されるのだ。


「唯一、まともに読めた文字は回答者の姓名だけだったとか」


 子怜は春明をまっすぐに見つめた。


「湘県の萬春明。なぜあんなことをした」


 鏡が見たいな、と春明は思った。いまの自分はどんな顔をしているのだろう。泣きそうな顔をしているだろうか。それとも笑っているのだろうか。




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