三十二
夢を見ていた。
いつもの血なまぐさい夢ではない。明るい日差しがふりそそぐ、にぎやかな街中を歩いている夢だ。
路沿いにぎっしりと並ぶ露店。声高に客を呼びこむ売り子。たくみな口上につられて店先をのぞけば、ひと癖もふた癖もありそうな店主が満面の笑みで迎えてくれる。
腰をすえて値切りの交渉をはじめれば、いつの間にかまわりにひとが集まり、それは高いの、いや品がよいから仕方がないのと、無責任に口をはさんでくる。
道行く人々の間を子どもたちが喚声をあげて駆けていき、すれちがいざまにぶつかられた男が耳慣れぬ言葉で悪態をつく。おや異国の、と足を止めたところでようやく気づく。街を歩く人々の半分は異国の民であることに。
白い肌、黒い肌、光をつむいだ金の髪、燃えるような赤い髪、空を映した青い瞳……多彩な色がそこかしこにあふれ、聞こえてくる話し声もどこの地の言葉やら見当もつかない。
強い日差しを避け、目についた店の軒下に腰をおろして冷えた瓜を購えば、先ほどの子どもたちが寄ってきて瓜をねだる。
荷を満載した驢馬や駱駝が目の前をひっきりなしに行き交い、ときおり、そこに西方の美しい馬の群れが混ざる。
鮮やかな色彩の衣に身を包んだ女たち。それを目で追う男たち。道端で大道芸でもはじまったらしく、遠くから風にのって歓声と拍手が聞こえてくる。
このにぎやかさは、まるで祭りの日みたいだ。
そう思ったところで、春明は目が覚めた。
しばらく寝台の上に横たわったまま、春明はぼんやりと暗い天井をながめていた。体の中に、まだ夢の温もりが残っているようだった。
あの夢はおそらく、と春明は考える。在りし日の沙州関の姿だ。行き交う異国のひとびと。街の喧騒。いつか奎厦が語ってくれたとおりの情景。
春明は深く息を吐き、もぞもぞと身を起こした。
周囲の闇はとっぷりと重い。夜明けまではまだ間がありそうだった。
昼間、春明は子怜に告げた。夜が明けたらこの城を出て行くと。
「急にどうしたの」
書面に目を落としたまま、さして驚いたふうもなく子怜は尋ねた。その手にある紙の束は阮之がまとめた今回の騒動の報告書だ。
前城輔、崔奎厦は正式にその任を解かれ、今朝方護送兵に連れられて沙州関をあとにした。
行き先は慶州の州都、宜京。奎厦はそこで州令じきじきに裁かれることになるだろう。左術を用いて沙州関の兵を惑わし、再建費を横領した重罪人として。
「もうあの夢は襲ってこないよ。それに春明も知ってのとおり、いまは人手が足りない。阮之どのも頑張ってくれているけど全然追いついていないからね。春明にも手伝ってもらえるとありがたいんだけど」
「わたしは官吏ではありませんから」
「きみひとりの官職くらい、どうとでもしてあげるよ」
「結構です」
返答が思ったより冷たく響いて、春明はあわてて言いそえた。
「お心遣いには感謝します。ですが、わたしは斉に仕えるつもりはありません」
「だから」
子怜は紙の束を卓に放った。
「あんなことをしたわけか」
その言葉の意味を悟り、春明はゆっくりと目を見開いた。
「……ご存知だったんですか」
まあね、と子怜はうなずく。
「先だっての州試、答案の中でただひとつ、墨でめちゃくちゃに塗りつぶされたものがあったそうじゃないか。採点官はひどく困惑していたそうだよ。汚される前の答案は綺麗に埋まっていたらしいのに、なぜ、とね」
文挙において、答案の汚損は即失格となる。どんなに見事な回答が記されていても、答案に一滴でも墨が垂れていようものなら、その時点で採点の対象から外されるのだ。
「唯一、まともに読めた文字は回答者の姓名だけだったとか」
子怜は春明をまっすぐに見つめた。
「湘県の萬春明。なぜあんなことをした」
鏡が見たいな、と春明は思った。いまの自分はどんな顔をしているのだろう。泣きそうな顔をしているだろうか。それとも笑っているのだろうか。




