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沙州関異聞  作者: いろは
第四章
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三十一

 奎厦の居室はひどい有様だった。調度は引き倒され、そこかしこに血が飛び散っている。この中に、あの負けん気の強い少年の血もまざっているのかと思うと、春明の胸は痛んだ。


「こちらです」

 

 その場にいた兵を退出させてから、阮之は床の一点を指差した。


 調度が倒れた際にどこかから飛び出したのだろう。小さな革袋が床に落ちており、開いた口から黒い砂のようなものがこぼれていた。


 子怜は慎重な手つきで砂をつまみ、鼻に近づけて顔をしかめた。


「ひどい匂いだ。なんだい、これは」

黒霊燻こくれいくんといいまして、鎮痛剤の一種です。香炉で焚いた煙を吸いこめば頭が朦朧としていっとき痛みを忘れることができます。効能は確かですが、厄介な副作用がひとつ……」


 そこでいったん口をつぐみ、阮之はひと息に言った。


「この煙を吸いこんだ者は、奇妙な幻覚を見るようになるとか」


 奇妙な幻覚。その言葉に春明ははっとした。


 それはたとえば、夜な夜な敵兵が攻めてくるような。異国の兵が血に濡れた刀をふりかざし、己の首をかき斬るような。


「ねえ、阮之どの」


 子怜は立ち上がって手についた黒い粉をはらう。


「その煙は香炉を使わなくとも出せるものかな。そう、たとえば、手燭なんかでさ」

「……はい」

「奎厦は、毎晩城内の見回りをしていたそうだね」


 いつか城壁上で阮之が語ってくれたことだ。城輔は毎晩城内を巡回し、うなされ方がひどい兵がいたら、無理にでも起こしてやっているのだと。


「手燭を用いて煙をくゆらせ、眠っている者の耳もとで夢の筋書きをささやいてやれば、あとは勝手にその者が悪夢をつむぐ。そんなことも可能かな? 阮之どの」

「……可能です」


 力なくつぶやいた阮之の顔は、ひどい苦痛をこらえているかのようにゆがんでいた。


「ですが、ご城主、わたしにはわかりません。奎厦どのが、なぜそのようなことをなさったのか」

「ひとが悪事を企む理由は、つきつめればだいたい二つ。恨みか、金か。もしくはその両方か……」


 子怜はぐるりと室内を見わたした。その目が、床に倒れた書架にとまる。子怜はおもむろに書架に歩みよると、中の書物を一冊ぬきとり、床に放った。


「子怜さま!?」

「ご城主、なにを……」


 戸惑うふたりをよそに、子怜はつぎつぎと書物を手にしては投げ捨てる。すっかり書架を空にすると、今度は棚板の内側に指を走らせた。しばらくごそごそやっているうちに、かちり、と、かすかに金具が外れるような音がした。


「隠し底とは念のいったことで……」


 子怜は唇の端をつりあげて小さくつぶやき、さらに奥をさぐる。ほどなく、子怜は書架から紙の束をとりだした。数十枚ほどの紙の束には、びっしりと文字と数字が書きつけてある。


「ご城主、それは……」

「裏帳簿、ていうのかな」


 青い顔の阮之に紙の束を渡し、「おぼえているかい」と子怜は訊ねる。


「城壁の補修中に事故があったね」

「もちろんです。壁が崩れて……」

「なんで崩れたと思う? 簡単だ。材料が悪かったのさ」


 阮之ははっと目を見開いた。子怜は淡々とつづける。


「この城の壁は、黄土を焼き固めた煉瓦を積んで造っているね。あのとき、土台となっていた煉瓦が上部の重みに耐えきれずに崩れた。普通だったらそんなことは起きない。火を入れた煉瓦は頑丈だ。たとえば、このくらいの高さから……」


 子怜は自分の胸のあたりで手を水平にかざす。


「落としたとしても、そう簡単には割れない。割れたとしても、せいぜい端が欠けるくらいだ。なのに、あの煉瓦は落としたら簡単に割れた。それも粉々に。材料の土が悪いのか、火の入れ方がまずかったのか……」


 春明は事故の日のことを思い出した。あの日、奎厦と兵との間に険悪な空気が流れたとき、子怜が煉瓦を落とした。それは、皆の気をそらすためだとばかり思っていたのに──


「いずれにせよ、粗悪品だ。まともな値もつかないような、ね。あれを仕入れたのは誰だい?」


 答えは、聞かずともわかっていた。


「……そんなはずはありません」


 信じたくない。阮之の顔にはありありとそう書いてあった。


「春明」


 名を呼ばれて、春明はのろのろと顔をあげた。


「まえに、地下の書庫をのぞいたことがあったよね。あのとき、奎厦は何を熱心に書いていた?」


 地下の文書庫で、奎厦が卓の上にひろげていた紙の束。あのとき自分は何を思っただろう。いやに急いで片付けるのだなと、ほんの少し不審を抱いたのではなかったか。


「……わかりません」

「そう。まあいいさ。あの書庫もこれから調べればいいことだ。それにしても、ひどくやられたもんだね。ざっと見たところ、再建費の半分がたは抜かれている。残った銀だけでも紅娘に運んでもらっておいてよかった」


 阮之があっと口に手を当てた。


「ご城主、まさか、あの武器の運び賃は……」

「ああ。ここに保管しておくのも危ないから、州令府に預けておいた。ついでに羅一家には、この城の出入りの商家の裏も調べるよう頼んでいるよ。資材の調達や銀の運搬やらで、奎厦に加担した商人がいるはずだからね。こういう探索事は、役人にまかせるより同業者を頼ったほうが早い」

「待ってください」


 春明はとっさに声をあげた。


「奎厦さまが横領なんて……そんなはずはありません。だって奎厦さまは、誰よりもこの城の再建を願っていたはず……」

「逆だよ」


 やめてくれ、と春明は思った。そんな目で見ないでほしい。そんな、憐れむような目で。


「この城の再建を阻んでいたのは奎厦だった。薬で悪夢をつくりだし、城主を追い払い、その隙に再建費を着服した。事故が起これば、楼西の亡霊のせいにすればいい。ひとつ事故が起こるたび、皆はますます楼西の呪いを信じこむ。そうやって、奎厦は待っていた。斉が、沙州関から手を引くのを」


 沙州関の再建など到底望めない、呪いの城に手をつけたのがそもそも間違いだったのだと、京師の高官たちが判断するのを。


「再建がとりやめとなれば、奎厦は何食わぬ顔でこの城を去ったことだろう。在任中に蓄えた隠し財産を手にしてね」

「ちがいます」


 とっさに春明は声をあげる。その声が、まるで自分のものではないように聞こえた。


「それはちがいます。だってそんな……では、皆が夢で見た緑の瞳の兵というのは? 奎厦さまがこの夢を見せていたのであれば、そんな姿の敵兵を登場させるはずがありません。わざわざ自分に疑いを向けるようなことを……」

「最初にそう言い出したのは、洪だったそうだね」


 二度脱走を試み、最後はおそらく夢に殺された、哀れな男。


「彼は字が読めたとか。それだけでなく、簡単な計算もできたそうだ」


 兵に徴される民のなかで、字が読める者は貴重だ。ましてや数字を扱える者など百人に一人いるかいないか。


「彼は、たしかこう言っていたね。奎厦こそが真の反逆者だと」


 ──おれは知っているぞ。


 狂気にぎらついた洪の目。追いつめられた末の妄言だとばかり思っていたのに。あれは城の金を横領していた城輔への、正当な糾弾だったとでもいうのか。


「彼は知っていた。城輔が裏で何をしていたかを。偶然見聞きしたことなのか、それとも奎厦の手伝いをさせられていたのか……いずれにせよ、あの絵は、彼の精一杯の告発だったんだろうね」


 そしてその絵姿は仲間の目にふれ、夢に投影される。緑の瞳をもつ楼西の兵の姿をとって。


「夢なんて、もともとひどく曖昧なものだ。目が覚めたそのときから、記憶は薄れていく」


 記憶がされて、残るのは不安と恐怖。そこへ投じられた一石に、皆がすがりつく。これが真実だと。ひとたび定着した筋書きは、夢を操る奎厦ですら変えられなかったか。


「こうなると、洪の死因も調べなおす必要があるね」

「……うそだ」

 

 春明は力なく首をふる。


「奎厦さまがそんなこと……奎厦さまは、誰よりもこの城が……」

「好きだった? そうだろうね。ここはかつての楼西の都で、あの男はその民、王のすえ。とりもどしたかったんだろうよ。彼の城を」


 ──おれの城を。


 春明の脳裏に、いつか奎厦が口にした言葉がよみがえる。それを否定した子怜へ向けられた強すぎる眼差しとともに。


「奪い返したかった。この城を不当に占拠する者たちから。とりもどして、誰にも渡したくなかった……いや」


 子怜は首をふる。


「たんに欲得ずくのことだったかもしれない。名家の当主の甥でありながら、なんの後ろ盾も財産もなく、己の才覚でだけを頼りに生きてきた。そこへある日突然、城輔という地位が転がりこんできた。これを利用しない手はない。そう考えたとしても不思議はない」


 春明は耳をふさぎたかった。それはちがうと叫びたかった。だが、頭の中にいるもうひとりの自分は、すっかり納得してしまっている。子怜の言うことが正しいと。すべての辻褄が合うではないかと。


「楊城輔」

「……は」

「前城輔の護送の手はずを整えてくれ」

「護送とは、どちらへ」

「宜京へ。彼と証拠の品を州令府に送り、州令どのの裁可をあおぐことにする。早急に準備を」


 阮之は無言でうつむいていたが、やがて静かに顔をあげた。


「承知いたしました」


 春明の目の前で、淡々と物事が動いていく。そこに口をはさむ余地は、まるでなかった。


 奎厦について、春明はもっと言うべきことがあるような気がしたが、何を語ればいいのかわからなかった。訴えるべきことなど、もう何ひとつ残っていない気がした。


 胸が苦しいのはよどんだ空気のせいだろうか。たまらず春明は窓に駆けよった。きしむ窓を開け放つと、白い朝の光がさっと部屋に差しこんだ。


「夜明けだ」


 いつの間にか後ろに立っていた子怜がつぶやいた。


 白んだ空に、引きしぼった弓のような弦月がかすんでいた。



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