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沙州関異聞  作者: いろは
第二章
13/42

十二

 怪我人のために開放された兵舎の一室は、血と汗と膏薬が混ざり合った、なんとも言えない匂いがたちこめていた。なかをのぞきこんだ春明は、胃の腑から込み上がってくる酸っぱいものを辛うじてこらえた。


 きょろきょろと左右を見わたし、ほどなく怪我人の間にかがみこんでいるなで肩の男を見つける。


「阮之どの」

「これは春明どの」


 阮之は立ち上がって微笑んだ。よどんだ空気のなか、この男のまわりだけ清涼な風がそよいでいるかのように思える。


「何かご用ですか」

「いえ、用ってほどじゃないんですけど、少し休まれたらどうかと思いまして」


 時刻はすでに深夜に近い。昼間の事故で運びこまれた怪我人は二十名をこえており、この城で唯一医術の心得がある阮之は、それこそ腰をおろす暇もなく働きづめだったのだ。


「ありがとうございます。ですが、この場を離れるわけにもいきませんので」

「そうおっしゃると思って」


 春明は手にした包みをかるくかかげてみせた。


「簡単につまめる夜食を持ってきました。ちょっとだけでも座ってお腹に何か入れてください。でないと阮之どのが倒れてしまいますよ。そうなったら困るのはわたしたちですから、ね」


 春明の言葉に起きていた兵たちが一斉にうなずき、阮之は目を丸くして、すぐに顔をほころばせた。


「春明どのは気がききますね」

「いえ、これは子怜さまからです。じつはわたしも夕飯がまだでして、お相伴させてもらえるとありがたいんですけど」


 大事故の後のこととて、さすがに子怜もぐうたらを決めこんではいられないらしく、城輔の奎厦から報告を受けた後は、現場にいた兵のひとりひとりに話を聞いてまわっている。


 なにか手伝うことはないかと申しでた春明に、子怜は夜食の包みをわたし、阮之に届けるように言いつけた。ついでに春明も食べておいで、誰かと一緒の方があのひとも気が楽だろうからと、笑顔でつけくわえられたことは阮之には内緒だ。


「あ、でも安心してください。これ作ったのは子怜さまじゃありませんから」


 阮之は不思議そうな顔をしたが、賢明にも質問はさしひかえた。


 兵舎の外に出たふたりは、地べたに並んで座り、しばらく食事に専念した。


 濃紺の空は綺麗に晴れわたり、無数の星を従えた月が冴えた光を地上に投げかけている。夢の中とちがって、きちんと空は明るい。


 冷めた肉饅頭をほおばる春明のとなりで、阮之は水筒から水を飲み、ほっと小さく息をついた。その横顔には隠しきれない疲労の色がにじんでいる。怪我人の前では平気なふりをしていても、その実かなり無理をしていたのだろう。声をかけてよかったと春明は思い、あらためて子怜の配慮に感心した。


 食事が済んだところで、春明は阮之に尋ねた。


「今日みたいな事故って、多いんですか」

「そうですねえ」


 阮之は指を折って数える。


「小さなものも含めれば五度目ですかね。今回のように怪我人が大勢出たのは初めてですが」

「そんなに」

「工事に事故はつきものです。怪我人が出ることも珍しくはありません。ですが、ここまで続くのはやはり異常ですね。皆が騒ぐのも無理はないでしょう」


 楼西の呪い。あの少年兵はそう訴えていた。仲間の名も口にしていたように思う。そう、たしか洪といった。奎厦のせいでおかしくなったとはどういう意味なのだろう。


「……やっぱり楼西の亡霊のしわざなんでしょうか」

「さあ、それはどうでしょう。亡霊のせいというより、皆でそのように仕向けているのかもしれませんよ」

「仕向けている?」


 春明が驚いて訊き返すと、阮之は口元にうすい笑みを浮かべた。


「人というものは、己の理解が及ばないものをひどく嫌うものです。不確かなもの、説明がつかないものがいつまでもそばにあると、不安で仕方ありませんでしょう。だから、原因を必死で探すのですよ。かりそめでもいい。自分が納得できる理由をひねり出して、目の前の事柄に当てはめる。それでひとまず安心できますからね」

「……つまり、事故を楼西の呪いのせいにしてしまったほうが安心する?」


 そのとおり、と阮之はうなずく。


「そのほうが楽ですから。小さな不注意が積みかさなって大きな事故を生むのはよくあることです。原因はそれこそ無数にあり、ひとつにしぼることなどできません。ですが、それでは気持ちがおさまりませんからね。はっきりとした理由が欲しいのです。そこで、こう考える。これも楼西の呪いのせいだ、と」


 ごく自然な考えだろう。現に沙州関の兵は、夜ごと楼西の悪夢に苦しめられているのだから。しかも、いちおう理屈はとおっている。沙州関を攻めたてる楼西兵にとって、堅固な城壁は障害となる。だから、城壁の補修を邪魔するのだ。


「おそらく、皆の疑いが確信に変わったのは、二度目の事故の時でしょうね。今日と同じ現場で、同じような壁の崩落が起きまして。崩れたといっても、あのときの壁はせいぜい胸くらいの高さでしたから、被害はたいしたものではありませんでした。怪我人も、軽傷の者が数名出た程度です。ですが、時期が悪かったのですよ」


 その翌朝のことだったという。例の兵が眠ったまま息をひきとったのは。


「偶然でしょう」


 そう阮之は言いきった。


「ですが、夜毎の悪夢で疲れはてていた兵は、その出来事を機に信じこんでしまったのですよ。事故が起こるのは楼西の呪いのせいだとね」


 楼西の亡霊が、城の再建を阻んでいるのだと。


「ひとたびその考えに囚われてしまえば、抜け出すのは容易ではありません」


 集団で暗示にかかっているようなものだと阮之は語った。恐怖で体が思うように動かず、手を滑らせる。何かにつまずく。確認がおろそかになる。


「そういったひとつひとつの小さな不注意が、積もり積もって次の事故を生む。すると皆はますますこう思う。やはり、とね」


 やはりそうなのだ。これは楼西の呪いだと。


「……悪循環、ですね」

「奎厦どのも同じことをおっしゃっていました。あのかたは状況を正しく把握していらっしゃる。そして、だからこそ焦っておられる」


 阮之の顔がくもった。主を気遣うというより、弟を案じる兄のような表情だった。


「奎厦どのは、一日も早く城壁の補修を終わらせ、兵たちの不安を断ち切ろうとなさっているのですよ。ですが、その奎厦どのの強い姿勢が、呪いにおびえる兵の目には非情なものに映るのです。どちらが正しいというものではありません。それぞれに考えがあり、理があります」


 阮之の語りに、くぐもったうめき声が重なった。春明が兵舎の中をのぞくと、奥の方で横たわっている男が眠りながら手足を弱々しく動かしている姿が見えた。


「かわいそうに。こんなときでも、あの夢からは逃れられないのですね」


 痛ましそうにつぶやいたあとで、阮之は春明に向き直った。


「春明どのは、いつお発ちになるのです」




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