表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<長編版>妹に婚約者を譲れと言われたので、慰謝料をもらって旅に出ることにしました   作者: momotarou


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

9/17

第9話 守られるだけの令嬢ではありません

 妹リリアの従者だったトマスが連れていかれた後、港の裏道には少しだけ静けさが戻った。


 表通りでは、荷車の音や商人たちの声が聞こえている。


 けれどこの細い道には、魚網の匂いと、湿った木箱の匂いと、遠くから届くカモメの声だけが残っていた。


 私は、トマスが去っていった方をしばらく見つめていた。


 リリアの従者だった人。


 命じられるまま、私を追ってきた人。


 けれど今は、別の道へ歩き出そうとしている人。


 あの背中が少し軽く見えたことに、私は小さく息を吐いた。


「エレノア嬢」


 隣から、エリオット様の声がした。


「はい」


「あなたは、これからどうするつもりですか」


「予定通りです」


 私は顔を上げた。


「港町ミラを観光します」


 エリオット様は、少しだけ眉を上げた。


「本気ですか」


「もちろんです。私はそのために旅に出たのですから」


「ですが、今の件で分かったでしょう。あなたを見ている者がいました」


「それは、そうですが」


「だから、心配しています」


 その言い方があまりに真面目だったので、私は少しだけ言葉を失った。


 心配してくれているのは分かる。


 けれど、その心配にすべて従ってしまえば、私はまた誰かに道を決められることになる。


 それは嫌だった。


 私は少し笑って、自分の服をつまんで見せた。


「私の格好を見てください」


 質素な旅服。


 飾り気のない上着。


 歩きやすい靴。


 髪飾りもつけていない。


 化粧もほとんどしていない。


「どう見ても、町娘でしょう?」


 エリオット様は私を見た。


 真面目な顔で、上から下まで。


 そして、静かに首を横に振った。


「遠くから見れば、そう見えるかもしれません」


「でしょう?」


「けれど、近くで見れば違います」


「違いますか」


「違います」


 即答だった。


「肌が白すぎます。手も、荷を運ぶ人の手ではない。歩き方も、言葉の選び方も、周囲を見る目も違う。質素な服を着ていても、あなたは令嬢にしか見えません」


「……そこまで言われると、少し困ります」


「困ってください。私は心配しています」


 また真面目な顔で言われた。


 心配してくれるのは、ありがたい。


 けれど、私は守られるために海を越えたのではない。


「エリオット様」


「はい」


「では、少しだけ試してみますか」


「試す?」


「私が、本当に無防備かどうかです」


 エリオット様は不思議そうにした。


 私は笑って、彼の右手を取った。


 手袋越しでも分かる、剣を扱う人の手だった。


 大きく、しっかりしている。


 けれど私は、力で引いたわけではない。


 ほんの少し、相手の重心が外れる場所へ足を置く。


 手首の向きを軽く変える。


 次の瞬間、エリオット様の体がふっと崩れた。


「……っ?」


 彼が声を出すより早く、片足が浮き、肩が流れ、気づいた時には石畳の上に転がっていた。


 周囲の護衛たちが、同時に動きかける。


 けれどエリオット様は、寝転がったまま片手を上げた。


「動くな」


 その一言で、護衛たちは止まった。


 私は慌てて膝を折り、エリオット様に手を差し出した。


「大丈夫ですか?」


 エリオット様はしばらく私を見上げていた。


 目を瞬かせている。


 言葉が出ないらしい。


「……今、何をされたのですか」


「護身術です」


「護身術」


「はい」


 私は彼の手を取って、立ち上がるのを手伝った。


 彼は服についた埃を軽く払いながら、まだ少し信じられないものを見るような顔をしていた。


「私は、完全に油断していました」


「はい。そこを狙いました」


「正直ですね」


「言葉で説明するより、見ていただいた方が早いと思いまして」


 私は少しだけ裾を整え、きちんとお辞儀をした。


「女性は、何かと危ない目に遭います。ですから私は、幼いころから護身術を身につけていました」


「幼いころから?」


「ええ。私、昔は男の子と間違われることが多かったのです。木登りも、走ることも好きでしたし、屋敷の護衛から少しずつ教わりました」


「少しずつ、で私を転がせるのですか」


「エリオット様が油断してくださったおかげです」


「油断していなければ?」


「逃げる時間くらいは作れます」


 そう言うと、エリオット様はしばらく黙った。


 怒っているのかと思った。


 けれど違った。


 彼は、驚きと感心が混じったような顔をしている。


「驚きました」


「では、少しは信用していただけましたか」


「かなり」


 エリオット様は小さく笑った。


「ですが、心配が消えたわけではありません」


「それでも、私は行きます」


 私はまっすぐに彼を見た。


「心配していただけるのは嬉しいです。けれど、これは私が決めた旅です」


 港の風が吹いた。


 潮の匂いがする。


 遠くで商人が値段を叫んでいる。


 私は本当に、この町に来たのだ。


 誰かの許可を得るためではなく。


 誰かに守られるためでもなく。


 自分を取り戻すために。


「私は、この町を歩きます。見たいものを見て、自分で選んで、自分の足で進みます」


 エリオット様は、私をしばらく見ていた。


 やがて、小さく息を吐く。


「分かりました」


「ありがとうございます」


「ただし」


「せめて、宿までは送らせてください」


「宿ですか、これから探すつもりでした」


 そう答えると、エリオット様は少しだけ考えるように目を伏せた。


「でしたら、私の知っている宿までエスコートさせてください」


 エリオット様は、少しからかうように言った。


「エスコートですか」


「ええ」


「……普通に案内してくださるだけなら」


 そう言ってから、しまったと思った。


 私は、思わず了承してしまっていた。


 エリオット様は嬉しそうに笑った。


「喜んで」


 彼は軽く頭を下げた。


 その仕草は、やはり王太子殿下らしく美しかった。


 けれど私の目には、少しだけ石畳に転がっていた姿も重なって見える。


 私は笑いそうになるのをこらえながら、港町ミラの通りへ足を踏み出した。


 宿は、思っていたよりも近かった。


 港の大通りから少し入っただけで、人の声は少し遠くなる。


 けれど、町の気配は消えない。


 白い壁。


 青く塗られた扉。


 窓辺に並んだ花鉢。


 軒先に干された布。


 どこかから漂ってくる焼いた魚の匂いと、甘い菓子の香り。


 潮風の中に、知らない香辛料の匂いが混じっている。


 ルーベル王国とは違う。


 本で読んだ港町とも違う。


 ここは、本当に異国なのだ。


「ここです」


 エリオット様が足を止めた。


 そこは、思っていたよりも質素な宿だった。


 高い柱も、金の飾りもない。


 けれど玄関はきれいに掃かれ、扉の取っ手も磨かれている。


 白いカモメの絵が描かれた看板が、風に小さく揺れていた。


 高級な宿に案内されるのではないかと少し身構えていた私は、内心でほっとした。


「落ち着いた宿ですね」


「女主人がしっかりしています。旅の女性もよく泊まります」


「それは、ありがたいです」


 派手ではない。


 けれど、きちんと手入れされている宿だった。


 こういう場所の方が、今の私には合っている気がした。


 エリオット様が、何か言おうとした。


 けれど私は、その前に姿勢を正した。


「ありがとうございました。あとは大丈夫です」


 エリオット様は、少し驚いたように私を見た。


 ほんの短い沈黙が落ちる。


 それから、彼は小さくうなずいた。


「……分かりました」


「ここまで案内していただき、助かりました」


「無理はしないでください」


「はい」


「それから、何かあれば宿の女主人に相談してください。頼りになる人です」


「分かりました」


 エリオット様はそれ以上、踏み込んでこなかった。


「では、エレノア嬢。また」


「はい。エリオット様」


 彼は軽く頭を下げ、港の方へ歩いていった。


 私は、その後ろ姿をしばらく見送っていた。


 背筋の伸びた歩き方。


 王太子殿下らしい、迷いのない足取り。


 けれど私には、石畳に転がった時の驚いた顔も、幼いころ庭の隅で泣いていた少年の姿も、同時に浮かんでしまう。


 不思議な人だと思った。


 遠い人なのに、少し近い。


 近いようで、やはり遠い。


 胸の奥に、ほんの少し寂しさが残った。


 でも、私は首を振った。


 私は、一人の自由な道を選んだのだ。


 誰かの家に守られるためではない。


 誰かの名に寄りかかるためでもない。


 自分を取り戻すために、この町まで来た。


 社交界とは、やはりしばらく距離を置きたい。


 王太子殿下という名前とも。


 家同士の思惑とも。


 誰かに決められる未来とも。


 私は宿の扉を開けた。


 中にいた女主人は、明るく私を迎えてくれた。


 部屋が空いているか尋ねると、彼女はすぐにうなずいた。


「一人旅かい? なら、二階の海側の部屋がいいね。静かだし、風も通るよ」


 そう言って案内された部屋は、小さかった。


 けれど、掃除は行き届いていて、窓辺には白い布のカーテンが揺れている。


 私は荷物を置き、そっとベランダへ出た。


 その瞬間、海が見えた。


 屋根の向こうに、青い水面が広がっている。


 港に停まる船。


 飛び交うカモメ。


 遠くで光る波。


 私は手すりに触れ、静かに息を吸った。


 港町ミラ。


 私がずっと来たかった町。


 明日は、念願の聖マリア大教会へ行ってみよう。


 そう思うと、胸の奥が少しだけ明るくなった。


 私の旅は、まだ始まったばかりだ。

続きを読みたいと思ってくださった方は、評価を入れていただけると、とても励みになります。

毎日11:40分に更新予定です。お昼休みにでもお読み頂ければ嬉しいです。

https://ncode.syosetu.com/n9354mc/

こちらの作品もおもしろいと思います。読んでいただけると有難いです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
最後に1つと言いながら、ワンパンで相手を撃沈する様な作品が何処かに…う、頭が痛い…。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ