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<長編版>妹に婚約者を譲れと言われたので、慰謝料をもらって旅に出ることにしました   作者: momotarou


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第10話 私は、世の中を知らなかった

 翌朝、私は波の音で目を覚ました。


 昨日までの疲れがあったのか、私はいつの間にか深く眠っていた。


 最初、自分がどこにいるのか分からなかった。

 見慣れた天井ではない。

 重たい天蓋もない。

 部屋に控える侍女の気配もない。


 白い布のカーテンが、海風に揺れている。

 私はしばらく寝台の上で瞬きをして、それからようやく思い出した。


 港町ミラ。

 私は、旅に出たのだ。

 体を起こすと、まだ少し体が重かった。


 嵐。

 船倉に流れ込んできた海水。


 魚のスープ。


 泣いていた少年だったエリオット様。


 リリアの従者だったトマス。


 そして、石畳に転がった王太子殿下。


 思い出した瞬間、少しだけ笑いそうになった。

 けれど、すぐに息を整える。


 今日は、港町ミラを歩く日だ。

 私は身支度をした。

 質素な旅服に袖を通し、髪を簡単にまとめる。

 鏡の中の私は、昨日より少しだけ旅人らしく見えた。

 少なくとも、自分ではそう思いたかった。


 身支度を終えてからベランダへ出ると、海が見えた。

 屋根の向こうに青い水面が広がり、港に停まる船の帆が朝の光を受けている。

 カモメが鳴き、遠くで荷を運ぶ人々の声が響いていた。


 私は手すりに触れ、ゆっくり息を吸った。

 潮の匂い。

 焼きたてのパンの香り。

 どこか知らない香辛料の匂い。


 この町は、もう朝から生きていた。

 私は宿の女主人に礼を言い、外へ出た。

 目指すのは、聖マリア大聖堂。


 十二才のころ、本の挿絵で見て、目に焼き付いた場所だ。

 私は、遅い朝食を取るために市場へ寄ることにした。

 通りに出ると、すでにたくさんの人が歩いていた。


 野菜を積んだ荷車。

 魚を並べる店。

 布を売る店。

 香辛料の袋。

 焼いた菓子。

 籠いっぱいの果物。


 色も、匂いも、声も、王都の屋敷の中とはまるで違った。

「奥さん、この玉ねぎは今朝のものだよ!」

「高いねえ。昨日より銅貨一枚分上がってるじゃないか」

「嵐の後なんだ、仕方ないだろう!」

「だったら少しまけな!」


 売る人も、買う人も、声が大きい。

 けれど、不思議と嫌な感じはしなかった。

 言い合いながら笑っている。

 値切りながら、相手の顔を見ている。


 私は立ち止まり、並べられた野菜を見た。

 丸い玉ねぎ。

 赤い実。

 葉のついた根菜。

 それぞれに値段が書かれている。


 私は、その値段を見て、すぐには意味が分からなかった。

 安いのか。

 高いのか。

 これが普通なのか。


 まったく判断できなかった。

 私は、野菜一束の値段を知らなかった。

 肉がどれほど高いものなのかも知らなかった。

 穀物の袋が、一家にとってどれほど大切なのかも知らなかった。

 パン一つを買う時、人がどれくらい硬貨を数えるのかも知らなかった。


 王都を歩いたことならある。

 けれど、私は物の値段など気にしたことがなかった。


 店に並ぶ品物は、誰かが用意してくれるものだった。

 食卓に並ぶ料理は、厨房で作られて出てくるものだった。

 服も、靴も、髪飾りも、必要なら誰かが選び、届けてくれた。


 私は、自分が何を知らないのかさえ知らなかった。


 隣で、小さな子どもを連れた女性が硬貨を数えていた。

「今日は肉はやめようかね。魚にしよう」

「お肉がいい」

「明日ね。今日は魚が安いから」


 子どもは少し不満そうだったが、母親が笑って頭を撫でると、すぐに魚の方を見た。

 何気ない会話だった。

 けれど私には、胸に残った。

 人は毎日、こうして選んでいるのだ。

 何を買うか。

 何をあきらめるか。

 何を明日に回すか。


 そんなことを、私は考えたことがなかった。


 市場を抜けるころには、足よりも頭の方が疲れていた。

 聖マリア大聖堂へ向かう前に、何か食べておこうと思った。


 けれど、そこで私はまた立ち止まった。


 小さな食堂があった。

 扉は開いている。

 中からは、焼いた魚とパンの匂いがする。

 男たちの笑い声。

 食器の音。

 店主の元気な声。


 昨日はエリオット様がいた。

 魚のスープの店にも、彼が案内してくれた。

 けれど、今は一人だ。

 たった一人で食堂に入る。


 それだけのことが、こんなに緊張するとは思わなかった。


 私は店の前を一度通り過ぎた。

 少し歩いて、引き返した。

 また扉の前で止まる。


 中の人々は、私など気にしていない。

 分かっている。

 けれど、自分だけが場違いに思えた。


 令嬢として食事の席に着くことは、いくらでもあった。

 席順。

 作法。

 会話。

 笑い方。

 食器の持ち方。


 それなら知っている。


 でも、街の食堂に一人で入り、空いている席を見つけ、何を頼むか自分で決めて、自分で支払う。

 そのやり方を、私は知らなかった。

 私は深く息を吸った。


「知らないなら、覚えればいい」


 小さくそう言って、私は扉をくぐった。


「いらっしゃい!」


 店主の声が飛んでくる。

 私は少し肩を揺らしたが、なんとか空いている席へ座った。


「何にする?」


 何にする。


 そう聞かれて、また固まった。


 献立は壁に書かれている。

 魚の焼いたもの。

 野菜の煮込み。

 豆のスープ。

 パン。


 私は値段を見て、迷った。

 どれが朝食として普通なのか分からない。

 高すぎるものを頼んでいるのか、安すぎるものを頼んでいるのかも分からない。


「豆のスープと、パンをお願いします」


 ようやくそう言うと、店主はうなずいた。


「あいよ」


 それだけだった。

 笑われもしなかった。

 怪しまれもしなかった。

 ただ、注文として受け取られた。


 それが、妙にうれしかった。


 運ばれてきた豆のスープは、素朴な味だった。

 けれど温かくて、腹にたまった。

 パンは少し硬かったが、スープに浸すとおいしい。


 私はゆっくり食べながら、周りの人たちを見た。

 船員たちはあの嵐の話をしていた。

 商人は荷の遅れに文句を言いながら、それでも笑っている。


 店主は誰かに大声で怒鳴り、次の瞬間には同じ相手にパンを一つおまけしていた。


 みんな、簡単に生きているわけではない。

 値段を見て、財布を見て、働いて、文句を言って、笑っている。

 暮らしていくのは、大変なのだ。


 けれど、この町の人たちは、その大変さに負けていない。

 笑いながら、声を上げながら、今日を生きている。


 私はさじをふと止めて、王都の屋敷での日々を思い出した。


 父と母は、良家の婿養子を見つけることに夢中だった。

 女は礼儀作法と、美しさと、気品があればよい。

 そう言われてきた。


 笑う時は控えめに。

 歩く時は静かに。

 声は高すぎず、低すぎず。

 話題は選び、怒りは隠し、悲しみは美しく見せる。


 特に、コルセットは嫌だった。

 少しでも細く。

 少しでも優雅に。

 誰もが競うように腰を締め上げる。


 息ができないほど苦しくても、顔には出してはいけない。

 美しくあるために、苦しいのは当たり前。

 そう言われた。


 社交の場では、上品な言葉が飛び交っていた。

 誰かの婚約。

 誰かの失敗。

 誰かの家の借金。

 誰かの娘の噂。


 香水の匂いの中で、みんな微笑みながら、互いの腹の内を探っていた。

 大きな声で笑う人はいない。

 値段をめぐって言い合う人もいない。


 けれど、あの場所の方が、ずっと息苦しかった。


 ここでは、みんなが生きている音を立てている。

 あちらでは、みんなが美しく見える音だけを立てていた。

 私は何も知らなかった。


 野菜の値段も。

 パンの値段も。

 一人で食堂に入る緊張も。

 人が毎日を暮らしていく大変さも。

 それでも笑って生きる強さも。


 自分がどれほど狭い場所にいたのかも。


 私は、何も知らなかった。


 けれど、不思議と恥ずかしいだけではなかった。


 知らなかったなら、知ればいい。

 できなかったなら、少しずつできるようになればいい。


 私は、食事を終えると、硬貨を数えて支払った。

 店主は当然のように受け取り、当然のようにうなずいた。


「ありがとよ」


 それだけ。


 たったそれだけなのに、私は少し胸を張って店を出た。


 自分で選んだ。

 自分で食べた。

 自分で支払った。

 小さなことだ。


 けれど、今の私には大きなことだった。

 通りに出ると、聖マリア大聖堂の鐘が鳴った。

 私は顔を上げた。


 丘の上に、白い石の尖塔が見える。


 十二才のころ、本の挿絵で見た場所。


 けれど今の私は、あのころの私とは少し違う。


 ただ憧れの建物を見に行くのではない。

 この町で人がどう生きているのかを、少しだけ知った私として、そこへ向かうのだ。


 聖マリア大聖堂へ向かう道には、同じ方へ歩く人々がいた。


 花を抱えた女性。

 小さな子どもの手を引く父親。

 杖をついた老人。

 旅装の巡礼者。


 誰もがそれぞれの顔で、丘の上を見上げている。

 私はその流れに混じりながら、白い尖塔せんとうを見上げた。


 近づくほどに、大聖堂は大きくなっていく。

 聖マリア大聖堂。


 本で読んだ通りなら、そこはアステリア連合国の成立と共に建てられた場所だ。

 百年以上前。


 各国に分かれていた教会が一つにまとめられ、聖マリア教会が統一された教会として発足した。

 その象徴として建てられたのが、この大聖堂だった。


 祈りの場であると同時に、連合国の象徴でもある。

 各国の王や皇太子、大臣たちが顔を合わせる会見の場としても使われるため、一般の人間が入れるのは入口付近までだ。


 あまりにも大きく、荘厳で、左右対称に整っていた。

 屋根は高く、太陽の光を受けて白く輝いている。

 建物に近づいただけで、ひれ伏したくなるほどの神聖さがあった。


 私は、思わず息をのんだ。


 そして振り返ると、美しい景色が目に飛び込んできた。


 青く晴れ渡る空。

 赤い屋根が並ぶ町。

 遠くに光る海。

 そして、頬をなでる心地よい風。


 十二才のころ、本の挿絵で見た場所。

 けれど本物は、絵よりもずっと大きく、ずっと重かった。

 自分の足で、この場に立っていることが信じられなかった。


 カイル・ヴェルナー侯爵令息。

 女好きで、弱い者にだけ強い男。


 あの婚約を手放したから、私はここに立っている。

 そう思うと、ようやく胸の奥で言えた。

 私の選択は、間違っていなかった。


「お姉さまだけずるいわ」


 リリアのいつもの口癖が、ふと頭をよぎった。

 私は少しだけ笑ってしまった。


 ずるいのではない。

 私は、選んだのだ。


 私は、大聖堂の入口付近までゆっくりと歩いて行った。

 入口から見える景色だけで、十分すぎるほどだった。


 色とりどりのステンドグラス。

 高い天井に描かれた天上界の絵。


 柱の一本一本、壁の縁、扉の金具にまで施された細かな彫刻。

 そのすべてが、ただ美しいだけではなかった。


 百年以上の祈りと、権力と、国の誇りが積み重なっている。

 そして、同時に、私は何も知らなかったと感じた。


 物の値段も。

 一人で食堂に入る勇気も。

 人が今日を生きるために、何を選び、何をあきらめているのかも。


 そして、この美しい大聖堂が、ただ美しいだけの建物ではないことも。


 知らなかったことを知るたびに、世界は少しずつ形を変えるのかもしれない。


 自由とは、好きな場所へ行くことだけではない。

 自分の財布で支払い、自分の足で歩き、自分で選んだ一日を生きること。

 その積み重ねなのかもしれない。


 私は高い天井を見上げた。

 天上界の絵の中で、光を受けた聖マリアが静かに微笑んでいる。

 色とりどりのステンドグラスから差し込む光が、石の床に落ちていた。


 まだ知らないことばかりだ。

 でも、それでいい。

 私はこれから、知っていけばいい。


 今まで私は、小さな殻の中で、世界を知ったつもりになっていた。

 けれど、その殻の外には、こんなにも広い景色があった。


 私は今、その先へ続く扉の前に立っている。


 怖さもある。


 けれど、それ以上に、胸の奥が高鳴っていた。

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毎日11:40分に更新予定です。お昼休みにでもお読み頂ければ嬉しいです。

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こちらの作品もおもしろいと思います。読んでいただけると有難いです。

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