第8話 仕える相手を間違えただけ
魚のスープを食べ終えても、私の心は落ち着かなかった。
温かいスープは確かにおいしかった。
港町ミラの食堂はにぎやかで、店主の声は大きく、窓の外ではカモメが鳴いている。
それなのに、私の手はまだ少し冷えていた。
同じ船に乗っていた者が、私を見ていた。
船を降りた後も、距離を置いてついてきている。
エリオットはそう言った。
心当たりがないかと聞かれた時、私は「ない」と言い切れなかった。
家族。
元婚約者のカイル。
妹のリリア。
私が置いてきたはずの名前が、頭の中で一つずつ浮かんでは消えていく。
「エレノア嬢」
エリオットが静かに声をかけてきた。
「はい」
「そろそろ、話を聞きに行きましょう」
あまりに自然な言い方だった。
食後に市場へ行くような調子で、尾行者に会いに行こうと言う。
私は思わず、匙を置いた皿を見つめた。
「……本当に、捕まえているのですか」
「逃げられないようにしているだけです。まだ何もしていません」
「それを捕まえていると言うのではありませんか」
「そうとも言います」
エリオットは少しだけ笑った。
私は笑えなかった。
この人は、やはりただの旅人ではない。
昔、庭の隅で泣いていた少年だと聞いたばかりなのに、今は尾行者を確保して、落ち着いて食後の予定にしている。
どれが本当のエリオットなのか。
そう思ったけれど、答えはもう分かっていた。
たぶん、全部なのだ。
店主に礼を言い、私たちは食堂を出た。
「お嬢さん、また来なさいよ! 次はもっと顔色よく食べられるようになる!」
店主の大きな声が背中に飛んでくる。
「あ、ありがとうございます」
「エリオット坊ちゃん! お嬢さんを泣かせたら、鍋で殴るからな!」
「主人」
「冗談だ! 半分はな!」
店中が笑った。
その明るさに、少しだけ救われる。
けれど外へ出ると、空気はすぐに変わった。
港の大通りから少し外れた細い道に、エリオットの部下らしいたくましい男たちが立っていた。
彼らはエリオットを見ると、小さくうなずく。
「こちらです」
案内されたのは、食堂の裏にある物置小屋の近くだった。
木箱が積まれ、魚の網が壁にかけられている。
潮と木と、少し湿った縄の匂いがした。
そこに、一人の男がいた。
商人風の上着を着た男が、木箱のそばに立っている。
「君は、なぜエレノア嬢の後をつけている」
エリオットの声は、私に向ける時のものとは違っていた。
静かだが、怒りが含まれている。
「そ、そんな……私は、ただの商人です」
あまりにも分かりやすい嘘だった。
目は泳ぎ、声はうわずり、顔を見られまいとうつむいている。
「やましいことがないのなら、私の目を見て話してくれないか」
エリオットの目が鋭くなった。
その男は、おそるおそる顔を上げた。
けれど、私はその顔を見た瞬間、息をのんだ。
「……トマス」
私の声に、男の肩がびくりと震えた。
トマス。
リリアの家付きの従者だ。
年は私より少し上だったはずだ。
昔からよく働く人だった。
廊下を磨き、荷物を運び、リリアの細かな用事にも黙って従っていた。
気が弱く、人が良すぎるところがあった。
だからこそ、リリアにはよくきつく言われていた。
トマスは私を見るなり、その場にひざまずいた。
「エレノアお嬢様、申し訳ございません!」
彼は深く頭を下げた。
その声は震えていた。
「妹のリリアに頼まれたのね」
私が言うと、トマスはさらに肩を震わせた。
「リリア様は……その……お姉さまをお守りするようにと」
私は黙って彼を見た。
守る。
リリアが私を。
その言葉を聞いた瞬間、嘘だと分かった。
リリアが私を心配して従者をつけるはずがない。
リリアは、私が旅先で失敗するところを探らせていたのだ。
行きずりの男と親しくなるところ。
誰かを傷つけるところ。
事故や病で倒れるところ。
そして、もし私がこの旅先で死んだとしても、リリアはきっと泣くだろう。
誰よりも悲しげに。
誰よりも可憐に。
けれど、その涙の奥で、残るものを数えるはずだ。
ラングフォード家には、私とリリアしか子はいない。
私が消えれば、すべてはリリアのものになる。
父と母の愛も、屋敷も、家の財産も。
私は、怒りで声を荒げそうになった。
けれど、それは私が自ら選んだ道でもある。
私は家を出た。
慰謝料を受け取り、旅に出た。
だから今さら、リリアだけを責めても始まらない。
「トマス」
「はい……」
「本当に、私を守るように言われたの?」
トマスは答えなかった。
ひざまずいたまま、拳を握りしめている。
その沈黙だけで、十分だった。
「怒ってはいないわ」
私がそう言うと、トマスは信じられないものを見るように顔を上げた。
「え……」
「あなたが自分で考えて、私を追ってきたとは思っていないもの」
「申し訳ございません……私は、命じられて……」
「分かっているわ」
私は静かに息を吐いた。
リリアは、昔からそうだった。
自分の手は汚さない。
誰かに命じる。
そして自分は、無邪気に笑っている。
でも、目の前のトマスを責めても何も変わらない。
「トマス」
「はい」
「あなたは、これからもリリアのところで働きたいの?」
トマスは、はっとしたように私を見た。
けれど、すぐに視線を落とす。
答えは返ってこなかった。
答えられないのだ。
それだけで、分かった。
「……私は」
ようやく、トマスが小さく口を開いた。
「私は、他に行く場所がありません」
その声は、とても弱かった。
「両親もなく、身寄りもありません。拾っていただいた屋敷に仕えるしか、私には……」
「でも、つらいのでしょう」
トマスは何も言わなかった。
否定もしなかった。
リリアに仕えるのは、きっと楽ではない。
気まぐれに呼ばれ、失敗すれば責められ、成功しても褒められない。
それでも彼は、そこにいるしかなかったのだ。
「この町は活気があるわ」
私は周囲を見た。
港からは荷を運ぶ声が聞こえる。
市場の方では商人たちが叫んでいる。
どこも人手が必要そうだった。
「港も、市場も、食堂も、商会もある。仕事は探せばあるはずよ」
「私のような者に、できる仕事があるでしょうか」
「あるわ」
私ははっきりと言った。
トマスが驚いたように顔を上げる。
「あなたがよく働いている姿は見ていたわ。リリアがいない時には、私にもきちんと挨拶をしてくれた。人の気持ちも、主人に仕えることも知っている」
「ですが、私は……」
「主人を間違えただけよ」
その言葉を口にした瞬間、トマスの顔がゆがんだ。
泣きそうな顔だった。
けれど彼は泣かなかった。
ずっと、泣くことも許されなかったのかもしれない。
「私も探してあげる」
「本当、ですか」
「ええ。すぐに良い仕事が見つかるとは言えないけれど、少なくともリリアのところへ戻る以外の道を探すことはできるわ」
トマスはその場で、さらに深く頭を下げた。
「ありがとうございます……!」
「まだ礼を言うには早いわ」
私は少しだけ困ってしまった。
助けると言っても、私自身も旅に出たばかりだ。
この町に詳しいわけでもない。
仕事の紹介ができる立場でもない。
その時、隣で黙って聞いていたエリオットが口を開いた。
「エレノア嬢」
「はい」
「この従者は信頼できますか」
私は少し考えた。
昔から、人を傷つけるより、傷つけられる側に近い人だった。
「はい」
私は答えた。
「少なくとも、リリア以外に誰かとつながっている人ではありません。両親もなく、孤児として屋敷に来た人です。心根はやさしい人です」
「そうですか」
エリオットはトマスを見た。
トマスはひざまずいたまま、緊張で顔を青くしている。
「トマス、と言いましたね」
「は、はい!」
「あなたは、リリア嬢の命令でエレノア嬢をつけていた。それは事実ですね」
「はい……」
「エレノア嬢を傷つけることは命じられていましたか」
トマスは驚いたように顔を上げた。
「そのような命令は受けていません。もし命じられても、エレノアお嬢様を傷つけるなど、私にはできません」
その言葉に、嘘はなさそうだった。
エリオットはしばらく黙っていた。
トマスを責めるための沈黙ではない。
見極めるための沈黙だった。
やがて、彼は静かに口を開いた。
「では、ひとまず私の所で働いてもらいましょう」
私は思わずエリオットを見た。
「エリオット様?」
「人手は必要です。それに、よく働く者はいくらいても困りません」
エリオットは淡々と言った。
けれど、冷たい言い方ではなかった。
「もちろん、すぐに大事な仕事を任せるわけではありません。まずは働きぶりを見ます。身元も、改めて確認します」
「それは当然です」
私はうなずいた。
エリオットはトマスの前に立った。
「悪意がなく、よく働く者は、なかなかいません。そのことを忘れないでください」
トマスの肩が小さく震えた。
「私が……役に立つと、お思いですか」
「思います」
エリオットは迷わず答えた。
「だから声をかけているのです」
トマスは、しばらく声も出せないようだった。
それから、ゆっくりと顔を上げる。
さっきまで怯えるばかりだった目が、初めてエリオットをまっすぐに見た。
「ありがとうございます」
トマスの声が震えた。
「私は、誠心誠意、どのような仕事でも頑張ります」
「期待しています」
エリオットの言葉で、トマスはもうリリアの従者ではなくなっていた。
その目は、リリアの命令ではなく、エリオットの言葉を追っている。
この人は、そういうことができる人なのだ。
人を動かす言葉と、味方に変える知恵を持っている。
私は少しだけ息をのんだ。
王太子殿下。
その呼び名が、先ほどよりも重く感じられた。
ふと、幼いころのエリオットが庭の隅で泣いていた姿が浮かんだ。
あの子が、今は誰かの心の向きを変えている。
そう思うと、不思議な気持ちになった。
「はい……! ありがとうございます!」
トマスはまた深く頭を下げた。
私はその姿を見つめた。
私は、いらないものを捨ててきたのだ。
婚約者も、家の期待も、妹の涙に振り回される日々も。
自分を取り戻すために、私は海を越えた。
けれど、私がそうして一歩を踏み出したことで、トマスまであの屋敷から離れることができた。
そう思うと、胸の奥が少しだけ軽くなった。
「エレノア様」
トマスが顔を上げた。
「リリア様には、どうすれば……」
「何もしなくていいわ」
「ですが」
「あなたが戻らなければ、リリアは怒るでしょうね」
私は少しだけ笑った。
「でも、それはもうあなたの問題ではないわ」
そう言うと、トマスは目を見開いた。
まるで、自分の人生が自分のものだと初めて聞いたような顔だった。
「私の、問題ではない……」
「ええ。あなたは、あなたの次の仕事を頑張ればよいのよ」
トマスの唇が震えた。
今度こそ、彼の目に涙が浮かんだ。
「はい……」
エリオットの部下が、トマスを連れていく。
まずは詳しく話を聞くのだろう。
彼の背中はまだ頼りなかった。
けれど、その足取りは少しだけ軽く見えた。
「エレノア嬢」
エリオットが私の横に立つ。
「あなたは、甘いですね」
「そうでしょうか」
「ええ」
彼は少しだけ笑った。
「でも、嫌いではありません」
「それは褒めているのですか」
「かなり」
私は少しだけ息を吐いた。
「私は、あの人を助けられるほど立派ではありません。ただ、戻りたくない場所に戻るしかないと思っている人を、そのまま見送れなかっただけです」
「それを、助けると言うのだと思います」
エリオットの声は穏やかだった。
けれど私は、すぐには頷けなかった。
人を助ける。
そんな大げさなことをしたつもりはない。
でも、トマスの顔を見た時、放っておくことはできなかった。
リリアの言葉に怯えて、従うしかなかった人。
あの屋敷に残された、もう一人の誰か。
私は、そこから目をそらしたくなかった。
「リリアは怒るでしょうね」
私が言うと、エリオットは軽く肩をすくめた。
「怒るでしょう」
「面倒なことになります」
「すでに面倒なことになっていますから、今さらです」
「エリオット様」
「事実です」
彼は平然と言った。
私は思わず笑ってしまった。
港町ミラに着いたばかりだというのに。
温かい魚のスープを食べただけのはずなのに。
もう、妹の影が追ってきていた。
けれど、その影の中にいた一人の従者は、新しい道へ歩き出そうとしている。
なら、悪いことばかりではないのかもしれない。
私は港の方へ目を向けた。
潮の匂い。
商人たちの声。
遠くに見える聖マリア大教会。
私は本当に、この町に来たのだ。
そして、この町で最初にしたことは、観光でも買い物でもなく、妹の従者に新しい勤め先を探すことだった。
思わず、ため息が出る。
でも、そのため息は不思議と軽かった。
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