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<長編版>妹に婚約者を譲れと言われたので、慰謝料をもらって旅に出ることにしました   作者: momotarou


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第7話 魚のスープと、泣いていた少年

 船を降りた瞬間、足元の石畳が思ったよりも固く感じた。


 揺れない。


 床が傾かない。


 波に持ち上げられることも、落とされることもない。


 ただ地面に立っている。


 それだけのことなのに、胸の奥が熱くなった。


 私は本当に、港町ミラに着いたのだ。


 十二才のころ、本の挿絵で見て、いつか行ってみたいと願った町。


 丘の上には聖マリア大教会があり、港には商人の声が飛び交い、潮の匂いに香辛料の香りが混じっている。


 夢に見た町は、紙の上の絵ではなく、今、私の目の前にあった。


 昨日の夜、私は死ぬかもしれないと思った。


 冷たい海水が船倉に流れ込んできた時、もう助からないかもしれないと思った。


 けれど今、私は生きている。


 生きて、この町に立っている。


 そう思った瞬間、目の奥が少し熱くなった。


「歩けますか」


 横からエリオットに声をかけられ、私は慌ててまばたきをした。


「はい。昨日よりはずっと」


「では、約束の食堂へ行きましょう」


「本当に行くのですね」


「もちろんです。嵐を越えた後の魚のスープですよ。食べない理由がありません」


 真面目な顔で言うので、私は思わず笑ってしまった。


 王太子殿下。


 そう呼ばれる人のはずなのに、今の彼はどう見ても、港の食堂を楽しみにしている旅人だった。


 けれど私は、忘れてはいけない。


 この人は、ただの旅人ではない。


 それでも私は、彼に案内されるまま、港近くの食堂へ向かった。


 そこは、立派な店ではなかった。


 木の扉は少し古く、看板には大きな魚の絵が描かれている。


 扉を開けた瞬間、湯気と魚の香りと、焼きたてのパンの匂いが一気に押し寄せてきた。


 中では船員や商人らしい人々が、丸い木の机を囲んで食事をしている。


 声が大きい。


 笑い声も大きい。


 店の奥では、主人らしい大柄な男が鍋をかき混ぜながら、客と言い合いをしていた。


「塩が足りないだと? お前の舌が嵐で流されたんじゃないのか!」


 店中がどっと笑った。


 私は思わず目を丸くする。


 すると、店の主人がこちらに気づいた。


 彼は一瞬だけ目を見開き、次の瞬間、鍋のそばから大股でこちらへやってきた。


「おお! エリオット坊ちゃんじゃないか!」


 店中に響く声だった。


 私は思わず肩を揺らした。


 エリオットは少しだけ困ったように眉を寄せる。


「主人。声が大きいです」


「港の食堂で小さな声を出してどうする! 嵐に負けずに戻ったなら、まずは腹に入れろ。うちの魚のスープを飲めば、魂まで温まる!」


 主人はそこまで一気に言ってから、私を見た。


 そして、わざとらしいほど目を丸くする。


「それにしても、こんな美しいお嬢さんを連れてくるとは。初めてじゃないか?」


「主人」


 エリオットの声が少し低くなった。


「余計なことは言わなくていい」


「余計なこと? 美しいものを美しいと言うのは、この町の礼儀だ!」


 主人は大きく笑い、私に向かって軽く片目をつむった。


「お嬢さん、怖い目に遭っただろう。座りなさい。温かいものを食べるんだ。海で冷えた心には、魚のスープが一番だ」


「あ、ありがとうございます」


「礼は食べてからでいい。まずは二つだな? いや、嵐帰りならパンも多めだ。若い者は食べないと顔色が戻らん!」


 主人はそう言って、返事を待たずに奥へ戻っていった。


 私は少し呆然としていた。


 王太子殿下が連れてくる店にしては、あまりにも普通で、あまりにもにぎやかだった。


 でも、その騒がしさが、今は少しありがたかった。


「……ずいぶん、元気な方ですね」


「ええ」


 エリオットは小さくため息をついた。


「昔から、あの調子です」


「エリオット坊ちゃん、と呼ばれていましたけれど」


「聞かなかったことにしてください」


「それは難しいです」


 私がそう言うと、エリオットは困ったように笑った。


 その笑顔は、少しだけ旅人のものに戻っていた。


 奥の席に通されると、すぐに深い皿に入った魚のスープが運ばれてきた。


 白身魚。


 玉ねぎ。


 小さく切られた野菜。


 香草。


 湯気の中に、海とバターのようなやわらかい香りが混じっている。


 皿の横には、厚く切ったパンも置かれた。


「熱いうちに食べるんだ!」


 店主が遠くから叫ぶ。


「嵐も悲しみも、冷めたスープじゃ追い払えないからな!」


 また店の中で笑いが起きた。


 私は匙を手に取り、ゆっくりと口へ運んだ。


 温かい。


 それだけで、胸の奥がほどけるようだった。


 昨日の夜、冷たい海水が足元を濡らした。


 今は、温かいスープが体の内側にしみていく。


 その違いが、私に強く教えてくれる。


 私は、助かったのだ。


「おいしいです」


 思わずそう言うと、エリオットがうれしそうに笑った。


「よかった」


「嵐の後だからでしょうか。とても体にしみます」


「その気持ちは分かります」


 彼もスープを一口飲んだ。


 店はにぎやかだった。


 店主の声も、客の笑い声も、食器の音も、外から聞こえるカモメの声も、すべてが生きている音のように聞こえた。


 その中で、エリオットが静かに口を開いた。


「エレノア嬢」


「はい」


「実は、あなたとは昔お会いしたことがあります」


 私は匙を止めた。


「私と、ですか?」


「ええ。ルーベル王国の王宮で」


 私は記憶を探った。


 王宮。


 夜会。


 園遊会。


 父や母に連れられて行った場所。


 幼いころの私は、そういう場があまり好きではなかった。


 大人たちはにこやかに笑いながら、誰が上か、誰と近づくべきかを見ている。


 子どもながらに、それが息苦しかった。


「申し訳ありません。すぐには思い出せません」


「そうでしょうね」


 エリオットは苦笑した。


「あなたにとっては、ほんの短い出来事だったと思います」


「エリオット様にとっては、違ったのですか」


「ええ」


 彼は匙を置いた。


「私は幼いころから、何度かルーベル王国へ留学していました。表向きは友好のためです」


「表向きは、ですか」


「ええ。実際には、体のいい人質のようなものでもありました」


 私は息をのんだ。


 エリオットは静かに続ける。


「もちろん、ひどい扱いを受けていたわけではありません。学ぶ場所もあり、世話をしてくれる人もいました。ですが、子どもには分かるのです。自分が歓迎されている客人なのか、置かれている駒なのかくらいは」


 その言葉は重かった。


 幼い子どもが、異国の王宮で過ごす。


 それがどれだけ心細かったのか、私はすぐには想像できなかった。


「私はよく泣いていました」


 エリオットは少し笑った。


「今思えば、情けない子どもです」


「情けなくはありません」


 私は思わず言った。


 彼が少し目を見開く。


「子どもが寂しくて泣くのは、情けないことではありません」


 言ってから、少し強すぎたかもしれないと思った。


 けれどエリオットは、なぜか懐かしそうに笑った。


「あなたは、昔もそう言いました」


「私が?」


「ええ」


 彼は少しだけ視線を伏せた。


「王宮の庭の奥で、私は泣いていました。ある令嬢に、いろいろと言われた後でした」


「令嬢に……?」


「弱虫。泣き虫。お国に帰れない子」


 胸の奥が、冷たくなった。


 その言葉には、覚えがあった。


 リリア。


 妹は昔から、人前では可愛らしく笑う子だった。


 けれど誰も見ていない場所では、相手が一番傷つく言葉を選ぶことがあった。


「まさか、それを言ったのは……」


「あなたの妹君です」


 エリオットは、責めるようには言わなかった。


 だからこそ、私は余計に言葉を失った。


 リリア。


 あの子は、幼いころからそうだった。


 人前では泣き、誰かに守られる。


 けれど陰では、相手の弱いところをよく見ている。


「申し訳ありません」


 私は頭を下げた。


 エリオットはすぐに首を振った。


「あなたが謝ることではありません」


「でも」


「その後、あなたが来てくれました」


「私が?」


「ええ。私の前にしゃがんで、こう言ったのです」


 エリオットは少しだけ笑った。


「泣き虫でもいいわ。泣いたあとに立てば、それで十分よ、と」


 そんなことを言っただろうか。


 思い出せない。


 けれど、幼いころの私は、泣いている子どもを放っておけなかった気がする。


 弟がいたら、こんなふうに声をかけていたのかもしれない。


 そう思うと、胸の奥が少し痛んだ。


「私は、それをずっと覚えていました」


「そんな昔のことを、ですか」


「私にとっては、大事な言葉でしたから」


 エリオットは、まっすぐに私を見た。


「だから船であなたの名を聞いた時、すぐに思い出しました」


 私は驚いて、彼を見返した。


「では、最初から……」


「ええ。エレノア嬢だと分かっていました」


「私は、まったく覚えていませんでした」


「あなたにとっては、泣いている子どもに声をかけただけだったのでしょう」


 エリオットは穏やかに言った。


「でも、私には違いました」


 私は何も言えなくなった。


 船で初めて会ったと思っていた人が、実はずっと昔に私を覚えていた。


 しかも、私が忘れてしまったような言葉を、ずっと大事にしていた。


 温かい魚のスープを飲んでいるはずなのに、胸の奥が落ち着かない。


「やせっぽちで、内気で、よく泣いていた子どもでした」


 エリオットは自分のことをそう言った。


「今のあなたからは、想像できません」


「そう見えるなら、少しは成長できたのでしょう」


「少しどころではありません」


 私は正直に言った。


「嵐の中で人を動かしていた方と、泣いていた子どもが同じ人だなんて、すぐには信じられません」


 エリオットは少しだけ照れたように目を伏せた。


 その顔に、ほんのわずかに幼いころの面影がある気がした。


 けれど、私がそれを確かめる前に、彼の表情が変わった。


 ほんの一瞬。


 けれど確かに、目の色が変わった。


 エリオットはスープ皿に視線を落としたまま、声だけを低くした。


「エレノア嬢」


「はい」


「驚かずに聞いてください」


 私は匙を持つ手を止めた。


「あなたをつけている者がいます」


「……私を?」


「ええ。同じ船に乗っていました。船を降りた後も、ずっと距離を置いてついてきています。今も、外からこちらを見ています」


 私は思わず外を見ようとした。


 けれど、エリオットの声が静かにそれを止める。


「見ないでください。こちらが気づいたと悟られます」


 私は体を固くしたまま、ゆっくりと正面を向いた。


「なぜ、そんなことが分かるのですか」


「そういう立場で育ちましたから」


 さらりと言われて、私はさらに混乱した。


 そうだった。


 この人は魚のスープを食べながら、昔話をして、同時に周囲まで見ている人だった。


「心当たりはありますか」


「ありません」


 そう言いかけて、私は少しだけ迷った。


 家族。


 カイル。


 リリア。


 慰謝料。


 婚約破棄。


 私が置いてきたはずのものは、案外こちらへ追いかけてくるのかもしれない。


「……ない、とは言い切れません」


 エリオットは小さくうなずいた。


「分かりました」


「どうするのですか」


「部下に見張らせています。逃げられないようにだけして、食事の後で話を聞きましょう」


「話を、ですか」


「ええ。何を目的にあなたをつけていたのか、本人に聞くのが一番早いです」


 あまりにも落ち着いた声だった。


 私は匙を持ったまま、固まってしまった。


 昔、庭の隅で泣いていた子ども。


 嵐の中で人を動かした王太子。


 そして今、魚のスープを前にしながら、尾行者の扱いまで決めている人。


 どれが本当のエリオットなのだろう。


 たぶん、全部なのだ。


 そう思うと、私の心はますます落ち着かなくなった。


 魚のスープは、まだ温かい。


 港の食堂は、にぎやかだ。


 窓の外では、カモメの声がしている。


 それなのに私は、旅がまた別の方向へ動き出す音を聞いた気がした。

続きを読みたいと思ってくださった方は、ポイントを入れていただけると、とても励みになります。

毎日11:40分に更新予定です。お昼休みにでもお読み頂ければ嬉しいです。

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