第6話 嵐の後に、距離を知る
嵐が嘘だったかのように、空は晴れ渡っていた。
昨日、あれほど黒い雲に覆われていた海は、朝の光を受けて静かにきらめいている。
セイント・マリー号は、無事だった。
ただし、無傷ではない。
破れた帆。
濡れた甲板。
割れた木箱の欠片。
折れた縄。
船員たちは眠る間もなく、修理と片づけに追われていた。
私は甲板に立ち、ゆっくりと息を吸った。
塩の匂いがした。
冷たい海風が頬をなでる。
ただそれだけで、胸の奥がじんわりと熱くなった。
生きている。
昨日の夜、何度も失いかけたものが、今は確かにここにある。
私は手すりに手を置き、静かに海を見た。
その時、一羽のカモメが帆柱の近くに舞い降りた。
白い羽を揺らし、何事もなかったように甲板を歩いている。
昨日は、カモメが消えたことに怯えた。
嵐の前触れとして、カモメのいない空を見た。
そのカモメが、今はこうして船に戻ってきている。
「戻ってきたのですね」
思わず、そうつぶやいた。
「カモメが、ですか」
後ろから声がした。
振り返ると、エリオットが立っていた。
服は着替えているようだったが、顔にはまだ疲れが残っている。
それでも、目はまっすぐだった。
「はい。昨日は、姿が見えませんでしたから」
「嵐が終わったと、カモメも教えてくれたのかもしれませんね」
「そうですね」
私は少しだけ笑った。
けれど、エリオットは笑わなかった。
いつもなら、軽く冗談を返してくるところだ。
それなのに、今は静かに私を見ている。
「エレノア嬢」
「はい」
「昨日のことですが」
その声は、穏やかだった。
けれど、どこか固かった。
「あなたが甲板に出てきた時、私は本気で怒りました」
私は少しだけ身を引いた。
「……怒っていましたね」
「ええ」
「申し訳ありません」
「謝ってほしいわけではありません」
エリオットは一歩近づいた。
声は荒くない。
けれど、目だけは真剣だった。
「あなたが波にさらわれると思いました」
胸が、きゅっと縮んだ。
昨日の夜。
扉を開けた瞬間に吹きつけた雨。
息ができないほどの風。
暗い甲板。
叫ぶ船員。
あれを思い出すと、今さら手が冷たくなる。
「私も、危ないとは分かっていました」
「分かっていて出たのですか」
「はい」
エリオットの眉が少し動いた。
私は手すりを握りしめた。
「でも、伝えなければと思ったのです。人と荷を船倉へ移した方がいいかもしれないと。あの時、エリオット様なら船長と話せると思いました」
「だからといって、あなたが海に落ちていたら意味がありません」
「分かっています」
「本当に?」
その問いに、私はすぐには答えられなかった。
本当に分かっていたのだろうか。
あの時の私は、ただ必死だった。
怖くて、何もしないでいることが耐えられなかった。
「……分かっていたつもりでした」
正直に言うと、エリオットは小さく息を吐いた。
「そうでしょうね」
「怒っていますか」
「怒っています」
はっきりと言われて、私は言葉に詰まった。
エリオットは続けた。
「でも、同じくらい感謝もしています」
「感謝、ですか」
「船倉に人と荷を下ろしたことで、船が安定しました。そのおかげで、船は波に向かって進み続けることができたそうです」
私は息をのんだ。
「そんなに、大きなことだったのですか」
「船長も迷っていたようです。船倉に人まで集めるのは、賭けでしたから」
「では、なぜ……」
「私も、あなたの考えが正しいと思いました」
エリオットは力強く言った。
「全員が助かる道を選ぶべきだと。だから船長に伝えました」
「でも、もし間違っていたら」
「その時は、私の判断です」
その声は穏やかだった。
けれど、逃げる気のない声だった。
私は何も言えなかった。
ただの旅人なら、そんな言い方はしない。
もちろん、私は前から気づいていた。
エリオットは不思議な人だ。
船長と話せる。
船員が彼の言葉を無視しない。
嵐の中で、乗客たちを動かす声を持っている。
けれど、それでも私は、彼を旅人として見ようとしていた。
船で出会った、少し変わった旅人。
それなら、近くにいてもよかった。
そう思っていた。
「私も怖かったです」
気づけば、そう言っていた。
エリオットが黙る。
「歌っている間も、皆さんに大丈夫だと言っている間も、本当はずっと怖かったです。船倉に水が入ってきた時は、もうだめかもしれないと思いました」
「ええ」
「でも、やめたら、もっと怖くなると思いました」
カモメが甲板を歩き、小さく鳴いた。
その声が、妙に明るく聞こえた。
「エリオット様も、怖かったのですか」
私が尋ねると、彼は少しだけ笑った。
疲れたような、でも嘘のない笑みだった。
「怖かったですよ」
「そうは見えませんでした」
「見えないようにしていました」
「なぜですか」
「私が怖がれば、周りも怖がります」
その言葉は、落ち着いていた。
けれど、どこか重かった。
昨夜のエリオットを思い出す。
雨の中で声を張り、乗客を動かしていた姿。
命令する声。
迷いなく人を動かす姿。
あの時の彼は、ただの旅人には見えなかった。
けれど今、目の前にいるエリオットは、疲れた顔で海風を受けている若い男性だった。
怖かったと、素直に口にする人だった。
「それでも、甲板へ行ったのですね」
「あなたも船倉で歌っていたでしょう」
「私は、歌うことしかできませんでした」
「それで十分です」
エリオットは静かに言った。
「甲板に、あなたの声が小さく聞こえていました。船倉が静まり返っていないことは分かりました」
「聞こえていたのですか」
「少しだけ」
彼は、昨日よりも柔らかく笑った。
「その歌を聞いて、船員たちも助けなければと必死でした」
私は何も言えなかった。
昨夜、私はただ怖くて歌っていた。
自分の声が震えないように。
周りの悲鳴に飲まれないように。
でも、それが誰かに届いていたのなら。
それだけで、少し救われる気がした。
カモメが羽を広げ、青い空へ飛び上がった。
白い羽が、朝の光の中で遠ざかっていく。
「本当に、助かったのですね」
私が言うと、エリオットも空を見上げた。
「ええ。私たちは生きています」
「できれば、港に着いたら、私の家に……」
エリオットの顔が少し真剣になった。
その時だった。
甲板の向こうから、一人の男が早足で近づいてきた。
昨日、船倉へ人を運んでいた護衛らしい男の一人だった。
彼はエリオットの前で足を止め、深く頭を下げた。
「王太子殿下――」
そこまで言って、男ははっと口をつぐんだ。
風の音が、急に遠くなった気がした。
甲板の空気が、少しだけ変わる。
私は思わず、エリオットを見た。
王太子殿下。
今、確かにそう聞こえた。
エリオットは一瞬だけ目を伏せた。
けれどすぐに、何事もなかったように男へ向き直る。
「乗客の様子は」
声は落ち着いていた。
けれど、さっきまで私に向けていた柔らかさは消えていた。
「負傷者が数名。船酔いと思われる症状で、熱を出している方も多いようです」
「分かりました。私も見てきます」
「はい」
エリオットは私に向き直った。
口を開きかけたが、続きの言葉は出てこなかった。
「エレノア嬢。少し失礼します」
「あ、はい」
私はそう答えることしかできなかった。
彼はそれ以上何も言わず、男と共に甲板の向こうへ歩いていった。
私はその背中を見送った。
王太子殿下。
ただの旅人ではない。
それは分かっていた。
けれど、本当にそういう身分の人なのだとしたら、話は変わってくる。
旅人同士なら、もう少し親しくなれたかもしれない。
船の上で出会い、嵐を越え、港に着いたら温かい食事を共にする。
そんな関係なら、少しだけ心を許してもよかったのかもしれない。
けれど相手が殿下と呼ばれる人なら、そこにはまた身分がある。
礼儀がある。
立場がある。
家同士の思惑がある。
私がようやく置いてきたはずの、面倒な世界がある。
私は海へ目を向けた。
空は晴れている。
海は静かに光っている。
カモメの声も聞こえる。
それなのに、胸の奥に小さな影が落ちた。
昨日までなら、少し不思議な旅人だと思っていればよかった。
けれど今は、少し距離を取るべきなのかもしれない。
セイント・マリー号は、一日遅れで港町ミラへ向かっている。
私の旅は、まだ始まったばかりだ。
けれど、旅先で最初に出会った人は、思っていたよりもずっと遠い場所にいる人なのかもしれなかった。
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