第5話 船はまだ、進んでいる
甲板の方から、怒鳴り声が聞こえた。
「高波だ!」
その声が船倉に届いた瞬間、空気が凍った。
次の瞬間、セイント・マリー号が大きく持ち上がった。
体が浮く。
腹の奥が、ぞっと冷たくなる。
そして船は、落ちた。
どん、と重い音がして、船倉の中に悲鳴が広がった。
「沈む!」
「もうだめだ!」
「神さま!」
人々は体を縄や荷に固定していた。
それでも、激しい揺れのたびに肩がぶつかり、荷物がきしみ、誰かのすすり泣きが大きくなる。
暗い船倉の中で、不安はあっという間に広がっていった。
私は喉が震えるのを感じながら、それでも歌い続けた。
怖くないわけではない。
むしろ、怖くてたまらなかった。
高波。
沈没。
冷たい海。
頭の中に浮かぶ言葉を振り払うように、私は声を出した。
大きく。
できるだけ明るく。
庭を走り回っていた幼い日の歌を、何度も繰り返した。
その時だった。
船倉の入り口から、海水が流れ込んできた。
最初は、床を走る細い水の線だった。
けれど次の揺れで、それは一気に広がった。
冷たい水が足元を打つ。
靴の中まで水が入り、足先の感覚がすっと消えていく。
濡れた床を、荷箱の破片が流れていった。
暗い船倉に、潮の匂いが強く広がる。
誰かが叫んだ。
「水だ!」
「海水が入ってきた!」
「やっぱり沈むんだ!」
悲鳴がいっせいに大きくなった。
私の足元にも、水が来た。
冷たい。
重い。
海が、船の中まで入ってきた。
その事実だけで、喉が詰まりそうになる。
やはり、だめなのだろうか。
この船は、もう助からないのだろうか。
歌が止まりかけた。
けれど、私は奥歯を噛んだ。
止めてはいけない。
私が止めたら、ここにいる人たちの不安も一気に崩れてしまう。
だから、声を出した。
震えてもいい。
音が外れてもいい。
とにかく、歌い続けた。
その時、ふと気づいた。
船は、横に倒れていない。
たしかに大きく揺れている。
床が持ち上がり、落ちる。
胃が跳ねるほど、上下に揺れている。
けれど、横へ転がるような揺れではない。
船は、波に飲まれているのではない。
波に向かっている。
私は息をのんだ。
船長は、まだ船を操れている。
この船は、まだ終わっていない。
流れ込んだ海水も、下へ移した荷も、集まった人も、少しは船を重く、低くしているのかもしれない。
正しいかどうかは分からない。
私は船乗りではない。
でも、船はまだ戦っている。
そう思った瞬間、胸の中に小さな火が灯った。
私は歌を止め、できるだけ大きな声で言った。
「大丈夫です!」
自分でも驚くほど、大きな声だった。
船倉の中の視線が、こちらへ集まる。
「船はまだ横倒しになっていません!」
私は必死に続けた。
「揺れています。でも、船は波に向かっています。船長は、まだ船を進めています!」
「本当か?」
商人の一人が、青ざめた顔で聞いた。
「分かりません!」
私は正直に答えた。
その答えに、何人かが目を見開く。
「でも、横に倒れてはいません。まだ船は進んでいます。だから、私たちもここで踏ん張るしかありません!」
言いながら、私の手も震えていた。
でも、言葉は止めなかった。
「祈るだけでは、足りません。声を出しましょう。お互いの声が聞こえていれば、まだ大丈夫だと思えます」
しばらく、誰も何も言わなかった。
船がまた大きく上下する。
海水が床を流れる。
それでも、さっきほどの悲鳴は上がらなかった。
やがて、向かいに座っていた旅人が、かすれた声で歌い始めた。
私がさっきまで歌っていた歌だった。
次に、隣の商人が口を動かした。
その隣の護衛も、低い声で合わせる。
少しずつ、声が戻ってくる。
震える声。
泣きそうな声。
音の外れた声。
それでも、船倉の中に歌が戻ってきた。
私はまた歌い出した。
今度は一人ではなかった。
船が跳ねるたびに、歌は途切れた。
水が足元を流れるたびに、誰かの声が震えた。
それでも、みんなで歌った。
神さまに届くように。
甲板で戦う船員たちに届くように。
そして、自分たちがまだ生きていると確かめるように。
どれくらいそうしていただろう。
時間の感覚は、もうなかった。
夜がどこまで進んだのかも分からない。
ただ、ふと気づくと、船の揺れが少しだけ弱くなっていた。
さっきまでのように、体が浮くほどではない。
まだ揺れている。
まだ雨の音もする。
けれど、船のきしむ音が少し軽くなった気がした。
「今、少し……」
誰かがつぶやいた。
「揺れが弱くなったか?」
誰もすぐには答えなかった。
期待するのが怖かったのだ。
けれど、そのあとも船は少しずつ落ち着いていった。
大きく跳ねる揺れが減る。
床を走る水の勢いも弱まる。
歌う声が、少しずつ大きくなる。
もう祈りではなく、確かめるための歌になっていた。
生きている。
まだ生きている。
この船は、まだ進んでいる。
そして、ある瞬間だった。
船が、ふっと軽くなった。
あれほど荒れていた揺れが、急に遠のいたように感じた。
雨音も、少し薄くなる。
船倉の中が、不気味なほど静かになった。
私は息を止めた。
あまりに突然だった。
もしかして、もう死んでしまったのだろうか。
そんな馬鹿な考えが、頭をよぎる。
誰も動かなかった。
誰も声を出さなかった。
その時、船倉の扉が開いた。
光が差し込む。
ランプの光だった。
そこに、エリオットが立っていた。
髪は濡れ、顔には疲れがにじんでいる。
けれど、その目は生きていた。
「皆さん、大丈夫です」
エリオットの声が、船倉に響いた。
「嵐は抜けました」
誰もすぐには反応しなかった。
言葉の意味が、すぐには届かなかったのだと思う。
嵐は抜けた。
助かった。
私たちは、まだ生きている。
最初に声を上げたのは、商人だった。
「助かった……のか?」
エリオットはうなずいた。
「ええ。まだ船は無事です。これから順に、皆さんを船室へ戻します」
その言葉と同時に、船員たちが船倉へ入ってきた。
濡れた服のまま、疲れた顔をしている。
けれど、誰もがほっとしたような表情をしていた。
その瞬間、船倉の中に声が広がった。
「助かった!」
「神さま……!」
「生きているぞ!」
誰かが泣いた。
誰かが笑った。
誰かが隣の人の肩を抱いた。
私も笑おうとした。
けれど、できなかった。
涙しか出なかった。
緊張の糸が切れてしまったのだ。
怖かった。
本当に怖かった。
歌っている間も、励ましている間も、ずっと怖かった。
でも、終わった。
私たちは、嵐を越えた。
「エレノア嬢」
エリオットが近づいてきた。
私は慌てて涙をぬぐおうとした。
けれど、うまくいかなかった。
「すみません」
そう言うと、エリオットは少しだけ目を細めた。
「謝ることではありません」
「でも、泣いてしまって」
「泣いていいと思います」
彼は、いつもの少し柔らかい声で言った。
「あなたは、十分に強かった」
その言葉に、また涙が出た。
近くにいた商人が、こちらへ頭を下げた。
「お嬢さん、あんたの歌で助かった」
「え?」
「沈むと思った時、あの歌が聞こえた。あれがなければ、俺はたぶん叫び続けていた」
別の旅人もうなずいた。
「それに、船はまだ進んでいると言ってくれたでしょう。あれで、少し息ができました」
「私は、ただ……」
何か言おうとして、言葉が詰まった。
ただ、怖くて。
ただ、何かしなければと思って。
それだけだった。
エリオットが静かに言った。
「それが、できることをしたということです」
私は何も返せなかった。
船員たちが乗客を順に立たせ、船室へ戻していく。
足元はまだ濡れていた。
木の床は冷たく、船内には雨と海水の匂いが残っている。
それでも、さっきまでの絶望はもうなかった。
誰もが疲れきっていた。
けれど、顔には安堵があった。
船室に戻る途中、私は小さな窓の外を見た。
空はまだ暗い。
けれど、雲の切れ間に薄い光が見えた。
夜明けが近いのかもしれない。
その光を見た瞬間、私はようやく息を吐いた。
翌朝。
セイント・マリー号は、傷つきながらも海の上に浮かんでいた。
帆の一部は破れ、甲板には壊れた木箱の破片が残っていた。
船員たちは眠る間もなく、修理と片づけに追われている。
港町ミラへの到着は、一日遅れることになった。
けれど、それを責める者はいなかった。
一日遅れ。
その言葉が、こんなにもありがたいものだとは思わなかった。
遅れるということは、着けるということだ。
生きて、港へ向かっているということだ。
私は船の上に出て、朝の海を見た。
嵐の後の空は、信じられないほど澄んでいた。
潮風はまだ冷たい。
けれど、昨日の風とは違う。
怖さではなく、どこか新しい匂いがした。
エリオットが少し離れた場所に立っていた。
濡れた上着を替えたのだろう。
それでも、顔には疲れが残っている。
彼は私に気づくと、軽く頭を下げた。
「おはようございます、エレノア嬢」
「おはようございます、エリオット様」
少しだけ、沈黙があった。
私たちは同じ海を見た。
昨日、あれほど恐ろしかった海が、今は静かに光っている。
「港町ミラには、一日遅れだそうです」
エリオットが言った。
「ええ。聞きました」
「申し訳ありません。魚のスープは、一日お預けですね」
私は思わず笑った。
笑えることに、自分でも驚いた。
「それは残念です。でも、生きて食べに行けるなら十分です」
エリオットも、少しだけ笑った。
「まったく、その通りです」
私は海の向こうを見た。
港町ミラは、まだ見えない。
けれど、確かに近づいている。
嵐を越えて。
一日遅れて。
それでも、船は進んでいる。
私も、進んでいる。
もう一度、胸の奥でそう確かめた。
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