第4話 祈るだけでは、足りない
夜になるにつれて、風は強くなっていった。
最初は窓の外で鳴っているだけだった風が、少しずつ低く、重い音に変わっていく。
船が揺れる。
右へ。
左へ。
そして、下から突き上げられるように大きく跳ねた。
私は船室の寝台に座り、壁に手をついていた。
私にできることは、船室でおとなしくしていることだけだった。
それが分かっているのに、落ち着かない。
船員たちは甲板で働いている。
船長は船を守ろうとしている。
エリオットも、どこかで動いているのかもしれない。
それなのに私は、ただここで揺れに耐えているしかない。
けれど、船酔いの薬を早めに飲んでおいたのは正解だった。
胃は少し重い。
体もふわふわする。
それでも、頭はしっかりしていた。
嵐が来る前に薬を飲んだ自分を、少しだけほめたい気分だった。
船がまた大きく傾いた。
机の上に置いていた案内書が滑り、床に落ちる。
拾おうとして、途中でやめた。
今は本よりも、自分の体を支える方が大事だ。
昔、漂流の物語を読んだことがある。
船が沈み、主人公はカバンを浮き輪の代わりにして海を漂う。
その時は、なんて勇敢な話だろうと思った。
けれど、実際の嵐を前にすると分かる。
そんなことは、物語の中だからできるのだ。
この海に落ちたら、カバンを抱える間もなく波に飲み込まれる。
私は胸の前で手を組んだ。
神さま。
どうか、この船をお守りください。
そう祈るしかできなかった。
その時、扉が強く叩かれた。
「エレノア嬢!」
エリオットの声だった。
私は急いで扉を開けた。
通路に立っていたエリオットは、肩まで濡れていた。
髪も乱れ、いつもの落ち着いた雰囲気は少し崩れている。
けれど澄んだその目は、嵐の中でもまっすぐだった。
「大丈夫ですか」
「私は大丈夫です。薬が効いていますから」
「それならよかった」
エリオットは短く息を吐いた。
けれど、安心した顔ではなかった。
「嵐は、船長が予想していたより激しいようです」
私は息をのんだ。
「危ないのですか」
そう聞いた声が、自分でも少し震えていた。
エリオットはすぐには答えなかった。
その沈黙だけで、十分だった。
頭の中に、嫌な言葉が浮かぶ。
沈没。
泣きたくなった。
私は、無謀だったのだろうか。
女ひとりで海を渡るなど、やはり愚かだったのだろうか。
家にいればよかったのか。
あの屋敷で、大人しくしていればよかったのか。
でも、そう思った瞬間、胸の奥で何かが強く反発した。
違う。
ただ、今は、怖いだけだ。
こんなことで後悔などしたくない。
「エレノア嬢」
エリオットが言った。
「船室にある荷物を固定する金具が見えますか」
私は壁の下にある鉄の輪を見た。
荷物を縄で留めるためのものだ。
「はい」
「そこに体を固定してください。強い揺れで、体が投げ出されることがあります」
「体を、ですか」
「ええ。できるだけ低い位置に」
エリオットは落ち着いて話していた。
けれど、彼の手がほんの少し震えているのを、私は見てしまった。
この人も怖いのだ。
嵐の海の上で、怖くない人間などいない。
「エリオット様は」
「甲板へ行きます」
「甲板へ?」
「人手が足りません。私にも、できることがあります」
彼は笑おうとした。
でも、動揺は隠せていなかった。
「危ないのではありませんか」
「……」
エリオットは、言葉につまった。
それから、少しだけ目を伏せる。
「ですが、ここで何もしないわけにはいきません」
私は何も言えなかった。
エリオットは軽く頭を下げた。
「必ず体を固定してください。約束です」
「……はい」
彼は通路の向こうへ走っていった。
扉が閉まる。
私は、その扉を見つめていた。
私も手伝えるだろうか。
一瞬、そう思った。
けれどすぐに首を振る。
無理だ。
私は体力には自信がある。
でも、こんな荒れた海の甲板に出ても、船員の邪魔になるだけだ。
帆も結べない。
縄の扱いも知らない。
足を滑らせれば、それこそ誰かに迷惑をかける。
今の私がするべきことは、言われた通りにすることだ。
私はカバンから予備の細い縄を取り出した。
それを壁の金具に通し、自分の腰に回す。
きつすぎず、ゆるすぎず。
本で読んだ結び方を思い出しながら、震える指で結ぶ。
何度か失敗した。
それでも、どうにか体を固定できた。
床に腰を下ろしていても、船が大きく揺れると体が横へ流された。
けれど縄が引き止めてくれた。
少しだけ、息が落ちついた。
固定しているだけで、安心感がまるで違う。
私は壁に背を預け、できるだけ体を動かさないようにした。
外では風が叫んでいる。
雨が窓を叩く音も強くなっていた。
エリオットは大丈夫だろうか。
甲板で滑っていないだろうか。
波にさらわれていないだろうか。
でも、さっきの震えた手を思い出すと、胸がざわついた。
船がまた大きく傾いた。
床が斜めになる。
机がきしむ。
どこかで何かが割れる音がした。
悲鳴も聞こえた。
私は祈り続けていた。
しかし、揺れが収まる気配はなかった。
このままでいいのだろうか。
私は本当に、ただここで座っていればいいのだろうか。
その時、頭の中で別の本のページが開いた。
船の重心。
積み荷の位置。
ならば。
人と荷を、下へ。
船倉へ。
私は息をのんだ。
それが正しいかどうかは分からない。
けれど、乗客が船室でばらばらに震えているより、船倉に集めた方がよいのではないか。
船員たちは甲板で手一杯のはずだ。
乗客の移動まで細かく見られない。
エリオットなら船長と話せる。
私は硬く結んだ縄を見た。
私は震える手で結び目を何とか解いた。
その時、船が揺れてしまった。
体が投げ出され、船室の壁に当たると息が詰まった。
それでも立ち上がる。
扉までたどり着き、通路へ出た。
船内は暗かった。
ランプの火も大きく揺れている。
人の声と、船のきしむ音と、外の風の音が混じって、世界が壊れかけているようだった。
私は壁をつたいながら進む。
甲板へ続く扉の前まで来ると、雨がすき間から吹き込んでいた。
私は全力で重い扉を押した。
次の瞬間、冷たい雨が顔に叩きつけられた。
息ができない。
髪も服も、一瞬で濡れた。
甲板は、私の知っている船の上ではなかった。
闇。
雨。
波。
怒鳴り声。
走る船員。
私は扉の横の柱にしがみつきながら、必死に目をこらした。
「エリオット様!」
声は風に飲まれた。
それでも、もう一度叫ぶ。
「エリオット様!」
少し離れた場所で、誰かが振り返った。
エリオットだった。
彼は驚いた顔でこちらへ駆け寄ってくる。
「なぜ出てきたのですか!」
怒鳴るような声だった。
けれど、それは怒りよりも心配に近かった。
「危ない! 戻ってください!」
「船の下に、荷物と人を移せないか、船長に相談してください!」
エリオットの目が大きく開かれた。
「船倉へ?」
「はい! 重い荷を下へ! 動けない乗客も一か所へ!」
それがどれほど正しいのか、私には分からない。
でもエリオットは、すぐに表情が変わった。
さっきまでの不安そうな旅人ではない。
何かを決めた人の顔だった。
「分かりました。すぐに伝えます」
「お願いします!」
「あなたは戻ってください! ここは危険です!」
私はうなずき、扉の中へ戻った。
体が震えていた。
寒さだけではない。
怖かった。
とても怖かった。
けれど、伝えた。
自分にできることを、少しだけした。
それだけで、胸の中の何かが変わった。
*
そのころ、甲板ではエリオットが動き出していた。
エリオットは雨の中を進み、船長に短く何かを告げた。
船長は一瞬だけ目を見開いた。
それから、荒れる海を見て、低くうなずいた。
次の瞬間、エリオットの声が甲板に響いた。
「動ける者は荷を持て! 重いものから船倉へ運べ!」
「歩けない者は二人で支えろ! 泣いている暇はない。生きたいなら動け!」
乗客たちは一瞬、ぼう然とした。
けれどエリオットは迷わなかった。
「商人は自分の荷を守りたいなら運べ! 護衛は人を運べ! 船員の邪魔はするな。通路を空けろ!」
その合図で、周囲の空気が変わった。
エリオットが、乗客たちを動かし始めた。
若い男性なのに、不思議とその声には逆らいにくかった。
船員たちは帆と舵に集中している。
エリオットは、彼に従う数名の男たちと共に、乗客と荷を動かす。
役目が分かれたことで、混乱していた人々が動き出した。
商人たちは、最初こそ荷を船倉へ運ぶことを渋った。
「濡れたらどうする!」
「壊れ物がある!」
「これは高価な品だぞ!」
けれどエリオットの声が飛ぶ。
「命より高い荷はない! 荷物を抱えて海に沈みたいのか!」
誰も反論しなかった。
動ける者は荷を持った。
足元のおぼつかない者は、護衛の男たちが支えた。
船酔いで顔色の悪い者も、二人がかりで連れて行かれた。
この船は、商船なので幼い子どもや年寄りはほとんどいなかった。
*
私は、高価な客船ではなく商船を選んでいた。
だから、多少の不便は覚悟していたつもりだった。
けれど嵐の中、暗い船倉に降りることになるとは思っていなかった。
それでも、私はいち早くカバンと共に船倉に降りていた。
自分で提案した以上、ここで怖がって立ち止まるわけにはいかなかった。
荷物が次々と運び込まれ、縄で固定されていく。
人々も座り込んだ。
誰かが小さく泣いた。
誰かが神さまの名を呼んだ。
誰かが「沈むのか」とつぶやき、周囲の顔がさらに青ざめた。
「やめろ、そんなことを言うな」
「だって、この揺れは普通じゃない」
「助かるのか」
不安は、暗い場所では広がりやすい。
ひとりが震えると、隣の人まで震える。
ひとりが泣くと、別の人も泣き出しそうになる。
嵐の中では大人でさえ弱い。
真っ暗な船倉では、誰もが不安そうな言葉をあげていた。
上からは、雨と波と風の音が響いていた。
私は膝の上で手を握った。
ここで私にできることは何だろう。
荷を運ぶ力はない。
縄を結ぶ技術も、船を動かす知識もない。
でも。
私は顔を上げた。
神さまに祈るだけでは、足りない。
ほんの少しでも、自分で道を切り開かなければならない。
私は息を吸った。
そして、歌い出した。
明るい歌だった。
幼いころ、庭を走り回っていた時によく口ずさんだ歌。
丘を越えて、風を追いかける歌。
母には「令嬢がそんな大きな声で歌うものではありません」と叱られた歌だ。
最初は、自分の声だけが船倉に響いた。
震えていた。
決して上手くはない。
それでも、私は歌った。
怖くないふりではない。
怖くても、声を出すために。
隣に座っていた商人が、ぽかんと私を見た。
向かいの旅人が、涙をぬぐった。
誰かが、小さく続きを口ずさんだ。
次に、別の誰かが合わせた。
少しずつ、声が増えていく。
低い声。
かすれた声。
震える声。
それでも歌は、暗い船倉の中に広がっていった。
船はまだ揺れている。
雨はまだ叩きつけている。
嵐は、少しも弱まっていない。
それでも、人々の顔から、ほんの少しだけ絶望の色が薄れた。
私は歌いながら思った。
祈ることは悪くない。
神さまにすがりたくなる夜もある。
でも、祈るだけでは足りない。
手を伸ばす。
声を出す。
動ける者が動く。
知っていることを使う。
それがどれほど小さなことでも、生きるための道になる。
嵐の夜。
暗い船倉の中で、私は歌い続けた。
セイント・マリー号が、波に飲み込まれないことを願いながら。
そして、甲板にいるエリオットが、無事に戻ってくることを祈りながら。




