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<長編版>妹に婚約者を譲れと言われたので、慰謝料をもらって旅に出ることにしました   作者: momotarou


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第53話 上王妃の席

 夫人たちに茶が配られ始めた。


 花の香りに、温かな茶の香りが混じる。


 玉座の間には、まだ緊張が残っていた。


 けれど、先ほどまでとは違う。


 ただ怯えているだけではない。


 夫人たちは、互いに目を合わせ、子どものことを小さく語り始めていた。


「うちの次男は、帳簿を読むのが好きで……」


「娘が本を手放さないのです。けれど、嫁ぎ先で余計なことを言わぬようにと、いつも注意してしまって」


「国心学院というものが、本当にできるのなら……」


 声はまだ小さい。


 けれど、確かに話は始まっていた。


 私はその様子を見て、胸の奥で小さく息をついた。


 届いた。


 すべてではない。


 まだ誰も、はっきりと味方になったわけではない。


 けれど、種は置けた。


 子どもの未来。


 娘にも道を。


 その言葉は、夫人たちの中に残った。


 深緑のドレスの伯爵夫人は、静かに茶器を手に取っている。


 その横では、若い夫人が何かを尋ねていた。


 伯爵夫人は短く答えながら、時折こちらを見る。


 あの方は、おそらくこの場の意味を分かり始めている。


 私はそう思った。


 その時だった。


 玉座の間の入り口の方が、騒がしくなった。


 侍女たちの足音。


 衛兵の低い声。


 誰かを止めようとする気配。


 夫人たちの会話が止まった。


 全員の視線が、入り口へ向かう。


 私は扇を持つ手に、少し力を込めた。


 来た。


 多分、来ると思っていた。


 玉座の間でお茶会を開く。


 伯爵家の夫人たちを集める。


 女たちに国の未来を語る。


 それを、あの方が見逃すはずがない。


 大きな扉の前で、衛兵が頭を下げた。


 その直後、鋭い声が響いた。


「そこを退きなさい」


 扉が開く。


 現れたのは、イザベラ上王妃だった。


 淡い金色の髪を高く結い、濃い紅のドレスをまとっている。


 首元にも、耳にも、指にも、宝石が光っていた。


 顔色は決して良くない。


 それでも、気位だけは少しも衰えていないように見えた。


 夫人たちは一斉に礼をした。


 その動きには、先ほどとは違う恐怖があった。


 王妃である私への礼ではない。


 古い王宮の奥にいる、触れてはならないものへの礼だった。


 イザベラ上王妃は、部屋の中を見回した。


 花。


 茶器。


 軽食。


 そして、伯爵家の夫人たち。


 その目が、すっと細くなる。


「これは、何の真似です」


 声は冷たかった。


 私は静かに礼をした。


「上王妃様」


「エレノア」


 私の名を呼ぶ声には、棘があった。


「あなたは、自分が何をしているのか分かっているのですか」


 玉座の間が、凍りついたように静かになった。


 夫人たちは顔を伏せたまま、動かない。


 イザベラ上王妃は、ゆっくりと一歩進んだ。


「このような重要な場所に女性たちを集め、お茶会など。伝統あるルーベル王国に泥を塗り、王家を辱めるつもりですか」


 何人かの夫人の肩が震えた。


 無理もない。


 上王妃の言葉は、私だけでなく、この場にいる全員へ向けられていた。


 イザベラ上王妃は、さらに周囲を見た。


 公爵家も、侯爵家もいない。


 上位貴族の夫人が見当たらないと気づいたのだろう。


 その唇に、薄い笑みが浮かんだ。


「ああ、なるほど。集められたのは、こういう家の者たちなのですね」


 夫人たちの空気が、さらに縮こまる。


「この場にいる者たちも、厳しく処罰すべきでしょうね。玉座の間で茶を飲むなど、自分たちの分を忘れたのでしょうから」


 その一言で、若い夫人の一人が青ざめた。


 扇を握る手が震えている。


 深緑のドレスの伯爵夫人も、表情を変えずにいるが、目だけは鋭くなっていた。


 私は、静かに息を吸った。


 以前の私なら、怒鳴っていたかもしれない。


 レオンハルト様を殺そうとした人。


 私からあの方を奪おうとした人。


 その人が、今また私の前で、私の招いた夫人たちを脅している。


 許してはいない。


 忘れてもいない。


 けれど、ここで怒れば終わりだ。


 この場は壊れる。


 夫人たちは、自分たちが危険なものに巻き込まれたと思ってしまう。


 だから、私は笑った。


 できるだけ柔らかく。


 できるだけ丁寧に。


「上王妃様。お加減が優れないと伺っておりましたので、お招きは控えさせていただきました」


 イザベラ上王妃の眉がぴくりと動いた。


「けれど、上王妃様のお席もご用意しております」


「私の席?」


「はい」


 私は玉座を示した。


 夫人たちが、小さく息を呑む。


 そこは玉座の側ではない。


 玉座そのものだった。


 私はそこに座らない。


 座ってはいけない。


 けれど、イザベラ上王妃様なら座る。


 座ってしまえば、この場を外から裁くことはできない。


 玉座の前には、上王妃様のためだけの膳を用意していた。


 銀の器。


 氷を敷いた大皿。


 湯気を立てる深い器。


 小さな宝石箱のような菓子。


 他の卓とは明らかに違う。


 イザベラ上王妃の視線が、そこへ吸い寄せられる。


 怒りの色はまだ残っている。


 けれど、その中に別のものが混じった。


 興味。


 そして、見栄。


「……これは、何です」


「上王妃様に召し上がっていただきたく、用意いたしました」


 私は近づき、そっと手を差し出した。


 イザベラ上王妃は、すぐにはその手を取らなかった。


 夫人たちは息を詰めて見ている。


 私は表情を変えなかった。


 怒ってはいけない。


 急かしてもいけない。


 この方は、難しい策を好む方ではない。


 自分が特別に扱われていると分かれば、それだけで足が止まる。


 私は、そう読んでいた。


 やがて、イザベラ上王妃の指先が、私の手に乗った。


 最初の鎖が、かかった。


 それは罠だった。


 金と見栄と甘い香りでできた、上王妃様のための罠だった。


 私はイザベラ上王妃を玉座へ導いた。


「ここに座れと言うのですか」


 上王妃は、玉座を見て言った。


 その声には、先ほどの怒りとは違う響きがあった。


 ためらい。


 けれど、それより強い欲。


 私は深く礼をした。


「上王妃様は、上王陛下がご不在の折、何度かこの玉座にお座りになったことがあると伺っております」


 イザベラ上王妃の目が、少し開いた。


 そして、口元に得意げな笑みが浮かぶ。


「よく分かっているわね」


「今日この場を見守っていただくには、上王妃様ほどふさわしい方はおりません」


 それは、半分は嘘だった。


 けれど、半分は本当だった。


 この古い王宮の見栄と虚栄を象徴するなら、確かにこの方ほどふさわしい人はいない。


 イザベラ上王妃は、玉座の前で少しだけ姿勢を正した。


 そして、ゆっくりと腰を下ろした。


 夫人たちが、一斉に息を呑んだ。


 イザベラ上王妃が、玉座に座った。


 乱入してきたはずの方が、この茶会の中心に座ってしまった。


 それだけで、夫人たちの顔色が変わった。


 私は深く礼をした。


「上王妃様のご参加、感謝いたします」


 少し遅れて、夫人たちも礼をした。


「上王妃様のご参加、感謝いたします」


 声が玉座の間に重なった。


 イザベラ上王妃の顔に、満足げな色が浮かぶ。


 自分が中心になった。


 自分が特別に扱われた。


 そのことが、先ほどまでの怒りを少しずつ溶かしているのが分かった。


 けれど、まだ足りない。


 この方は、持ち上げれば機嫌がよくなる。


 しかし、すぐにまた不満を見つける。


 私は手を軽く上げた。


 侍女が、湯気を立てる器を上王妃の前に置いた。


「まずは、こちらを」


「これは?」


「魚介の温かなスープでございます。アステリアの港町ミラでいただいた料理をもとに、王宮の料理人に作らせました」


 上王妃は、最初は疑わしそうに器を見た。


 けれど、湯気に混じる魚介の香りが届いたのだろう。


 少しだけ目が動いた。


「……悪くない香りね」


「ぜひ、熱いうちに」


 銀の匙が渡される。


 上王妃は、少しだけ口をつけた。


 その瞬間、表情が変わった。


「あら」


 小さな声だった。


 けれど、玉座の間ではよく聞こえた。


「これは……おいしいわ」


 夫人たちの空気が、わずかに緩んだ。


 上王妃が怒鳴っていない。


 それだけで、部屋の緊張が少し解ける。


 私は静かに微笑んだ。


「お気に召していただけて、うれしく思います」


「ミラ、と言ったわね」


「はい。港町でございます。海の幸が豊かな町でした」


「ふん。異国のものにしては、悪くないわ」


 悪くない。


 イザベラ上王妃にしては、最大級の褒め言葉なのだろう。


 次に、侍女が氷を敷いた大皿を差し出した。


 薄く切られた魚が、氷の上に宝石のように並んでいる。


 白。


 淡い桃色。


 薄い銀。


 表面はごく軽く炙られ、香油が薄く塗られていた。


 完全な生ではない。


 火の香りと油の艶があり、王宮の貴人にも受け入れられるように整えられている。


 イザベラ上王妃は、眉を寄せた。


「これは……生なの?」


「表面を軽く炙っております。香油で風味も整えました。ミラでいただいた料理を、そのままではなく、上王妃様に召し上がっていただきやすいように変えております」


「魚を、このように……」


 迷っている。


 けれど、興味はある。


 珍しいもの。


 美しいもの。


 自分だけに用意されたもの。


 この方は、そういうものに弱い。


 私は一歩下がり、静かに待った。


 イザベラ上王妃は、やがて小さく切られた魚を一つ口に運んだ。


 そして、目を見開いた。


「……まあ」


 その声に、夫人たちが顔を上げる。


「不思議な味ね。冷たいのに、香りがある。魚なのに、臭くない」


「ミラで初めていただいた時、私も驚きました」


 私は言った。


「ぜひ、上王妃様にも召し上がっていただきたいと思い、用意させました」


 イザベラ上王妃は、もう一切れ取った。


 怒りは、かなり薄れている。


 単純だ。


 そう思ってはいけない。


 でも、事実として、この方は複雑な策より、分かりやすい特別扱いに弱い。


 私は手を打った。


 乾いた音が、玉座の間に響く。


 執事が静かに現れた。


 その手には、小ぶりな宝石箱がある。


 夫人たちの視線が集まった。


 イザベラ上王妃の視線も、すぐにそこへ向いた。


「それは?」


「上王妃様へ」


 私は答えた。


「先日の私の失礼な行いに対して、せめてものお返しでございます」


 先日。


 その言葉で、ほんの一瞬、上王妃の表情が曇った。


 私が兵を連れて押し入り、脅し、解毒薬を出させた日。


 あれを忘れてはいない。


 忘れるつもりもない。


 けれど、ここで責めるつもりもない。


 これは謝罪ではない。


 これは許しでもない。


 贈り物ですらない。


 鎖だ。


 宝石と料理と玉座で、この場を壊させないための鎖。


 私は内心だけでそう思い、表面では柔らかく微笑んだ。


 執事が宝石箱を開ける。


 中には、深い青の宝石を中心にした首飾りが収められていた。


 その周りには、小さな真珠と銀細工。


 古い意匠だが、品がある。


 王宮の宝物殿から選ばせたものだった。


 ルーベル王国には伝統がある。


 宝物殿にも、古く美しい宝がいくつも眠っている。


 私は、宝石にはあまり興味がない。


 だから惜しくはなかった。


 だが、イザベラ上王妃の目は違った。


 箱が開いた瞬間、その瞳がはっきりと輝いた。


「これは……」


「宝物殿で見つけたものです。上王妃様にこそふさわしいと思いました」


 イザベラ上王妃は、首飾りから目を離さない。


「古いものね」


「はい。王国の伝統を感じられる品でございます」


「そうね。最近の軽い宝石とは違うわ」


 上王妃は満足げに言った。


 夫人たちは、じっとそれを見ていた。


 先ほどまで、上王妃はこの茶会を罰すると言っていた。


 その上王妃が、今は玉座に座り、異国の料理を食べ、王妃から宝石を贈られている。


 乱入者は、もうこの茶会の外にはいない。


 玉座に座った時点で、イザベラ上王妃もこの場の一部になっていた。


 私は、もう一つだけ言葉を置くことにした。


「上王妃様」


「何です」


 声はまだ偉そうだった。


 けれど、先ほどの怒声ではない。


「レオンハルト陛下は、王国の改革が進み、王宮が安定すれば、ご子息のお二人を城に戻すことも考えておられます」


 イザベラ上王妃の手が止まった。


 魚の皿でも、宝石箱でもなく、私を見た。


「……何ですって」


「お二人がすぐに戻れると申し上げることはできません。ですが、陛下は王宮を安定させようとなさっています。そのために改革を進めておられます」


「息子たちと、会えるのですか」


 その声だけは、少し違っていた。


 虚栄心でも、見栄でもない。


 母としての執着が、そこにあった。


 私は静かにうなずいた。


「上王妃様がこの改革を見守ってくだされば、その日は早まると思います」


 イザベラ上王妃は、黙った。


 夫人たちも黙っている。


 誰も、息をする音さえ大きく立てなかった。


 上王妃は、玉座に座ったまま、ゆっくりと周囲を見渡した。


 花。


 茶器。


 伯爵家の夫人たち。


 自分の前に置かれた料理と宝石。


 そして、私。


 その顔に、満足げな笑みが浮かんだ。


「……エレノア」


「はい」


「このまま進めなさい」


 夫人たちが、はっとしたように顔を上げた。


 私は深く礼をした。


「ありがとうございます、上王妃様」


 王妃とは呼ばれなかった。


 エレノア、と呼ばれた。


 それでもよかった。


 今はそれで十分だった。


 イザベラ上王妃がこの場で私を叱りつけ、夫人たちを罰すると言えば、茶会は壊れていた。


 けれど、上王妃は玉座に座った。


 料理を食べた。


 宝石を受け取った。


 息子たちの話に耳を傾けた。


 そして言った。


 このまま進めなさい、と。


 上王妃様が改革を理解したわけではない。


 味方になったわけでもない。


 私が許したわけでもない。


 それでも、今日この場では十分だった。


 夫人たちの目が、明らかに変わっていた。


 彼女たちは見たのだ。


 乱入した上王妃が、王妃の茶会を止めなかったことを。


 玉座に座った上王妃が、王妃の言葉を許したことを。


 深緑のドレスの伯爵夫人が、静かに頭を下げた。


 それに続いて、他の夫人たちも礼をする。


 私はもう一度、玉座に座るイザベラ上王妃へ深く礼をした。


「では、上王妃様にもお聞きいただきながら、茶会を続けさせていただきます」


「ええ」


 イザベラ上王妃は、もう一切れ魚を口に運びながら言った。


「その魚も、もう少し持って来なさい」


 玉座の間に、ほんの少しだけ空気が戻った。


 夫人たちの間に、小さな笑みが広がる。


 私は胸の奥で、静かに息を吐いた。


 怒鳴るのではなく。


 脅すのでもなく。


 扉を壊すのでもなく。


 今日、私は別のやり方で、この場を守った。


 まだ上手ではない。


 きっと、レオンハルト様ならもっと鮮やかにやっただろう。


 でも、私にもできた。


 私は玉座の間に集まった夫人たちを見渡した。


 この茶会は、まだ終わっていない。


 私は、また、改革について話し始めた。


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