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<長編版>妹に婚約者を譲れと言われたので、慰謝料をもらって旅に出ることにしました   作者: momotarou


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第52話 子どもたちの未来

 玉座の間に、花の香りが満ちていた。


 けれど、誰も花を見ていなかった。


 夫人たちの視線は、すべて私に向けられている。


 不安。


 警戒。


 好奇心。


 そして、わずかな期待。


 その全部が、静かな視線の中に混ざっていた。


 私は、扇を持つ手に力が入りすぎないように気をつけた。


 胸は、まだ少し苦しい。


 逃げたい気持ちもある。


 今すぐ、この玉座の間から出て、自分の私室へ戻りたいと思う気持ちもある。


 けれど、私はここに立つと決めた。


 レオンハルト様は止まらない。


 なら、私も止まらない。


「皆様にお話ししたいのは、難しい政治のことではありません」


 私は、ゆっくりと言った。


 夫人たちは黙っている。


 私は一度、言葉を探した。


 政治ではない。


 でも、政治ではないと言い切るには、あまりにも国に関わる話だった。


「いいえ……正しく言えば、政治にも関わることです」


 そう言い直すと、夫人たちの目が少し動いた。


 私は続けた。


「けれど、最初にお話ししたいのは、国の仕組みではありません。皆様の子どもたちの未来についてです」


 空気が、少しだけ変わった。


 国。


 政治。


 王家。


 そういう言葉を待っていた夫人たちの目が、わずかに揺れる。


 子ども。


 その言葉は、夫人たちの胸に届いたのだと思う。


 家を継ぐ息子。


 嫁ぐ娘。


 まだ幼い子。


 跡取りではない子。


 才能があっても、家の中で役目を得られない子。


 それぞれの顔が、夫人たちの頭に浮かんだのかもしれない。


 私は続けた。


「陛下は、国心学院をお作りになろうとしています」


 国心学院。


 その言葉を聞いて、夫人たちは小さく顔を見合わせた。


 すでに噂は届いているのだろう。


 けれど、詳しいことを知っている者は少ないようだった。


「国心学院とは、家柄だけを見る場所ではありません」


 そこまで言って、私は少しだけ間を置いた。


 家柄だけではない。


 その言葉は、貴族たちには強すぎる。


 間違えれば、反発される。


「もちろん、家の務めや礼儀を軽んじるものではありません」


 私は、急がずに言葉を重ねた。


「皆様の家が積み重ねてこられた歴史や、領地を守ってこられた務めを、無意味だと言うつもりはありません」


 夫人たちの表情が、少しだけ和らいだ。


 私は息を吸う。


「けれど、それだけで人の未来を決める場所でもありません」


 夫人たちは黙っている。


 まだ、信じてはいない。


 それでいい。


 すぐに信じられるほど、軽い話ではない。


「学ぶ力がある者。国に仕えたいと願う者。役目を果たすために努力できる者。そういう者に、道を開くための学院です」


 私は一人一人の顔を見た。


 目を伏せる夫人。


 探るようにこちらを見る夫人。


 扇の陰で唇を引き結ぶ夫人。


 深緑のドレスの年配の伯爵夫人だけは、静かに私を見ていた。


「王家は、これから国を変えようとしています。魔法の紙も、換金所も、国心院も、すべてそのためのものです」


 言いながら、私は少しだけ不安になった。


 この話を、私がしてよいのだろうか。


 ロウェルさんやロイドさんの方が、もっと正確に語れる。


 レオンハルト様なら、もっと力強く、もっと人の心を掴む言葉で語れる。


 けれど、今ここにいるのは私だ。


 夫人たちの前に立っているのは、私なのだ。


「ですが、仕組みだけでは国は変わりません」


 私は言った。


「国を動かすには、人が必要です」


 玉座の間に、私の声が響いた。


「家柄だけで役職に就いた者ではなく、学び、考え、国のために働ける者が必要です。陛下は、そのような者を王家が直接見つけ、育て、国の要職に用いる道を作ろうとなさっています」


 そこで、初めて一人の夫人が口を開いた。


「王妃様」


 声は丁寧だった。


 けれど、慎重さがあった。


「それは、家柄を軽んじるということでございましょうか」


 周囲の夫人たちが、その夫人を見る。


 誰もが聞きたかったことなのだろう。


 私は首を横に振った。


「いいえ」


 できるだけ、はっきり答えた。


「家柄には、積み重ねてきた務めがあります。領地を守り、人を養い、王家に仕えてきた歴史があります。それを軽んじるつもりはありません」


 質問した夫人の表情が、少しだけ緩んだ。


 私は続けた。


「けれど、家柄だけで国を支えるには、もう足りないのです」


 夫人たちの空気が、また張り詰めた。


 厳しい言葉だった。


 でも、言わなければならなかった。


「才能があるのに、家を継がないから役目を得られない子がいます。学びたいのに、娘だからと遠ざけられる子がいます。真面目で賢いのに、上の家に生まれなかったというだけで、国の中心に近づけない子がいます」


 何人かの夫人が、扇を握る手を止めた。


「その子たちは、本当に国に不要なのでしょうか」


 誰も答えない。


 答えられないのだと思う。


 私は、かつての自分を思い出していた。


 家のために黙ることを求められた私。


 妹と比べられ、婚約者の隣で笑うことだけを求められた私。


 もし、違う道があったなら。


 もし、家の中の役目だけではない未来を示されていたなら。


 私は、もっと早く自分で歩けたのだろうか。


「国心学院は、すべての者を高い役職につける場所ではありません」


 私は言った。


「甘い約束をするための場所でもありません。学ばなければなりません。努力しなければなりません。能力がなければ、役職にはつけません」


 夫人たちの目が、少し真剣になった。


 甘い話だけではない。


 それが伝わったのだと思う。


「ですが、努力する者に、最初から扉を閉ざさない場所にしたいのです」


 私は、深緑のドレスの伯爵夫人を見た。


 その夫人は、私と目が合うと、静かに礼をした。


 そして、口を開いた。


「王妃様」


「はい」


「その学院に入れば、伯爵家の次男や三男にも、国に仕える道が開かれるのでしょうか」


 玉座の間に、小さなざわめきが広がった。


 次男。


 三男。


 その言葉は、多くの夫人の胸にあるものだった。


 跡取りではない息子。


 領地を継げない息子。


 軍に入るか、どこかの家に仕えるか、婚姻で家のつながりを作るか。


 道が限られている子どもたち。


 私は、しっかりとうなずいた。


「はい。学ぶ意志と力があるなら、道は開かれます」


 夫人たちのざわめきが、少し大きくなる。


 別の夫人が、おそるおそる口を開いた。


「娘は……」


 その声は小さかった。


 けれど、玉座の間ではよく響いた。


 夫人は、自分の声が思ったより通ったことに驚いたように、扇で口元を隠した。


 私はその夫人を見る。


「娘にも、でございますか」


 その問いに、何人かの夫人が息を呑んだ。


 娘。


 その言葉は、次男や三男よりもさらに重かった。


 娘は家をつなぐ。


 嫁ぎ、子を産み、家と家を結ぶ。


 それが当然とされてきた。


 賢くても。


 強くても。


 学びたいと願っても。


 国に仕えたいと思っても。


 その道は、最初からないものとされてきた。


 私は、ゆっくりとうなずいた。


「娘にも、です」


 夫人たちは静まり返った。


 けれど、今度は別の夫人が、少し震える声で尋ねた。


「王妃様。娘が学ぶことは、喜ばしいことかもしれません。けれど……」


 夫人は言いにくそうに周囲を見た。


「婚姻に差し障りませんでしょうか」


 その一言に、何人もの夫人が反応した。


 目を伏せる者。


 小さくうなずく者。


 扇で口元を隠す者。


 それは、母親として当然の不安だった。


 娘に学ぶ道が開かれる。


 けれど、そのせいで嫁ぎ先がなくなればどうするのか。


 賢すぎる娘は嫌われる。


 自分の意見を持つ娘は扱いにくい。


 国に仕えたいなどと言い出す娘を、どこの家が喜んで迎えるのか。


 私にも、その不安は分かった。


 分かりすぎるほど分かった。


「……その不安は、分かります」


 私は正直に言った。


「私も、かつては家のために婚約し、家のために笑うべきだと思われていました。娘の未来が、婚姻と切り離せないことは分かっています」


 夫人たちは黙って聞いている。


「国心学院に入ったからといって、すべての娘が官吏になるわけではありません。学んだ者すべてが、王宮に仕えるわけでもありません」


 私は、少し言葉を探した。


 ここを間違えれば、夢物語に聞こえる。


「けれど、学びは婚姻の邪魔になるだけでしょうか」


 私は問いかけた。


「領地の帳簿を読める娘。商いの流れを理解できる娘。子どもに学ぶ楽しさを教えられる娘。夫を支えるだけでなく、家の判断を共に考えられる娘。そのような娘は、本当に家にとって不利でしょうか」


 夫人たちの表情が変わった。


 娘が国に仕える。


 それはまだ遠い話かもしれない。


 けれど、学んだ娘が家を支える。


 そう言われれば、現実の話になる。


「もちろん、反発はあるでしょう」


 私は続けた。


「賢い娘を嫌がる家もあるでしょう。けれど、これから国が変われば、賢い娘を求める家も必ず出てきます。家を守るために、学んだ妻を必要とする家も出てくるはずです」


 私は一度、玉座の間を見渡した。


「その流れを、王家が作ります」


 夫人たちは息を呑んだ。


 大きな約束だ。


 私一人で背負える言葉ではない。


 けれど、レオンハルト様は国を変えようとしている。


 なら、私はその言葉を恐れてはいけない。


「もちろん、すぐにすべてが変わるわけではありません。反対もあるでしょう。準備も必要です。けれど、私は、娘たちにも学ぶ道を用意したいと考えています」


 私は自分の声が震えていないか、少しだけ心配になった。


 でも、言葉は止まらなかった。


「夫や父の陰にいるだけではなく、自分の力で国の役に立てる道を。家のためだけではなく、自分の名で働ける道を」


 言いながら、私はここに集まった夫人たちを見た。


 この人たちもまた、政治の場から遠ざけられてきた人たちだ。


 家の中では多くのことを考え、夫を支え、子どもを育て、親族関係を整え、家の未来を見てきた。


 けれど、国を語る場に呼ばれることは少なかった。


 だからこそ、私はこの人たちを玉座の間へ招いた。


「今日、皆様をこの場所へお招きしたのは、ただ驚かせるためではありません」


 私は、玉座の間を見渡した。


「ここは、これまで男たちが国を語ってきた場所です。ですが、国の未来は、男たちだけで決まるものではありません」


 夫人たちの顔が上がる。


「子どもを産み、育て、家の中で未来を見つめてきた皆様にも、国の未来を考えていただきたいのです」


 深緑のドレスの伯爵夫人が、静かに目を伏せた。


 若い夫人の一人は、扇を握りしめている。


 別の夫人は、泣きそうな顔をしていた。


 けれど、まだ誰もはっきりとは頷かない。


 それでいい。


 今日一日で、全員が味方になるとは思っていない。


 ただ、心に種を置ければいい。


「私は、皆様に今すぐ賛同を求めるつもりはありません」


 私は言った。


「この場で返事を迫るつもりもありません。皆様には、家に帰り、考えていただきたいのです。ご夫君と話してもよいでしょう。お子様の顔を見て考えてもよいでしょう」


 夫人たちは、黙って聞いている。


「ただ、一つだけ覚えておいてください」


 私は、一歩前に出た。


「王家は、家柄だけで人を見る国を、少しずつ変えようとしています。能力ある者に道を開く国へ。学ぼうとする者に扉を開く国へ。その道を、皆様の子どもたちにも差し出したいのです」


 沈黙が落ちた。


 重い沈黙ではなかった。


 考えるための沈黙だった。


 私は、それ以上言葉を重ねなかった。


 言いすぎれば、押しつけになる。


 私はレオンハルト様のように、相手の逃げ道を塞ぐことはできない。


 でも、逃げ道を残したまま、考えずにはいられない言葉を置くことはできるかもしれない。


 最初に動いたのは、深緑のドレスの伯爵夫人だった。


 彼女は静かに一歩前へ出た。


 周囲の夫人たちが、息を呑む。


「王妃様」


「はい」


「もし、その学院が本当に開かれるなら」


 伯爵夫人は、そこで一度言葉を切った。


「私の孫娘にも、学ぶ機会はございますか」


 玉座の間が、静まり返った。


 孫娘。


 その一言は、夫人たちの心に強く落ちた。


 誰かの息遣いが聞こえた。


 私は、伯爵夫人の目を見た。


「ございます」


 はっきり答えた。


「学ぶ意志と力があるなら」


 伯爵夫人は、しばらく私を見ていた。


 その目は、試すようでもあり、祈るようでもあった。


「その子は、兄たちよりも本を読みます」


 伯爵夫人は静かに言った。


「けれど、家では、よくできた娘だと言われるだけです。嫁ぎ先で恥をかかずに済む、と」


 夫人たちの何人かが、目を伏せた。


 似たような言葉を、聞いたことがあるのだろう。


「その子が、もし国のために学べるのなら」


 伯爵夫人は、深く礼をした。


「私は、そのお話を聞きとうございます」


 その礼に、周囲の空気が変わった。


 賛成の声が上がったわけではない。


 拍手が起きたわけでもない。


 けれど、一人が前に出た。


 それだけで、空気は変わる。


 私は胸の奥が熱くなるのを感じた。


 でも、顔には出しすぎないようにした。


 ここは玉座の間だ。


 王妃として立たなければならない。


「ありがとうございます」


 私は静かに言った。


「では、まずはお茶を召し上がりながら、お話しいたしましょう。国心学院が、どのような道を子どもたちに開くのか。私が知る限り、誠実にお伝えいたします」


 侍女たちが、静かに動き始めた。


 茶の香りが、花の香りに混じる。


 夫人たちは、まだ戸惑っている。


 けれど、先ほどとは違っていた。


 玉座の間に立つ彼女たちの目には、不安だけではなくなっていた。


 子どもの未来。


 その言葉が、確かに届き始めていた。

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