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<長編版>妹に婚約者を譲れと言われたので、慰謝料をもらって旅に出ることにしました   作者: momotarou


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第50話 玉座の間のお茶会

 貴族名簿は、思っていたよりもずっと重かった。


 紙の束としても重い。


 けれど、それ以上に、そこに並ぶ家名の一つ一つが重かった。


 侍女長が机の上に名簿を置くと、低い音がした。


 私はしばらく、その表紙を見つめていた。


 開けば、そこには貴族の家々が並んでいる。


 公爵家、侯爵家、伯爵家、子爵家、男爵家。


 それぞれの領地。


 婚姻関係。


 子どもの数。


 出仕している者。


 誰と親しく、誰と距離があるのか。


 ただの名前の列ではない。


 この国を縛っている糸の一覧だった。


「王妃様」


 侍女長が静かに声をかける。


「お疲れでしたら、明日にいたしましょう」


「いいえ」


 私は首を振った。


「今、見ます」


 逃げたい気持ちはあった。


 けれど、逃げるために名簿を持ってこさせたわけではない。


 私は表紙に手を置き、ゆっくりと開いた。


 最初に並んでいるのは、公爵家と侯爵家だった。


 名を見ただけで、胃の奥が少し重くなる家もある。


 王宮の舞踏会で、遠くから私を見て笑っていた夫人。


 リリアを褒め、私を堅苦しいと評した令嬢。


 カイル様との婚約を知っていながら、何も知らない顔で紅茶を飲んでいた家。


 私は名簿を閉じそうになった。


 だめだ。


 ここで閉じてはいけない。


 私はもう、黙って座っているだけの令嬢ではない。


 王妃なのだ。


 そう思ったのに、胸の奥には別の声があった。


 王妃。


 けれど、私は元伯爵家の娘にすぎない。


 王家の血を引いているわけでもない。


 幼い頃から王宮で育てられたわけでもない。


 貴族たちから見れば、突然王妃になった小娘だ。


 しかも、まだ若い。


 威厳が足りない。


 その言葉が、胸に落ちた。


 私は威厳が足りない。


 レオンハルト様のようにはできない。


 あの方は、笑っているだけで人を見下ろせる。


 優しく語っているようで、相手の逃げ道を塞ぐ。


 弱く見せることも、愚かに見せることも、怒って見せることもできる。


 愛も、冗談も、沈黙さえも、政治の道具にしてしまう。


 私には、あんな演技はできない。


 真似をしたところで、すぐに見抜かれる。


 小娘が背伸びをしていると笑われるだけだ。


「……困りましたね」


 思わず声に出ていた。


 侍女長が少しだけ首を傾げた。


「何がでございましょう」


「威厳が足りません」


 私は正直に言った。


「王妃様に、でございますか」


「はい」


 侍女長は、すぐには答えなかった。


 慰めることも、否定することもしない。


 その沈黙が、かえってありがたかった。


「私は、元伯爵家の小娘です。王冠をかぶり、立派なドレスを着ても、それだけでは足りません。相手を従わせるには、威厳が必要です」


「従わせる、でございますか」


「はい」


 私は名簿へ視線を戻した。


「お願いするだけでは足りません。王妃様がそう言うなら考えましょう、では遅いのです。今は、こちらへ来た方がよいと思わせなければなりません」


 レオンハルト様は言っていた。


 逆らうより従った方がいい。


 敵に回るより、王家についた方が得だ。


 そう思わせるしかないと。


 なら、私のお茶会も、ただ楽しく茶を飲む場ではいけない。


 呼ばれた者たちが、帰る頃には考えを変える場にしなければならない。


 王妃に近づけば得をする。


 王家側につけば、子どもの未来が開ける。


 そう思わせなければならない。


 私は名簿の上位の家を見た。


 公爵家。


 侯爵家。


 彼らを呼べば、たしかに場は華やかになる。


 けれど、彼らは私を値踏みするだろう。


 王妃が何を言うのか。


 どこまで知っているのか。


 どの家を重く見ているのか。


 私が少しでも間違えれば、笑われる。


 そして、その笑いは社交界へ広がる。


 最初から、飲み込まれる相手を呼ぶ必要はない。


 私はページをめくった。


 伯爵家。


 その数は多い。


 王宮に近い家もあれば、領地にこもりがちな家もある。


 古い名門もあれば、実務で力をつけてきた家もある。


 さらに下には、子爵家、男爵家が続いている。


「まずは、伯爵家の夫人を中心にします」


 私は言った。


 侍女長が静かにうなずく。


「公爵家、侯爵家ではなく、でございますね」


「はい。王宮に呼ばれる機会の少ない家がよいです。王妃のお茶会に招かれたというだけで、意味を感じる家。けれど、誇りを失っていない家」


「数は、どの程度に」


「多すぎてはいけません。私が一人一人の顔を見て、名を呼べる数にします」


 名を呼ぶ。


 ただそれだけでも、意味はある。


 王妃に名前を覚えられた。


 王妃に話しかけられた。


 王妃が、自分の子どものことを尋ねた。


 それだけで、夫人たちは家に帰って夫へ話すだろう。


 そして、子どもたちへ話すだろう。


「母親が考えるのは、子どもたちの行く末です」


 私は名簿を見ながら言った。


「家を継ぐ息子。嫁ぐ娘。役職に就けるかもしれない子。何も得られず、どこかの家に埋もれていく子。母親は、それを考えます」


 私の母も、きっとそうだった。


 間違っていたこともある。


 私を我慢させたこともある。


 それでも、子どもの行く末を考えなかったわけではない。


 貴族の母親たちは、家の未来と子の未来を同時に背負っている。


 そこに、国心学院の話を差し出す。


 家柄だけではない。


 能力で学べる。


 能力で国の要職につける。


 王家がそういう道を作ろうとしている。


 それは、上位貴族にとっては不愉快かもしれない。


 けれど、伯爵家以下の夫人たちにとっては、希望になる。


「国心学院の考え方を広めます」


 私は言った。


「家系だけではなく、能力で高い役職につける。王家は、そういう者を求めている。子どもに道を開きたいなら、王家側につく意味がある。そう伝えます」


 侍女長は、少しだけ目を伏せた。


「それは、強いお話でございます」


「強くなければ困ります」


 私は名簿に指を置いた。


「レオンハルト様は、魔法の紙や換金所で金の流れを変えようとなさっています。国心院で王権のあり方を変えようとしている。なら、私は母親たちの考えを変えます」


 言ってから、自分で少し驚いた。


 私が、そんなことを言っている。


 以前の私なら、考えもしなかった。


 お茶会は耐える場所。


 社交は我慢する場所。


 貴族の夫人たちは、私を値踏みする怖い人たち。


 そう思っていた。


 今も怖い。


 苦手だ。


 けれど、怖いからこそ、そこに力がある。


「ただ……」


 私は名簿から顔を上げた。


「やはり、威厳が足りません」


 どれほど話す内容を整えても、私の言葉を軽く見られたら終わりだ。


 王妃が夢のようなことを言っている。


 若い王妃が、陛下の真似をしている。


 そんなふうに受け取られたら、国心学院の話も茶会の話題で終わってしまう。


 それではだめだ。


 相手に、これはただの茶会ではないと思わせなければならない。


 王妃が本気で国を動かそうとしている。


 王宮が変わり始めている。


 自分たちは、その場に呼ばれたのだ。


 そう感じさせなければならない。


 王冠。


 ドレス。


 宝石。


 それだけでは弱い。


 私はレオンハルト様ではない。


 演技で相手を飲み込むことはできない。


 なら、私ではなく、場所の力を借りればいい。


「王宮で、一番威厳がある場所はどこでしょう」


 私がつぶやくと、侍女長が少し考えた。


「大広間でございましょうか。舞踏会や式典に使われます」


「大広間……」


 華やかだ。


 けれど、茶会としては珍しくない。


 大広間で王妃が茶会を開く。


 それは豪華ではあるけれど、驚きは少ない。


「謁見の間もございます」


「謁見の間……」


 たしかに威厳はある。


 けれど、私が夫人たちと茶を飲むには硬すぎる。


 相手は緊張するだろう。


 話を聞かせるには、少し遠い。


 もっと強くて、もっと象徴になる場所。


 男たちが国を語る場所。


 貴族たちが王を見上げる場所。


 王家の力を誰もが思い知らされる場所。


 私は顔を上げた。


「あ」


「王妃様?」


「玉座の間です」


 侍女長が、今度こそはっきり目を見開いた。


「玉座の間、でございますか」


「はい」


 言った瞬間、自分でも胸が高鳴った。


 玉座の間。


 レオンハルト様が王として立つ場所。


 貴族たちが政治を語り、王の言葉を聞く場所。


 男たちが国を動かしているつもりで集まる場所。


 そこに花を飾る。


 茶器を置く。


 夫人たちを招く。


 男たちが政治を語る場を、女たちが国を動かす場に変える。


 その光景を想像した瞬間、背筋が少し震えた。


 怖い。


 でも、これなら伝わる。


 普通の茶会ではない。


 王妃が、ただ微笑んで菓子を勧めるための場ではない。


 王妃が本気で、国の未来について話す場なのだと。


「玉座の間は、普通、女性は入れません」


 侍女長が慎重に言った。


「少なくとも、お茶会の場として使われることはございません」


「だからです」


 私は答えた。


「普段入れない場所に呼ばれる。そこで王妃に迎えられる。それだけで、呼ばれた夫人たちは驚きます」


「反発もあるかもしれません」


「あるでしょう」


 私はうなずいた。


「ですが、今回呼ぶのは、普段その場所に立てない家の夫人たちです。夫は玉座の間に入れても、妻は入れない。家名はあっても、女だから政治の場から遠ざけられる。その人たちを、私が招きます」


 言いながら、胸の奥に熱が広がっていくのを感じた。


「これは、王妃のお茶会です。でも、ただのお茶会ではありません。国の未来を話す場です」


 侍女長は黙っていた。


 私は続けた。


「玉座の間に花を飾ってください。けれど、甘すぎないように。華やかではあっても、軽く見えないように。茶器も、可愛らしさより品格を。席は、玉座に向かって並べるのではなく、私の言葉が全員に届くように」


「王妃様は、どちらからお入りになりますか」


 その問いに、私は一瞬止まった。


 入り口から入れば、普通のお茶会と変わらない。


 夫人たちの前に歩いて行き、挨拶をする。


 それでは弱い。


 玉座の間を使う意味が薄れる。


 私は玉座を思い浮かべた。


 高い段。


 赤い絨毯。


 王が立つ場所。


 あそこに、レオンハルト様は立っていた。


 私はその隣に立ったことがある。


 けれど、あそこから自分の意思で人々を見たことは、まだない。


「玉座の方から出ます」


 侍女長が息を呑んだ。


「玉座から、でございますか」


「正確には、玉座の背後からです。私が玉座に座る必要はありません。けれど、玉座の側から現れます」


 それだけでよい。


 私が王そのものになるわけではない。


 王座を奪うわけでもない。


 ただ、王妃として、王家の意志を背負って現れる。


「呼ばれた者たちは、驚くでしょう」


「はい。きっと驚きます」


「驚けば、少なくとも私の話を聞きます」


 私は少しだけ笑った。


「信用してくれるかは、分かりません」


 分からない。


 そこは、分からない。


 もしかしたら失敗するかもしれない。


 若い王妃が変なことを始めたと笑われるかもしれない。


 玉座の間を茶会に使うなど不敬だと怒る者もいるかもしれない。


 でも、何もしなければ何も変わらない。


 レオンハルト様は止まらない。


 改革も止まらない。


 なら、私も立ち止まってはいられない。


「失敗すれば、その時考えます」


 私は言った。


 侍女長が、わずかに驚いた顔をした。


 自分でも、乱暴な言い方だと思った。


 けれど、それが本音だった。


 完璧な策など、私には作れない。


 レオンハルト様のように、何手も先まで読んで相手を追い詰めることはできない。


 でも、始めることはできる。


 考えて、怖がって、何もしないまま時間を失うよりは、動いた方がいい。


「とにかく、始めることが大事です」


 私は名簿を閉じた。


「最初に呼ぶ家を選びます。伯爵家を中心に、王宮に呼ばれることの少ない夫人を。子どもがいる家を優先します。国心学院の話を聞けば、心が動きそうな家を」


「かしこまりました」


「それから、ロウェルさんに確認してください。国心学院について、私が話して間違いのない範囲を知りたいです。難しい制度の話ではなく、母親たちに伝わる言葉にしたいのです」


「承知いたしました」


「ロイドさんにも。紙幣や換金所の話は細かくしませんが、王家が国を変えようとしていることは伝えます。嘘や誇張にならないようにしたいです」


「はい」


 侍女長は、いつの間にか真剣な顔になっていた。


 最初は驚いていた。


 でも今は、私の言葉を仕事として受け止めている。


 それが少しだけ心強かった。


「王妃様」


「はい」


「玉座の間でお茶会を開くには、王宮内の許可と準備が必要になります。反対する者も出るでしょう」


「でしょうね」


「それでも、進めますか」


 私は名簿にもう一度手を置いた。


 この中には、私を笑った家がある。


 私を軽く見た家がある。


 リリアを褒め、私を比べた家がある。


 そして、これから私が味方にしなければならない家がある。


 逃げたい。


 今でも、そう思う。


 でも、レオンハルト様の冷たい手を思い出すと、逃げるという選択肢は消えた。


「進めます」


 私は答えた。


「これは、私ができる戦いです」


 侍女長は深く頭を下げた。


「では、玉座の間を、王妃様のお茶会の場に整えます」


 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が震えた。


 怖い。


 失敗するかもしれない。


 笑われるかもしれない。


 それでも、もう決めた。


 男たちが政治を語る場に、花を飾る。


 女たちが国を動かす場に変える。


 私はレオンハルト様のようには戦えない。


 けれど、私には私の戦い方があるはずだ。


 王冠とドレスだけでは足りない。


 なら、玉座の間の力を借りる。


 小娘だと笑われるなら、その小娘が誰を招き、誰に未来を見せるのか、見せてやればいい。


 私は名簿を開き、最初の一人を選び始めた。


不定期更新ですが少しづつ書いていきます。

個人的には歴史小説の方が書きやすいので「ファラオ クレオパトラ」を新たに書き始めました。

クレオパトラの人生は、私が思っていた以上に荒波のような人生でした。よければお読みください。

https://ncode.syosetu.com/n5680mk/

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