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<長編版>妹に婚約者を譲れと言われたので、慰謝料をもらって旅に出ることにしました   作者: momotarou


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第49話 貴族の名簿

 レオンハルト様に会いに行く前、私は何度も自分に言い聞かせた。


 泣いてはいけない。


 毒は抜けた。命に別状はない。数日で回復すると聞いている。


 それでも、昨日のことを思い出すだけで、胸の奥が冷たくなった。


 青白い顔。


 冷たくなっていく手。


 医師たちの焦った声。


 ロウェルさんの険しい表情。


 そして、イザベラ上王妃の住まいへ向かった時の、自分でも分からないほど冷たい声。


 すべてが、まだ体の中に残っていた。


 だからこそ、泣いてはいけない。


 私が泣けば、レオンハルト様はきっと無理をなさる。


 顔を見るだけ。


 声を聞いたら、すぐに戻る。


 そう決めて、私はレオンハルト様の部屋へ向かった。


 扉の前で侍女が静かに頭を下げる。


「陛下はお目覚めです。ただ、長くお話しになるのはお体に障るとのことです」


「分かっています」


 私はうなずいた。


 分かっている。


 そう思ったのに、扉が開き、寝台の上のレオンハルト様を見た瞬間、決意は簡単に崩れた。


 レオンハルト様は上体を起こしていた。


 背にはいくつも枕を重ね、肩には薄い上掛けをかけている。


 顔色はまだ悪い。


 唇にも、いつもの色は戻っていない。


 それでも、紫の瞳が私を見つけると、少しだけやわらかくなった。


「エレノア」


 その声を聞いた瞬間、涙がこぼれた。


 泣いてはいけないと思っていたのに、止められなかった。


 レオンハルト様が、すぐに体を起こそうとする。


「エレノア」


「だめです」


 私は慌てて寝台のそばへ駆け寄った。


「動かないでください。まだ、お体が」


「君が泣いている」


「泣いていません」


 そう言ったそばから、また涙が落ちた。


 ひどい嘘だった。


 レオンハルト様は困ったように笑い、私へ手を伸ばした。


 そのわずかな動きにも、苦しそうな気配があった。


 私は胸が痛くなった。


 私が泣いたからだ。


 私が来たから、レオンハルト様はまた無理をなさっている。


「申し訳ございません」


 私はその手を両手で包んだ。


「泣かないと決めていたのです。顔を見るだけにしようと。ご負担をかけないようにと」


「負担ではない」


「負担です」


 私は首を振った。


「私が来ると、レオンハルト様は無理をなさいます」


「君が来なければ、それはそれで無理をする」


「そういうことをおっしゃるから、困るのです」


 レオンハルト様は少しだけ笑った。


 その笑顔を見て、また涙が出た。


 生きている。


 笑っている。


 それだけで、胸がいっぱいになった。


「よかった……本当に、よかった……」


 レオンハルト様の手は、まだ少し冷たかった。


 けれど、昨日のような冷たさではない。


 生きている手だった。


「心配をかけた」


「心配という言葉では足りません」


「そうだな」


 レオンハルト様は、私の涙を拭おうとした。


 私はその手をそっと止める。


「動かないでください」


「厳しい王妃だ」


「はい。今日は厳しくします」


 そう言いながら、私は息を整えた。


 言わなければならない。


 今なら、言える。


 レオンハルト様が生きている今だからこそ、言わなければならない。


「レオンハルト様」


「うん」


「改革を、おやめください」


 部屋の空気が静かに止まった。


 侍女たちは壁際で息を潜めている。


 レオンハルト様は、私を見ていた。


 怒ってはいなかった。


 驚いてもいなかった。


 ただ、私がそう言うことを、どこかで分かっていたような顔だった。


「私は、もうあんな思いをしたくありません」


 声が震えた。


「国のために必要なことだと分かっています。民のために必要なことだとも、分かっているつもりです。レオンハルト様が、軽い気持ちで改革を進めているのではないことも分かっています」


 分かっている。


 分かっているから、苦しかった。


「でも、私は、レオンハルト様を失いたくありません」


 私の願いは、王妃としては間違っているのかもしれない。


 国よりも小さく、民よりも狭い。


 けれど、妻としては、それしか言えなかった。


「少しだけでも、止まれませんか。改革を急がず、敵を刺激しないように、時間をかけて進めることはできませんか」


 レオンハルト様は、しばらく黙っていた。


 その沈黙が答えだった。


 私は分かっていた。


 この人は断る。


 毒で倒れても、死にかけても、断る。


「できない」


 静かな声だった。


 けれど、揺るがない声だった。


「今、国を変えなければ、ルーベルは間に合わない」


「間に合わない……」


「周辺国は動いている。商いも、技術も、人の流れも変わっている。ルーベルだけが、古い貴族制度と古い権利にしがみついている」


 レオンハルト様は、そこで少し息を吐いた。


 苦しそうだった。


 私は止めようとした。


 けれど、レオンハルト様は小さく首を振った。


「このままでは、いずれ他国に飲み込まれる。戦で負けるかもしれない。借金で縛られるかもしれない。外国の商人に、国の命綱を握られるかもしれない」


 声は低く、途切れがちだった。


 それでも、言葉だけは弱らなかった。


「そうなれば、民は惨めな暮らしを強いられる。重い税を取られ、学ぶ機会もなく、ただ働かされる。王家も貴族も、民を守るどころか、残った富を奪い合うだけになる」


「でも、そのためにレオンハルト様が死んでしまったら」


「私が死んでも、改革が続く仕組みを作る」


 息が止まった。


 そんなことは聞きたくなかった。


「言わないでください」


「言わなければならない」


「嫌です」


「エレノア」


「嫌です」


 子どものような言い方だった。


 けれど、どうしても嫌だった。


 レオンハルト様は困ったように目を細めた。


「私も、死にたいわけではない」


「なら」


「だから、急がなければならない」


 レオンハルト様は、私の手を握った。


「敵を一つずつ斬るのではない。仲間を増やす。逆らうより従った方がいい。敵に回るより、王家についた方が得だ。そう思わせるしかない」


「仲間を……」


「誰もが理想で動くわけではない。恐怖だけでも長くは動かない。利と、誇りと、安心を与えなければ、人は動かない」


 そこまで言って、レオンハルト様の呼吸が少し乱れた。


 私ははっとした。


 まただ。


 また、私が無理をさせている。


「もう結構です」


「エレノア」


「お休みください」


「まだ話は」


「いいえ。今日はもう終わりです」


 私は、少し強い声で言った。


「私が泣くと、レオンハルト様は無理をなさいます。私がお願いすると、苦しくても答えようとなさいます。だから、もう終わりです」


 レオンハルト様は、しばらく私を見ていた。


 やがて、小さく息を吐く。


「分かった」


 珍しく素直だった。


 それだけ疲れているのだと思った。


 私は、レオンハルト様の手をそっと布団の中へ戻した。


 本当は、まだ握っていたかった。


 けれど、離さなければならない。


「また来ます」


「ああ」


「でも、今日はもう休んでください」


「君も休みなさい」


 その言葉に、胸が詰まった。


 この方は、毒で倒れたあとでも、私の心配をする。


 私は深く頭を下げた。


「はい」


 そう答えて、部屋を出た。


 廊下に出ると、足元が少しふらついた。


 侍女が支えようとしたけれど、私は首を振った。


「大丈夫です」


 大丈夫ではなかった。


 けれど、倒れるわけにはいかなかった。


 私室へ戻ると、私は椅子に座った。


 しばらく、何も考えられなかった。


 改革を止めることはできない。


 レオンハルト様は止まらない。


 泣いて頼んでも、止まらない。


 なら、私はどうすればいいのだろう。


 また泣くのか。


 また誰かの扉を壊すのか。


 また、指を折ると脅すのか。


 違う。


 それではだめだ。


 あれは、レオンハルト様を救うためだった。


 けれど同時に、あの時の私は、国を壊す力にもなり得た。


 一人の心が壊れた時、国まで一緒に壊れてはいけない。


 そう思ったばかりではないか。


 私は、別のやり方を考えなければならない。


 仲間を増やす。


 レオンハルト様は、そう言った。


 逆らうより従った方がいいと思わせる。


 敵に回るより、王家についた方が得だと思わせる。


 魔法の紙も、換金所も、国心院も、私が口を出せば邪魔になる。


 私は、その仕組みを動かせるほど賢くない。


 では、私にできることは何か。


 王妃である私にできること。


 私は膝の上で手を握った。


 王妃。


 その言葉は、まだ重い。


 私は民の前で手を振った。


 貴族たちの前で笑った。


 レオンハルト様の隣に立った。


 それだけだと思っていた。


 でも、それだけでも意味があった。


 王妃が誰に視線を向けるか。


 誰に微笑むか。


 誰と話すか。


 それだけでも、貴族たちは意味を読む。


 そういう世界で、私は生きてきた。


 ふと、嫌な言葉が頭に浮かんだ。


 お茶会。


 私は思わず顔をしかめた。


 苦手だった。


 お茶会は、昔から苦手だった。


 笑いたくもないのに笑わなければならない場所。


 比べられる場所。


 リリアは可愛らしいのに、姉の私は堅苦しいと言われる場所。


 婚約者の隣で、家のために黙って座っていなければならない場所。


 どのお菓子を選ぶか。


 誰に先に挨拶するか。


 どの話題に笑うか。


 そんな小さなことに、いちいち意味がある場所。


 私は、そういう場所が嫌いだった。


 けれど。


 だからこそ、使えるのかもしれない。


 殿方たちが会議で派閥を作るなら、夫人たちは茶会で空気を作る。


 夫が強い言葉を口にしても、家の中で妻の言葉を無視できる者ばかりではない。


 母親は子どもの未来を考える。


 令嬢たちは自分の行く先を考える。


 夫人たちは、どの家に近づくべきかを見ている。


 王妃の茶会に招かれること。


 王妃に名を覚えられること。


 王妃に話を聞かれること。


 それは、きっと意味を持つ。


 やりたくない。


 本当は、やりたくない。


 お茶会など開きたくない。


 笑って、探って、席順を決めて、誰を近くに置くかを考えて、言葉の裏を読む。


 そんなことは苦手だ。


 でも、やるしかない。


 剣は使えない。


 魔法の紙も作れない。


 貴族の男たちの会議を、私が直接動かすこともできない。


 けれど、王妃のお茶会なら開ける。


 私が招くことはできる。


 私が話を聞くことはできる。


 王家に近づく道を、私が作ることはできる。


 貴族制度をなくすために、貴族の儀礼を使う。


 なんて皮肉だろう。


 私は、少しだけ笑った。


 けれど、笑っている場合ではなかった。


 レオンハルト様は命を狙われた。


 改革を止めれば、国は他国に飲み込まれるかもしれない。


 改革を進めれば、また誰かが牙をむく。


 なら、私も戦わなければならない。


 怒鳴るのではなく。


 脅すのでもなく。


 扉を壊すのでもなく。


 茶を注ぎ、笑い、名を呼び、席を用意し、仲間を増やす。


 それが、今の私にできる戦いなら。


 私は、やるしかない。


「侍女長を呼んでください」


 私が言うと、控えていた侍女がすぐに頭を下げた。


「かしこまりました」


 少しして、侍女長が部屋へ入って来た。


「王妃様、お呼びでしょうか」


「お茶会を開きます」


 侍女長は、一瞬だけ目を見開いた。


 私がお茶会を好まないことを知っているのだろう。


 けれど、すぐに表情を整えた。


「かしこまりました。規模はいかがいたしましょう」


「まだ決めていません」


 私は正直に答えた。


「誰を呼ぶべきかも、これから考えます」


「では、主だった家の夫人方を中心に」


「いいえ」


 私は首を振った。


「主だった家だけでは足りません。王家に近づきたい家。迷っている家。エーレンフェルト公爵家に従ってはいるけれど、得を見て動く家。国心学院に子を入れたいと考えそうな家。商いに関心のある家。そういう家も見ます」


 口に出して、自分で少し驚いた。


 私は、そんなことを考えている。


 ただのお茶会ではない。


 これは、味方を増やすための場だ。


「王妃様」


 侍女長の声が、少しだけ慎重になった。


「それは、かなり政治的なお茶会になります」


「分かっています」


 本当は、分かっていると言えるほど分かってはいない。


 でも、逃げるわけにはいかない。


「私は茶会が苦手です」


 私は言った。


「けれど、苦手だからやらないとは言えません。レオンハルト様が命をかけて改革を進めているのです。私も、できることをします」


 侍女長は、静かに頭を下げた。


「承知いたしました」


「まず、貴族の名簿を持ってきてください」


 私は、はっきりと言った。


「家名だけではなく、夫人、令嬢、子ども、婚姻関係、領地、商いとの関わりが分かるものを。できれば、最近どの家が誰と親しくしているのかも知りたいです」


「すぐに用意いたします」


 侍女長が深く礼をした。


 私は窓の外を見た。


 王宮の庭には、穏やかな光が落ちている。


 昨日、あれほど恐ろしいことが起きたとは思えないほど静かだった。


 この穏やかさは、誰かが守らなければ、すぐに壊れる。


 私は、それを知ってしまった。


 レオンハルト様は止まらない。


 なら、私も止まらない。


 苦手なお茶会でも。


 嫌いだった社交でも。


 必要なら、私はそこへ行く。


 やがて、侍女長が分厚い貴族名簿を抱えて戻って来た。


 私はそれを見つめた。


 この中には、私を笑った家もあるのだろう。


 リリアを褒め、私を堅苦しいと言った家も。


 カイル様との婚約を知りながら、何もなかったように笑っていた家も。


 私が、ただ黙って座っているだけの令嬢だと思っていた家も。


 胸の奥が、少しだけ重くなった。


 逃げたいと思った。


 けれど、私はもう逃げるために旅立った令嬢ではない。


 戻ってきて、王妃になった。


 なら、今度はこの場所で戦う。


 紙の束にすぎないはずなのに、それは剣よりも重く見えた。


不定期更新ですが少しづつ書いていきます。

個人的には歴史小説の方が書きやすいので「ファラオ クレオパトラ」を新たに書き始めました。

クレオパトラの人生は、私が思っていた以上に荒波のような人生でした。よければお読みください。

https://ncode.syosetu.com/n5680mk/

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作者様も戻って来て下さいました。 楽しみにしている読者もたくさんいるはずです。 更新楽しみにしています。
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