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《完結》事象を解く者は、ただ静かに眠りたい ~絶対零度の公女と歩む、箱庭スローライフ~  作者: ひより那
眠りの美女

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第9話 常春の水都と、解かれる澱み

 幻耀の廃都での穏やかな日々は、突如として終わりを告げた。

 理由は極めて単純だ。王属特務騎士団の襲撃から数日後、いつものように神殿跡の結晶苔の上で昼寝から目覚めたヴィデが、ぽつりとこう溢したからである。


「……飽きたな」

「えっ?」


 泉の水を汲みに行こうとしていたラヴィーネ・イル・フェルマータは、目を丸くして振り返った。

 ヴィデは大きな欠伸をしながら、周囲でキラキラと光を反射する結晶群を忌々しそうに一瞥した。


「静かなのはいいが、この光る石は太陽の角度によって眩しすぎる。それに、ずっと同じ景色だと風の匂いも単調になってくる。……場所を変えよう」


 それが、絶大な力を持つ彼の『引っ越し』の合図だった。

 ラヴィーネに異存はない。彼女の居場所は、もはや国でも特定の場所でもなく、この青年の隣にしか存在しないのだから。

 ヴィデは立ち上がると、懐から廃都の結晶の欠片をいくつか拾い上げ、無造作にポケットに突っ込んだ。そして、ラヴィーネの腰に軽く腕を回す。

 彼女が小さく息を呑む暇もなく、ヴィデの右手が空間の布地を掴み、一気にたぐり寄せた。


 グンッ、と。

 世界が強引に折り畳まれ、視界が極彩色にブレる。

 三半規管が軋むような感覚が過ぎ去った直後、ラヴィーネの全身を、今まで経験したことのないような『暖かく湿った風』が包み込んだ。


「……っ」


 思わず目を閉じていた彼女が、恐る恐るまぶたを開ける。

 そこに広がっていたのは、廃都の静寂や、宵の玻璃国(ヴィルカテーナ)の凍てつく白とは対極にある、色彩と活気に満ちた光景だった。

 見渡す限りの青空の下、白亜のレンガで造られた美しい街並みが広がっている。街の血管のように無数の水路が張り巡らされ、そこを小舟がのんびりと行き交っていた。水路の脇には色鮮やかな花々が咲き乱れ、行き交う人々の服装も軽やかで、皆一様に明るい表情を浮かべている。


「ここは……」

常春の水都(ネーヴィス・アルタ)。……確か、昔通りかかった時はそんな名前だったはずだ。日当たりも良く、水音が心地いい」


 ヴィデは周囲を見回し、満足げに頷いた。

 ここは大陸の南方に位置し、一年を通じて温暖な気候に恵まれた交易都市である。国境を越え、馬車で数ヶ月はかかる距離を、彼はまたしても一歩で踏破してしまったのだ。

 ラヴィーネは呆然と立ち尽くした。十年間、絶対零度の塔に幽閉されていた彼女にとって、肌を撫でる温かい風も、遠くから聞こえてくる市場の喧騒も、どこからか漂ってくる香辛料や焼きたてのパンの匂いも、全てが強烈すぎる刺激だった。


「ほら、口が開いているぞ。糸が緩みすぎだ」


 ヴィデのからかうような声に、ラヴィーネはハッとして顔を赤らめた。


「す、すみません……。こんなに暖かくて、人がたくさんいる場所は……初めてで」

「そうか。まあ、まずは飯だな。少し歩くぞ」


 ヴィデはそう言うと、ラヴィーネの手を引いて歩き出した。

 石畳の道を歩きながら、ラヴィーネの心臓は早鐘のように打っていた。彼に手を引かれているという事実と、周囲の平和な日常の光景が、彼女の胸の奥にどうしようもないほどの多幸感を湧き上がらせる。

 市場の通りに出ると、ヴィデは焼き菓子の屋台で足を止めた。

 彼は懐から、先程廃都で拾った結晶の欠片を取り出し、屋台の店主に放り投げた。店主は初め怪訝な顔をしたが、それが純度百パーセントの魔力結晶だと気づくと、目を剥いて慌てて焼き立ての菓子を袋いっぱいに詰め込み、大量の釣り銭の銀貨と共に差し出してきた。

 ヴィデはその中から、琥珀色の糖衣がかけられた温かい焼き菓子を一つ取り出し、ラヴィーネの口元に差し出した。


「ほら、食ってみろ。いい匂いがする」

「あ、ありがとうございます……」


 ラヴィーネは両手でそれを受け取り、小さく一口齧った。

 サクッという心地よい音と共に、濃厚なバターの香りと、とろけるような甘さが口いっぱいに広がる。


「……美味しい」


 自然と顔がほころび、瞳に涙が滲んだ。

 それは、猛毒の果実を解呪してもらった時とは違う、純粋な『日常の幸福』の味だった。普通の少女が当たり前のように享受しているものを、彼女は今、この規格外の青年から与えられている。


「そうか。なら、俺も食おう」


 ヴィデも菓子を頬張りながら、水路沿いの遊歩道をのんびりと歩き続ける。

 やがて二人は、街の中心部を流れる最も大きな水路――大運河のほとりにある、日当たりの良い広場に辿り着いた。

 広場には木陰のベンチがあり、昼寝には絶好の場所に見えた。

 しかし、ヴィデはベンチに向かおうとして、ピタリと足を止めた。彼の漆黒の瞳が、僅かに不快げに細められる。


「……なんだ、この臭いは」


 ラヴィーネも遅れて気づいた。

 大運河の水が、異常に濁っているのだ。本来なら底が見えるほど澄んでいるはずの水路が、赤黒い泥水のように変色し、微かに腐敗臭のようなものを放っている。

 広場の周囲では、街の住民たちが不安げに水面を見つめ、ひそひそと囁き合っていた。


「また『水底の呪い』が濃くなってきたぞ……」

「ああ、水源に巣食う古い悪霊の仕業だという噂だ。このままでは、街中の水が腐ってしまう……」


 住民たちの悲痛な声が耳に入る。

 ラヴィーネは王族としての知識を総動員し、水路の異変の正体を探ろうとした。水脈に直接干渉する大規模な呪術。もしこれが街全体に及べば、この美しい水都は数日で死の街と化すだろう。


「ヴィデ、これは……水脈の奥深くに、強力な呪詛が絡みついています。おそらく、過去に封印された魔の残滓が……」


 ラヴィーネが緊迫した声で告げた、その時だった。


「……臭くて、これじゃあ寝られないじゃないか」


 ヴィデは心底不機嫌そうな声で吐き捨てると、運河の縁にしゃがみ込んだ。


「あのな。水っていうのは、真っ直ぐに流れるから心地いい音が鳴るんだ。こんな下流の方で、見えない糸を団子結びにして流れを堰き止めるから、水が腐るんだろうが」

「え……? 団子結び……?」

「ったく。誰だか知らないが、嫌がらせにしては陰湿すぎる。俺の鼻先でドブの臭いをさせるな」


 ヴィデは文句を言いながら、濁った水面に向かって右手を突き出した。

 そして、水に触れるか触れないかの距離で、指先をほんの少しだけ動かした。まるで、水の中に沈んでいる見えない『結び目』を探り当て、それを摘んで引き抜くような仕草。


 パチン、と。周囲の喧騒にかき消されるほどの、ごく小さな音が鳴った。


 次の瞬間。ヴィデの指先を中心にして、赤黒く濁っていた水が、爆発的な勢いで『透明』に切り替わった。

 泥や呪いの残滓が浄化されたのではない。水脈を堰き止め、腐らせていた事象の結び目が解かれたことで、水が本来の姿を強制的に取り戻したのだ。

 透き通った青い水の波紋が、大運河を遡るように一瞬で街中へと広がっていく。腐敗臭は嘘のように消え去り、代わりに爽やかな水飛沫の匂いが風に乗って広場を駆け抜けた。


「……なっ!?」

「み、水が……澄んでいく! 呪いが消えたぞ!」


 住民たちが驚愕の声を上げ、広場は一転して歓喜の渦に包まれた。

 水源を汚染していた強大な呪いが、誰が何をしたのかもわからないまま、たった一瞬で完全に消滅したのだ。街を救った奇跡を目の当たりにして、人々は涙を流して抱き合っている。


 しかし、その奇跡を起こした張本人は、歓喜の声すらも「うるさい」とばかりにため息をついていた。


「よし、これで臭いは消えた」


 ヴィデは何事もなかったかのように立ち上がり、そのまま木陰のベンチにごろりと横たわった。


「水音もマシになった。俺は寝るから、君も適当に座って休め」


 彼はそう言い残すと、あっという間に規則正しい寝息を立て始めた。

 街を滅亡の危機から救った英雄的行為など、彼にとっては『寝る前に部屋の空気を入れ替えた』程度の意味しか持っていないのだ。

 ラヴィーネは、歓喜に沸く広場と、無防備に眠る青年の寝顔を交互に見つめ、やがて小さく吹き出した。

 彼がいる限り、この世界に本当の脅威など存在しないのだと、改めて思い知らされる。

 彼女はベンチの端にそっと腰を下ろすと、まだ温かい焼き菓子の残りを口に運びながら、ヴィデの寝顔を優しく見守り続けた。


 常春の水都の暖かな日差しが、二人を柔らかく包み込んでいた。

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