第10話 儀式の装束と、ほどけない絹糸
常春の水都の大運河沿い。
呪いが解かれ、本来の輝きを取り戻した水面が、初夏を思わせる柔らかな日差しを乱反射している。広場のベンチでは、ヴィデがいつものように灰色の外套に包まり、穏やかな寝息を立てていた。
その傍らに座るラヴィーネ・イル・フェルマータは、木陰から行き交う人々を静かに見つめていた。
石畳を歩く少女たちは、皆一様に軽やかな装いをしていた。風に揺れる薄手のワンピース、色鮮やかなリボン、足元を彩る歩きやすそうな革靴。彼女たちの楽しげな笑い声は、この平和な街の空気にとてもよく似合っている。
ふと、ラヴィーネは自身の体に視線を落とした。
彼女が身に纏っているのは、宵の玻璃国の王宮で誂えられた、白を基調とした分厚い儀式用の装束だった。
防御と魔力伝導に特化するため、幾重にも重ねられた重い布地。銀糸でびっしりと縫い込まれた複雑な呪術模様。首元までしっかりと覆い隠すそのデザインは、威厳こそあれ、常春のこの街においては明らかに異質であり、なによりひどく暑苦しかった。
十年間、塔の中で死を待つ間、この服は彼女の皮膚も同然だった。血と冷気と、呪いの残滓が染み付いた、生きた人柱のための死装束。
「……浮いて、いるわね」
ラヴィーネはぽつりと呟き、自分の膝をきゅっと抱え込んだ。
自由になったというのに、彼女の見た目は過去の呪縛を引きずったままだった。隣で眠る青年がいかに非常識な存在であっても、自分だけがこの暖かな日差しの下で『死の気配』を纏っていることが、急にひどく恥ずかしく思えたのだ。
「……見ているだけで、肩が凝る」
唐突に、すぐ横から不満げな声が聞こえた。
ビクッと肩を跳ねさせて振り返ると、ヴィデが薄く目を開け、ラヴィーネの装束を忌々しそうに見つめていた。
「ヴィ、ヴィデ。起こしてしまいましたか?」
「いや。ただ、君のその服から立ち上る魔力の糸が、ガチガチに絡まりすぎていて目障りなんだ。生地も分厚くて、風の通り道が全くない。そんな窮屈な結び目に包まれていては、俺まで息が詰まる」
ヴィデは起き上がり、大きく伸びをした。
「着替えよう。この街なら、もっと風通しの良い布があるだろう」
「えっ……でも、私、お金なんて……」
「金ならある。さっきの石の欠片がまだいくつか残っているからな」
ヴィデはラヴィーネの反論を聞く耳も持たず、彼女の細い手首を掴んで歩き出した。
彼に手を引かれ、連れてこられたのは、広場に面した一際立派な店構えの高級仕立て屋だった。ショーウィンドウには、軽やかな上質の絹や綿で仕立てられた美しいドレスが並んでいる。
店主と思しき恰幅の良い夫人は、ヴィデが放り投げた純度の高い魔力結晶の欠片を見るなり、態度を豹変させて店の奥から最高級の品々を次々と運び出してきた。
「さあお嬢様、こちらの淡い水色のドレスなどいかがでしょう! 南方の海絹を使用しておりまして、羽のように軽く、風通しも抜群でございますよ」
夫人が広げて見せたのは、水都の空と運河をそのまま溶かし込んだような、美しいグラデーションのドレスだった。
ラヴィーネは思わず息を呑んだ。こんなに綺麗で、軽やかな服を着たことなど一度もない。
「あの、私……これを、着ても……?」
「ああ。早くその息苦しい鎧を脱いでくれ。俺が安眠するためだ」
ヴィデが相変わらずの理由で頷くのを見て、ラヴィーネは弾む心でドレスに手を伸ばした。
しかし。
彼女の指先が、その美しい海絹の布地に触れた瞬間だった。
ビキッ、と。布地から、微かな破裂音が鳴った。直後、ラヴィーネが触れた部分から、絹の糸がボロボロと砂のように解れ始めたのだ。
それだけではない。彼女が驚いて手を離した時には、ドレスの袖口から胸元にかけて、布の結合が完全に崩壊し、無残な糸くずの塊となって床に落ちてしまった。
「ひっ……!? な、何が……」
店主の夫人が悲鳴を上げた。
ラヴィーネは顔面を蒼白にして、自分の両手を見つめた。
理由はすぐに理解できた。十年間、国家規模の強大な術式の中心に縫い付けられていた彼女の体は、常人の何千倍もの脈理を蓄積し、同時に流出させる特異な魔力回路と化していたのだ。
呪縛が解けた今でも、彼女の体からは無意識のうちに高濃度の魔力波長が漏れ出している。塔の装束のような特殊な防護布でなければ、その強大な波長に普通の糸の結合が耐えきれず、物理的に崩壊してしまうのである。
「ご、ごめんなさい……私……!」
普通の女の子のような服を着ることすら、私には許されないのだ。
十年の代償が、目に見える形で彼女のささやかな希望を打ち砕いた。ラヴィーネの瞳から大粒の涙が溢れそうになり、彼女は後ずさった。
「……面倒な体質だな」
ヴィデの静かな声が、店内に響いた。
彼は床に落ちた、ただの糸くずと化したドレスの残骸の前にしゃがみ込んだ。
「布の編み込みが弱すぎるんだ。こんな柔な結び目では、君の体から溢れる脈理の圧に耐えられない。……だが、素材そのものは悪くない」
ヴィデは、糸くずの山に向かって、無造作に右手を差し出した。そして、空中で見えないピアノを弾くように、五本の指を滑らかに動かした。
パチン、パチン、パチン。
連続する、微かな弾ける音。
「な……っ」
ラヴィーネと店主は、目の前で起きている信じられない光景に言葉を失った。
床に散らばっていた糸くずが、重力を無視して空中に浮かび上がったのだ。
それらは、ヴィデの指先の動きに合わせて、生き物のように空中で踊り、絡み合い、そして猛烈な速度で『再構築』されていく。
裁縫ではない。彼が行っているのは、事象の完全な掌握と固定だ。
解れてしまった糸の結び目を、魔力の波長が干渉する隙間すら与えない、絶対的で完璧な幾何学模様として、空間そのものに縫い付けているのである。
「これでいい。この結び目なら、君の魔力ごときで解れることは絶対にない。どれだけ乱暴に動いても、皺一つ寄らないはずだ」
数秒後、ヴィデがふっと息を吐いて手を下ろした。
空中に浮かんでいたそれは、ゆっくりとラヴィーネの目の前に降りてきた。
それは、先程店主が見せたドレスと形こそ同じだったが、放つ存在感が全く異なっていた。
極限まで緻密に再結合された布地は、淡い水色の中に星屑を散りばめたような微かな光を帯びており、それでいて指先で触れれば溶けてしまいそうなほど柔らかく見える。
世界の理を書き換える青年の手によって仕立て直された、この世に二つとない絶対のドレス。
「ほら、着てみろ。俺は表で待っている」
ヴィデはそれだけ言うと、あっさりと店の外へ出て行ってしまった。
ラヴィーネは震える手で、そのドレスを受け取った。
今度は、崩壊しなかった。それどころか、布地から伝わってくるのは、ヴィデの手のひらと同じ、あの安心しきってしまうような圧倒的な温もりだった。
数分後。店の外のベンチで再びうたた寝を始めようとしていたヴィデの前に、着替えを終えたラヴィーネが恐る恐る姿を現した。
「あの……ヴィデ」
ヴィデが片目を開ける。
分厚い装束を脱ぎ捨て、淡い水色のドレスに身を包んだ彼女は、まるで水都の風の精霊のように美しかった。
絶対の固定を施されたドレスは、彼女の特異な魔力を完全に中和しつつ、その銀色の髪と青い瞳の透明感を極限まで引き立てている。重い足枷を外された彼女の表情には、微かな戸惑いと、隠しきれない喜びが入り混じっていた。
「……どう、でしょうか」
頬を朱に染め、上目遣いに尋ねるラヴィーネ。
ヴィデは数秒ほど彼女をじっと見つめ、やがて短く息を吐いた。
「うん、いいんじゃないか」
彼は再びベンチに身を預け、目を閉じた。
「魔力のざわつきも消えたし、あの重苦しい刺繍も見えなくなった。これで俺の目もチカチカしない。完璧な安眠環境だ」
「……ふふっ」
全く色気のない、自己中心的な感想。
しかし、ラヴィーネにとっては、それが何千の賛辞よりも嬉しかった。
彼は自分の安眠のためと言いながら、彼女が抱えていた過去の重みと、魔力という呪いを、最も美しい形で『解いて』くれたのだ。
「ありがとうございます、ヴィデ。……私、この服、ずっと大切にします」
「好きにしろ。解れないから、一生着ていられるぞ」
ぶっきらぼうな青年の返事に、ラヴィーネはドレスの裾を軽くつまみ、心からの笑顔を咲かせた。
世界で最も理不尽で、最も優しい青年に仕立てられたドレスは、常春の風に揺れ、柔らかく輝いていた。




