第11話 古の水竜と、極上の微風
常春の水都の中心を貫く大運河は、ヴィデが指先一つで呪いの『結び目』を解いて以来、本来の瑠璃色を取り戻し、太陽の光を受けて眩いほどに輝いていた。
広場のベンチでは、ヴィデがいつものように灰色の外套を被り、規則正しい寝息を立てている。その傍らには、彼が事象を固定して仕立て直した『解れない海絹のドレス』を纏ったラヴィーネ・イル・フェルマータが、穏やかな表情で座っていた。
呪いの消滅に沸き立っていた広場の人々も、今は日常の営みへと戻りつつあった。誰も、このベンチで眠る気怠げな青年が、街を救った奇跡の張本人だとは夢にも思っていないだろう。
ラヴィーネは、ドレスの裾を撫でる心地よい初夏の風を感じながら、隣の青年の寝顔をそっと見つめた。
国を捨て、公女としての責務を放棄したというのに、彼女の心はかつてないほどに軽く、そして満たされていた。それは間違いなく、この規格外の青年が、彼女に「何もしなくていい」という最大の赦しを与えてくれたからだ。
――だが、ヴィデの安眠は、またしても外部からの強烈な干渉によって破られることとなる。
ゴゴゴゴゴ……ッ! 突如として、広場を囲む石畳が微かに、しかし確かな質量を伴って震え始めた。
ラヴィーネが弾かれたように顔を上げると、目の前の大運河の水面が、不自然なほど大きく盛り上がり始めているのが見えた。
波ではない。水そのものが、まるで巨大な生き物が立ち上がるかのように、天に向かって数十メートルの高さまで隆起していく。
晴れ渡っていた空が、突如として湧き出した分厚い雨雲によって覆い隠され、広場は一瞬にして夕暮れのような薄暗さに包まれた。
「ひっ……!」
「な、なんだ!? 運河の水が……!」
周囲の住民たちが悲鳴を上げ、パニックに陥って逃げ惑い始める。
ラヴィーネも思わず立ち上がり、隆起した水柱を見上げた。彼女の優れた魔力感知能力が、かつてないほど強大で、純粋な『水』の属性魔力を捉えていた。それは、先程まで水脈を汚染していた呪いなどとは次元が違う、自然界そのものが凝縮したような圧倒的なプレッシャーだ。
ザパァァァッ! という鼓膜を破るような轟音と共に、水柱が弾け飛んだ。
そこから現れたのは、透き通るような蒼い鱗に覆われた、巨大な竜だった。優に五十メートルは超えるであろう長大な胴体。四本の鋭い爪を持つ肢。そして、頭部には王冠のように美しく枝分かれした白銀の角が生えている。
それは、神話の時代からこの水都の地下深くで眠り続けていたとされる、古の精霊王――『蒼波の水竜』そのものだった。
『――おお。おおおおおお……!』
竜が口を開くと、声帯を震わせる音ではなく、広場にいる全ての者の脳髄に直接響き渡るような、荘厳で重々しい声が轟いた。
『長きに渡り、我を縛り、我の清らかなる水脈を濁し続けていた呪縛……。それを、いとも容易く打ち払い給うたのは、そこの御仁であられるか!』
水竜の巨大な黄金の瞳が、広場のベンチに向けられた。
その視線の先にあるのは、当然ながら、まだ外套を被って丸まっているヴィデである。
水竜は長い首をゆっくりと曲げ、広場の石畳に鼻先が触れるほどの位置まで頭を下げた。それは、人間で言えば最上級の平伏、絶対的な臣従の姿勢であった。
『我は蒼波の水竜。この地の水脈を司る古き精霊なり。数百年もの間、邪悪なる呪いに魂を削られておりましたが……貴方様の神の如き御業により、ついに自由を得ることが叶いました!』
脳内に響く竜の声は、歓喜と、底知れぬ畏怖に満ちていた。
竜からすれば、自らが何百年もかけて解けなかった呪縛を、一瞬で「なかったこと」にしてしまった存在である。それはもはや、彼ら精霊の格を遥かに凌駕する、世界そのものの意志、あるいは創世の神にも等しい絶対者に他ならない。
『おお、偉大なる主よ! 我が命、我が魔力の全ては、今この瞬間より貴方様のもの! どうか、この愚かなる水竜に、貴方様の世界を平定するための大いなる使命をお与えくだ――』
「……うるさい」
水竜の荘厳な誓いの言葉は、極めて不機嫌な、地を這うような低い声によって容赦なく遮られた。
『……は?』
「やかましいと言っているんだ。脳裏に直接、古臭い言葉をガンガンと響かせるな。頭が痛くなる」
ヴィデが外套を跳ね除け、のろのろと体を起こした。
彼は大きな欠伸を一つすると、目の前で平伏している神話の存在――巨大な水竜を、ひどく忌々しそうな、親の仇でも見るような目で見上げた。
「それに、なんだその図体のデカさは」
『は、ははっ! 主の御前にて、このような無骨な姿を晒す非礼、どうかお許しを! しかし、これは我の本来の――』
「空が曇って、俺のベンチが完全に日陰になっているじゃないか」
『……え?』
ヴィデは水竜の言葉など全く聞いていなかった。
彼はただ、自分に降り注ぐはずだった心地よい初夏の日差しが、水竜の巨体と、竜が呼び寄せた雨雲によって遮られているという『事実』だけに強烈な怒りを覚えていたのだ。
「俺は今、食後の完璧な昼寝を楽しんでいたんだ。日当たりが良くて、風も心地よかった。それを、どこから湧いて出たか知らないが、デカいトカゲが水を撒き散らして空を暗くする。……俺の安眠を妨害する気か?」
『と、トカゲ……!? い、いえ、滅相もございません! 我はただ、貴方様に忠誠を……!』
水竜は完全に混乱していた。
世界の理を統べるような偉大な存在から、まさか「日陰になるからどけ」という、路地裏の野良猫でも払うような理由で怒りを向けられるとは、数千年の時を生きてきた竜の知恵をもってしても予測不能だったのだ。
「だいたい、使命がどうとか言っていたな。俺に仕えたいというなら、俺の役に立つことをしろ」
『は、ははっ! なんなりと! 敵対する国を海に沈めましょうか! それとも、枯れた大地に無尽蔵の水を――』
「そういう大袈裟な結び目を作るのはやめろ。空間がざわついて余計に眠れなくなる」
ヴィデは呆れたようにため息をつくと、ベンチに深く座り直し、ラヴィーネの方をちらりと見た。
「さっきから少し、気温が上がってきたな」
「えっ? あ、はい。お昼を過ぎて、日差しが強くなってきましたから……」
「そうだろう。俺も少し暑いと思っていたところだ。汗をかくと寝苦しい」
ヴィデは再び水竜を見上げ、右手を軽く振った。
「おい、トカゲ」
『は、はいっ! なんでございましょう、偉大なる主よ!』
「少しサイズを小さくしろ。空の雲も払え。そして、ちょうどこのベンチの周りだけ、心地よい涼しい風を送れ。乾燥しないように、目に見えないくらいの細かい水飛沫も混ぜるんだ。……それと、絶対に音は立てるな。風切り音一つでも出したら、お前の存在ごと結び目を解くぞ」
『…………は?』
水竜は、巨大な口を半開きにしたまま硬直した。
神話の時代より畏れ敬われてきた精霊王。大海嘯を引き起こし、地形すら変える力を持つ彼に与えられた『大いなる使命』。
それは、ただの『高級な扇風機兼ミスト発生器』になることだった。
『あ、あの……主よ。我は水竜……。そのような、街角の冷やかしのような真似を……』
「できないなら消えろ。図体がデカいだけで役に立たないなら、ただの邪魔な壁だ」
ヴィデが指先を僅かに動かそうとした瞬間、水竜は本能的な死の恐怖を悟った。
この男は本気だ。本気で、「昼寝の邪魔だから」という理由だけで、自分という存在を概念ごと消し去ろうとしている。
『や、やりますッ! やらせていただきますッ! 極上の微風と水飛沫、すぐにご用意いたします!』
水竜は悲鳴のような念話を響かせると、ポンッ、という情けない音と共に、その巨大な姿を数メートルの小さな子竜のサイズにまで縮ませた。
同時に上空の雨雲が嘘のように晴れ渡り、再び暖かな日差しが広場に降り注ぐ。
小さくなった水竜は、ベンチの少し斜め上にぷかぷかと浮かび上がると、必死の形相で小さな翼を羽ばたかせ、ヴィデとラヴィーネに向かって、それはもう絶妙な温度の、微かな水気を帯びた涼風を送り始めた。
当然、ヴィデの脅しが効いているため、羽音一つ、魔力の駆動音一つ立てていない。
「……ふむ。悪くない」
ヴィデは目を閉じ、頬を撫でる極上の涼風を浴びて満足げに頷いた。
「これなら快適だ。おいトカゲ、俺が起きるまでその風力を維持しろ。少しでも弱まったら解くぞ」
『は、ははぁーっ……!』
神話の竜が、涙目になりながら必死に風を送り続ける。
ラヴィーネは、そのあまりにも理不尽で、しかしどこまでも平和な光景を前に、ただただ呆然とするしかなかった。
世界を揺るがすほどの伝説の存在すらも、彼にとっては『快適な昼寝のための便利な道具』でしかないのだ。
彼女は、空中で懸命に扇風機代わりになっている水竜に少しだけ同情しつつも、隣で本当に気持ちよさそうに寝息を立て始めたヴィデの横顔を見て、くすりと吹き出した。
「ふふっ……本当に、あなたという人は」
ラヴィーネもまた、水竜が作り出す極上の涼風を浴びながら、ヴィデの肩にそっと寄りかかった。
世界最強の存在を日除けと扇風機にして過ごす、最高の昼下がり。彼女は今、この狂っていて、どうしようもなく優しい『箱庭』の日常を、心の底から愛おしいと感じていた。




