第7話 猛毒の果実と、無価値の証明
幻耀の廃都に、静かな朝が訪れていた。
前日にヴィデが空間の『皺』を力ずくで均して以来、この廃墟には魔物はおろか、毒虫一匹たりとも寄り付かなくなっていた。
無残に崩れ落ちた白亜の神殿跡にも、柔らかな陽光が差し込んでいる。光を浴びた結晶苔が淡く発光し、世界は死の都というよりは、誰も足を踏み入れたことのない神域のような美しさを湛えていた。
その結晶の絨毯の上で、ラヴィーネ・イル・フェルマータは目を覚ました。
隣を見れば、灰色の外套に包まったヴィデが、昨日と全く同じ姿勢で規則正しい寝息を立てている。彼は本当に、自分の安眠を確保するためだけにあの恐ろしい上位魔族を消し去り、そして見事にその目的を達成して熟睡しているのだ。
ラヴィーネはそっと立ち上がり、音を立てないように衣服の乱れを直した。
十年間、塔の中で身動きすらとれなかった彼女にとって、自分の意志で立ち上がり、歩けるという事実だけで胸が詰まりそうになる。しかし、同時に彼女の心を支配していたのは、得体の知れない焦燥感だった。
(私は、何かしなければ……)
『凍霞の公女』。それが彼女の全てだった。
国を守るための人柱。命を削り、魔力を捧げ続けることでのみ、彼女は生きることを許されていたのだ。しかし今、その鎖は解かれた。彼女は自由になり、この不可解な青年に同行することを選んだ。だが、彼にとって自分は必要なのだろうか。空間を捻り、事象を書き換える彼に、虚弱な元公女など足手まといでしかない。
もし、「役に立たないから」と見捨てられてしまったら。再びあの絶対零度の孤独に戻るくらいなら、いっそここで息を止めた方がましだとすら思えた。
(せめて、食事の用意くらいは……)
ラヴィーネは神殿の裏手へと足を向けた。
廃都の中を少し歩くと、結晶化した木々の間に、紫がかった黒い果実をたわわに実らせた低木を見つけた。さらに奥には、澄んだ水を湛えた小さな泉もある。
だが、王族として高度な教育を受けてきた彼女の知識が、即座に警鐘を鳴らした。
あの果実は『冥鳴の果実』。一口齧っただけで内臓が腐り落ちる猛毒だ。そして泉の水も、一見澄んでいるように見えて、高濃度の魔力素に汚染された死の水である。
ここが魔境であるという事実を、彼女は改めて突きつけられた。普通の人間ならここで諦めるだろう。しかし、ラヴィーネには焦りがあった。
(私の残った魔力で、毒の成分だけを中和し、煮沸すれば……あるいは……)
彼女は泉の水をすくい、果実をいくつか摘み取ると、神殿の跡地に戻って即席の火の魔術を編み上げようとした。
毒を抜く作業は、文字通り命がけだ。少しでも術式の構成を間違えれば、猛毒の蒸気を吸い込んで自分が死ぬ。震える指先で魔力を練り上げ、果実に触れようとした、その瞬間だった。
「――朝から、何をやっているんだ」
背後から響いた、ひどく間の抜けた、しかし絶対的な平穏を纏った声。
ビクッと肩を跳ねさせたラヴィーネが振り返ると、目を擦りながら起き上がってきたヴィデが、怪訝そうな顔でこちらを見ていた。
「ヴィデ……あの、朝食の、用意を……」
「朝食?」
ヴィデはラヴィーネの足元に置かれた果実と水を見て、大きくため息をついた。
「君は馬鹿なのか。それは猛毒だろう。食べたら死ぬぞ」
「わ、わかっています! でも、私が魔術で毒を分解して……時間をかければ、なんとか食べられる状態に……」
「なぜ、そんな面倒なことをする」
ヴィデの歩み寄り、彼女の足元にある果実を見下ろした。
ラヴィーネは身を縮めた。
「だって……私は、あなたに助けてもらったのに、何もお返しができないから……! せめて、身の回りのことくらい役に立たないと、私は……ここにいる資格が……」
早口で捲し立てる彼女の瞳には、涙が滲んでいた。
役に立たなければ、捨てられる。存在価値を証明しなければならない。それは十年間の幽閉生活が彼女の魂に刻み込んだ、呪いにも等しい強迫観念だった。しかし、ヴィデはそんな彼女の悲壮な覚悟を、呆れたような一瞥で片付けた。
「また、見えない糸を張り巡らせているな。見ていて息苦しい」
「え……」
「資格だの、価値だの。そんなもののために、わざわざ自分から面倒事に首を突っ込むのは愚か者のやることだ。俺は君を召使いにするために連れてきたわけじゃない」
ヴィデは無造作にしゃがみ込むと、ラヴィーネが命がけで処理しようとしていた『冥鳴の果実』を素手で掴み上げた。
「だめっ! それに触れては――」
「毒なんてものは、ただの成分の結び目が悪いだけだ」
ラヴィーネの制止を意に介さず、ヴィデは果実の表面を指の腹で軽く撫でた。
パチン。
彼の指先から、極めて小さな音が鳴る。次の瞬間、紫がかった黒色をしていた果実の色が、みるみるうちに鮮やかな赤色へと変わっていった。周囲に漂っていた微かな腐臭が消え、代わりに甘く芳醇な香りが広がる。
ヴィデはそのまま泉の水にも指を浸し、同じように軽く水面を弾いた。
濁りのなかった水が、さらに透明度を増し、致死の魔力素の気配が完全に消え去った。
「成分の悪い部分だけを『解いた』。これでもうただの美味い果物と、ただの冷たい水だ。わざわざ魔術だの煮沸だのと、面倒な手順を踏む必要はない」
ヴィデは赤く熟した果実を、ラヴィーネの手にポンと押し付けた。
「ほら、食え。君は少し痩せすぎている。風で飛んでいきそうだからな」
ラヴィーネは、手の中にある果実と、目の前でしゃがみ込んでいる青年を交互に見つめた。
彼女がどれほど命を懸けても成功するかどうかわからなかった毒の解呪を、彼は「悪い結び目を解いた」という一言で、文字通り一瞬にして成し遂げてしまったのだ。
「どうして……」
ぽつりと、ラヴィーネの唇から声が漏れた。
「どうして、そこまでして……私を……。私は、何の役にも立たないのに……」
「まだ言うか。君は本当に物分かりが悪いな」
ヴィデは立ち上がり、呆れたように頭を掻いた。
「俺は、君がそこにいて、静かにしていてくれるのが一番いいんだ。君が焦って糸を絡ませると、空間がざわついて俺の昼寝の邪魔になる。だから、何もしなくていい」
「……何もしなくて、いい……?」
「ああ。腹が減ったら俺が適当に解いて食えるようにするし、寒ければ風の通り道を塞ぐ。君はただ、そこで日向ぼっこでもしていればいいんだ。それが俺にとって一番の『役に立つ』ことだ」
それは、常識的に考えればひどく横暴で、身勝手な言い分だった。しかし、ラヴィーネにとっては違った。
『何もしなくていい』
それは、彼女の存在そのものを、無条件で肯定する言葉だった。
魔力を捧げる必要も、命を削る必要もない。ただ「そこにいること」だけを許されたのだ。
張り詰めていた心の糸が、音を立てて解れていくのがわかった。彼女の目から、大粒の涙がポロポロと溢れ落ち、結晶苔の上で光の粒となって弾けた。
「……おい、なぜ泣く。俺は何か悲しませるようなことを言ったか?」
ヴィデが本当に不思議そうに眉を寄せるのを見て、ラヴィーネは涙を流しながら、ふふっ、と小さく吹き出した。
「いいえ……。ただ、少し……安心しただけです」
彼女は手の中の果実を、ゆっくりと口に運んだ。一口齧ると、驚くほどの甘さと瑞々しさが口いっぱいに広がった。十年間で初めて味わう、本物の『生』の味だった。
「美味しい……とても、甘いです……」
「そうか。なら、俺も食うとしよう」
ヴィデも無造作に果実を齧り、満足げに頷いた。
廃都の静かな朝。世界で最も強大で身勝手な青年と、世界で最も孤独だった公女は、猛毒だったはずの果実を並んで頬張りながら、穏やかな時間を共有していた。
彼女の魂に巻き付いていた最後の呪縛が解け去り、二人の関係が、真の意味で対等なものへと近づいた瞬間だった。




