第6話 幻耀の廃都と、空間の皺伸ばし
宵の玻璃国の北端に位置する黒曜の砦。その後門から一歩踏み出した瞬間、世界は再び強引に折り畳まれた。
視界が極彩色にブレたのは、ほんの瞬きほどの時間。三半規管が捻れるような奇妙な浮遊感が去った後、ラヴィーネ・イル・フェルマータの目に飛び込んできたのは、見たこともないほど美しく、そして死の静寂に満ちた光景だった。
「……ここは」
ヴィデの腕の中で、ラヴィーネは小さく息を呑んだ。
目の前に広がっていたのは、見渡す限りの廃墟だった。しかし、ただ朽ち果てているわけではない。崩れ落ちた白亜の神殿や、天を突くような尖塔の残骸の表面は、透き通るような蒼い結晶体に覆い尽くされている。
その結晶が淡い日の光を乱反射し、廃都全体がまるで巨大な宝石箱のように、静かで幻想的な輝きを放っていた。
「幻耀の廃都、『ルミナ・エテル』……。かつて魔族の侵攻によって一夜で滅び、今は生きた結晶が全てを飲み込んだ死の都……」
ラヴィーネは、王宮の書庫で見たことのある古い地図の記憶を頼りに呟いた。
黒曜の砦からさらに北東へ数百キロ。人間が立ち入ることなど到底不可能な、魔境の深部である。それを、ヴィデは本当に「一歩」で踏破してしまったのだ。
「人間がいなくて、静かで、日当たりがいい場所を探した結果だ。それに、この光る石はひんやりとしていて、寝台にするには悪くなさそうだ」
ヴィデはそんなラヴィーネの驚愕など気にする様子もなく、のんびりとした足取りで廃都の大通りを歩き始めた。
彼の目には、かつて数十万の命が奪われた悲劇の地も、ただの「少し綺麗な空き地」程度にしか映っていないようだった。
やがて、神殿の跡地らしき場所の中庭に辿り着くと、ヴィデは広範囲に群生している柔らかそうな結晶苔の上に、ラヴィーネをそっと下ろした。
自分もその隣にごろりと横たわり、心地よさそうに目を閉じる。
「よし、今度こそ昼寝だ。俺の安眠を妨げるような国事も、やかましい兵士もここにはいない」
「……」
ラヴィーネは、結晶苔の冷たくも滑らかな感触を掌で確かめながら、自分の犯した罪の重さを噛み締めていた。
国を捨てたのだ。『凍霞の公女』としての責務を投げ出し、自分を助けようとしてくれた守備隊長たちの懇願すらも背中で切り捨てて、この不可解な青年に同行することを選んだ。
王都に知られれば、大逆罪で指名手配されるのは間違いない。しかし、彼女の心に後悔はなかった。十年間、誰の温もりも知らずに死を待つだけだった日々に比べれば、大逆人として追われる恐怖すら、生気を伴った温かいものに感じられた。
隣を見れば、国の危機などどこ吹く風で、微かな寝息を立て始めているヴィデがいる。その無防備な横顔を見ていると、張り詰めていた心が不思議と解れていくのがわかった。
――だが、その安寧は長くは続かなかった。
ふと、周囲の空気が粘り気を帯びたように重くなった。
淡い光を放っていた結晶群が、一斉に明滅を始め、不自然な黒い影が地面を這うように伸びていく。
ラヴィーネは反射的に身を固くした。空気が冷たくなったのではない。空間そのものが『悪意』によって歪められ、大気中の魔力素が悲鳴を上げているのだ。
『――クク、妙な魔力の波長を感じたと思えば。極上の餌が自ら転がり込んできたか』
鼓膜を通さず、直接脳内に響く粘着質な声。神殿の瓦礫の影から、空間を陽炎のように揺らめかせながら『それ』は現れた。
人型ではあるが、肉体を持たない。純粋な魔力と空間の歪みが凝縮してできたような、漆黒の輪郭。廃都ルミナリアを支配する上位魔族、『断界の眷属』の一体だった。
その顔に相当する部分には、三日月型に裂けた赤い口だけが浮かんでいる。
『十年間、国境の結界の要として蓄積された濃密な脈理の匂い……。しかも、自ら結界を飛び出してきたとは、なんと愚かな小娘だ』
魔族の姿を見た瞬間、ラヴィーネの体から一気に血の気が引いた。
彼女は十年間の大半を塔の中で過ごしてきたため、実戦経験はない。しかし、相手が放つ圧倒的な力のスケールは本能で理解できた。
ただそこに存在するだけで、周囲の空間がひび割れ、結晶の破片が重力を無視して宙に浮き上がっている。黒曜の砦にいた数百の精鋭が束になっても、手傷一つ負わせられない次元の化け物だ。
「ヴィ、ヴィデ……っ! 起きて……!」
ラヴィーネは恐怖で喉を痙攣させながら、隣で眠る青年を揺すろうとした。
『遅い。その芳醇な魂、我が虚数空間にて永遠に啜り尽くしてくれよう!』
魔族が腕らしきものを振り上げた。
瞬間、ラヴィーネの周囲の空間そのものが、巨大な顎に噛み砕かれるように『圧縮』され始めた。
逃げ場などない。物理的な防御も魔術的な障壁も、空間そのものを潰されては無意味だ。上下左右が圧縮され、見えない壁が彼女の体をミンチにすべく迫りくる。
死ぬ。そう覚悟して、ラヴィーネが目を強く閉じた、その時だった。
「……だから、うるさいと言っているだろう」
寝起きの、ひどく不機嫌な声がすぐ耳元で響いた。
圧縮されかけていた空間の歪みが、ピタリと停止した。
ラヴィーネが恐る恐る目を開けると、いつの間にか起き上がっていたヴィデが、片膝を立てた状態で彼女のすぐ横に座っていた。
彼は、ラヴィーネを押し潰そうとしていた『見えない空間の壁』を、まるで見えないカーテンの布地でも触るかのように、指先でつまんでいた。
「空間の端を雑に引っ張るから、ここら一帯に深い皺が寄っている。俺は今、平らな場所で寝ていたんだ。勝手に地面を波打たせるな」
『な、に……? 貴様、何をした? 我が断界の術式を、力ずくで止めたとでもいうのか!?』
魔族の脳内音声に、初めて明確な『驚愕』が混じった。
無理もない。空間魔術は力で押さえ込めるものではない。しかしヴィデは、ただ指で空間をつまんでいるだけだ。魔力を放出している気配すら一切ない。
「止めてなどいない。ただ、布の皺を伸ばすだけだ」
ヴィデは酷薄なまでに関心のない瞳で魔族を一瞥すると、つまんでいた空間の歪みを、パンッ、と軽く両手で引いて『伸ばした』。
直後、世界が鳴動した。否、鳴動したかのように錯覚するほど、周囲の空間が強引に本来の形へと引き戻されたのだ。
ピシィィィッ! という硝子が割れるような音と共に、魔族が展開していた圧縮空間が、何事もなかったかのように平滑な状態へと復元される。だが、事象の強制的な修復はそれだけでは終わらなかった。
『ガ……ァァァッ!? 馬鹿な、空間の位相が、私ごと、元の次元に縫い付けられ……ア、アアアァァッ!』
魔族の黒い影の体が、激しく明滅し始めた。
空間を歪めることで存在を維持していたその魔族にとって、周囲の空間を完全に『平坦で真っ直ぐな状態』に固定されてしまうことは、自らの存在基盤そのものを解体されることに等しかった。
歪みを武器としていた者が、一切の歪みを許さない絶対的な平穏の前に、為す術もなく自己崩壊を起こしていく。
悲鳴はすぐに途絶えた。魔族の体は細かい魔力素の粒子となり、陽の光に溶けるように、あっという間に霧散して消滅した。
後に残ったのは、淡く光る結晶の廃都と、完全な静寂だけだった。
「……え?」
ラヴィーネは、目前で起きたあまりにも呆気ない幕切れに、ただ口を半開きにして呆然とするしかなかった。
世界を恐怖に陥れるはずの上位魔族が。たったの一手で、指先を数センチ動かしただけの青年の手によって、事象ごと『なかったこと』にされてしまったのだ。
「まったく。これだから人間以外の魔力塊は嫌いなんだ。力任せに空間を荒らすから、後始末が面倒になる」
ヴィデは忌々しそうに手を払うと、再び大きな欠伸をした。
そして、まだ恐怖で微かに肩を震わせているラヴィーネの方を向き、少しだけ眉をひそめた。
「君もだ。すぐに体を強張らせて、見えない糸を絡ませる。隣でそんなにガチャガチャと糸を張られていたら、気になって眠れないだろう」
「あ……ごめ、なさい……」
ラヴィーネが反射的に謝ると、ヴィデは呆れたように小さく息を吐いた。
彼は無造作に手を伸ばし、彼女の銀色の髪を、まるで絡まった糸を梳くように、不器用に数回撫でた。
「謝るな。俺が勝手に連れてきたんだ。……まあ、少し待っていろ。もう少し俺が空間を『均して』おいてやる。そうすれば、こんな虫けらどもは二度と寄り付かなくなる」
ヴィデはそう言うと、立ち上がって廃都の奥へと歩き出そうとした。
その背中を見つめながら、ラヴィーネの胸の奥で、先程までの恐怖とは全く違う理由で鼓動が跳ねた。
彼は、「気になって眠れないから」という理由をつけて、彼女が恐怖を感じない環境を作ろうとしてくれているのだ。
それは、十年間見捨てられてきた彼女にとって、初めて与えられた不器用な庇護だった。
「ヴィデ……!」
ラヴィーネは思わず彼を呼び止めた。
ヴィデが振り返る。
「……ありがとうございます」
それは、公女としての礼ではなく、一人の少女としての純粋な感謝だった。
ヴィデは数秒ほど瞬きをした後、「面倒な奴だ」とだけ呟き、背中を向けたまま右手を軽く振った。
廃都の結晶が、二人の周りだけ、ひときわ暖かく穏やかな光を放ち始めていた。




