第5話 温かいスープと、救済の拒絶
黒曜の砦の食堂は、普段であれば屈強な兵士たちの熱気と喧騒に包まれている場所だ。しかし現在、そこは奇妙な静けさに支配されていた。
長机の端に座る一組の男女を、砦の守備隊長をはじめとする数十名の兵士たちが、まるで腫れ物に触れるかのように遠巻きに見守っている。誰も口を開かず、ただ息を潜めて事の成り行きを見守っていた。
「……ふむ」
静寂を破ったのは、青年――ヴィデがスプーンを皿に置く、カチャリという小さな音だった。
彼は満足げに息をつき、空になった三つ目の木の実のシチューの器を、すでに山積みになっている空の器の横へ乱雑に押しやった。兵士三日分に相当する砦の保存食が、彼の胃袋へと消えたところだ。
「味はともかく、腹は膨れた。悪くない」
「あの……足りなければ、まだ……」
ヴィデの隣に座るラヴィーネ・イル・フェルマータは、恐縮しきった様子で声をかけた。
彼女の前にも温かいスープが置かれていたが、一口二口啜っただけで手が止まっている。十年間、まともな食事を摂っていなかった胃が、まだ急激な栄養の摂取に追いついていないのだ。それでも、体の中に広がる温かな熱は、彼女が確かに生きているという事実を力強く実感させてくれた。
ヴィデはラヴィーネの残したスープを一瞥したが、首を横に振った。
「いや、満腹だ。これ以上食うと眠くなる。……いや、眠りたいからちょうどいいか」
彼はそう言って、無造作に大きな欠伸をした。
その緊張感のなさに、遠巻きに見ていた隊長がついにたまらず歩みみ寄り、膝をついた。
「ら、ラヴィーネ様……。お食事が済んだのであれば、どうか、どうか状況のご説明を……! なぜ、絶対防衛線である『絶凍の塔』から出られたのですか!? そして、結界は……『宵の防壁』はどうなったのですか!」
隊長の悲痛な叫びが、食堂に響き渡った。
ラヴィーネはビクッと肩を震わせ、膝の上で両手を強く握りしめた。公女としての責務が、再び彼女の細い肩に重くのしかかる。
彼女はゆっくりと顔を上げ、隊長と、その背後で不安げにこちらを見つめる兵士たちを見据えた。
「……結界は、消失しました」
「なっ……!?」
隊長の顔から一瞬にして血の気が引き、周囲の兵士たちからも絶望のどよめきが上がった。
無理もない。防壁の消失は、そのまま国境から瘴気と魔物が雪崩れ込んでくることを意味する。砦の兵士たちにとって、それは死の宣告と同義だった。
「ですが、恐れることはありません。……瘴気も、白蝕の群れも、今は侵攻してきていません」
「そ、それは……どういうことですか? 結界がないのに、なぜ魔物が……」
「それは……」
ラヴィーネはちらりと隣のヴィデを見た。
彼は肘をついてぼんやりと天井を眺めており、全く話を聞いている様子がない。
「この方が……全て、消し去ってくれたからです。私の体を縛っていた術式も、塔を覆い尽くそうとしていた白蝕の群れも……空間ごと」
ラヴィーネの言葉に、食堂は再び水を打ったような静けさに包まれた。
隊長は信じられないものを見るような目で、ヴィデを凝視した。
武装した数百の兵士を瞬時に無力化し、塔から砦までの距離を『空間を畳んで』一歩で踏破した規格外の存在。その男が、結界すらも容易く解き放ち、瘴気を退けたというのか。
「おお……」
隊長は震える声で呻き、ヴィデに向かって深々と平伏した。
「失礼をばお許しください! 貴方様は、もしや伝説に聞く『神和の賢者』様でいらっしゃいますか! それとも、天の使いか……! どうか、どうかこの国をお救いください! 結界を失った今、我が国は風前の灯火……貴方様のその神の如きお力があれば、魔王軍すら退けることができましょう!」
隊長の懇願に合わせるように、周囲の兵士たちも次々と膝をつき、祈るようにヴィデに頭を下げた。
彼らは絶望の淵で、一筋の蜘蛛の糸にすがるように、ヴィデの規格外の力に国の運命を託そうとしていた。
ラヴィーネもまた、息を呑んでヴィデの横顔を見つめた。もし、彼がこの国を助けてくれるなら。もう二度と、誰かが塔に縛り付けられ、孤独に死を待つような悲劇は起こらないかもしれない。
しかし、ヴィデは、平伏する兵士たちを極めて冷ややかな――というより、心の底から面倒くさそうな目で見下ろした。
「断る」
冷徹な一言が、食堂の空気を凍りつかせた。
「な……ぜ、ですか……。貴方様のお力があれば……」
「なぜ、俺が赤の他人の国を救わなきゃならないんだ。そんな面倒なこと、御免だ」
「で、ですが! このままでは罪なき民が――」
「知るか」
ヴィデは隊長の言葉を冷たく遮った。
「俺は、ただ静かに昼寝がしたいだけだ。塔が静かそうだったから行ったのに、隙間風がうるさいから直した。ここは飯があるから来た。それだけだ」
「そ、そんな……」
「国が滅びようが、魔物が溢れようが、俺の知ったことじゃない。俺の安眠を妨げない限り、世界がどうなろうと興味はないんだ」
その言葉には、一切の悪意も、逆に正義感もなかった。ただ純粋に『自分には関係ない』という、圧倒的なまでの他者への無関心。神々の牢獄という極限環境を生き抜いてきた彼にとって、俗世の危機など、文字通り『アリの巣が水没する』程度の事象でしかないのだ。
隊長は絶望に顔を歪め、兵士たちは言葉を失ってうなだれた。
ラヴィーネは、胸の奥がチクリと痛むのを感じた。
彼は国を救う英雄ではない。ただ、気まぐれに自分の鎖を解いただけの、圧倒的な『異物』なのだ。
それでも……
彼が自分を軽々と抱き上げ、冷たい床から救い出してくれたあの温もりを、彼女は忘れることができなかった。
「……ヴィデ」
ラヴィーネは、消え入りそうな声で彼を呼んだ。
「あなたは……どこへ、行くのですか?」
「さあな。とりあえず、この騒々しい連中がいない、もっと静かで日の当たる場所を探すさ」
「……」
彼が去ってしまえば、自分は再び公女として、この国と運命を共にしなければならない。いや、それは本来の自分の責務だ。彼にすがるのは間違っている。しかし、十年間氷の塔に縛られ、ようやく取り戻した『生者の温もり』を、彼女はどうしても手放したくなかった。
「……私も」
ラヴィーネは、自分でも驚くほどはっきりとした声で言った。
「私も、連れて行っては、くれませんか」
「公女殿下!?」
隊長が驚愕の声を上げるが、ラヴィーネは彼を見ようともせず、ただヴィデの漆黒の瞳を見つめ返した。
「私はもう、あんな冷たい場所には戻りたくありません。……あなたがいれば、私は……息が、できる気がするのです」
それは、国を捨てるという重大な決断であり、同時に、一人の少女としての初めての我儘だった。
ヴィデは少し驚いたように目を丸くしたが、やがて呆れたようにため息をついた。
「勝手にしろ。だが、俺は歩くのは嫌いだぞ」
「はい……」
ラヴィーネの頬に、微かな赤みが差した。
英雄ではない、規格外で身勝手な男。しかし、その圧倒的な無関心の中に、彼女は自分だけが許された特別な『居場所』を見出したのだった。




