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《完結》事象を解く者は、ただ静かに眠りたい ~絶対零度の公女と歩む、箱庭スローライフ~  作者: ひより那
眠りの美女

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第3話 凍てつく足と、空間の短絡

 石造りの塔の最上階に、再び完全な静寂が戻っていた。

 結界を維持するための魔力炉の轟音もなく、外気を震わせていた猛吹雪の咆哮もない。ただ、天窓から差し込む淡い光が、床に転がる青年――ヴィデの寝顔を照らしているだけだった。


 ラヴィーネ・イル・フェルマータは、壁を背にして座り込んだまま、一睡もできずに夜明けを迎えていた。

 彼女の頭の中は、処理しきれない情報の濁流に呑み込まれていた。

 十年間、自身の命を削り続けて維持してきた『宵の防壁』が、見ず知らずの男の指先一つで解除されたこと。

 結界消失の余波で押し寄せてきた致死の瘴気と『白蝕』の群れが、彼が空間に触れただけで、事象ごと『なかったこと』にされたこと。

 そして何より、国家の存亡を揺るがすその異常事態を引き起こした張本人が、自らの行いを「昼寝の邪魔だったから」という理由だけで片付け、今もなお呑気に寝息を立てていること。

 どれ一つとして、宵の玻璃国(ヴィルカテーナ)における魔術の常識、いや、この世界の物理法則にすら合致しない。


(私は、夢を見ているのかしら……)


 氷のように冷たかった自分の両手を、ゆっくりと胸の前で握り合わせる。

 トクン、トクンと、微かに、しかし確かに脈打つ鼓動。皮膚の下を流れる血液の温かさ。それは紛れもない現実だった。ラヴィーネは生きている。死を待つだけの凍りついた時間は終わり、再び生者の時間が動き出しているのだ。

 しかし、喜びに浸る余裕はなかった。結界が消滅したという事実は、早急に王都へ、あるいは最寄りの防衛拠点である『黒曜こくようの砦』へ報告しなければならない。あの青年が塔の周囲の空間をどうにかしたおかげで今は安全だが、国境線全体がどうなっているかは未知数なのだ。


「……行か、ないと」


 ラヴィーネは乾いた唇を動かし、壁に手をついて立ち上がろうとした。

 だが、十年間にわたって脈理みゃくりを搾取され、術式の中心に縫い付けられていた肉体は、彼女の意志を無情にも裏切った。

 膝に全く力が入らない。立ち上がろうとした瞬間に視界が激しく揺れ、平衡感覚が消失する。


「あっ……」


 短い悲鳴とともに、彼女は再び冷たい石の床へと崩れ落ちた。痛みよりも、己の無力さに対する情けなさが胸を突く。

 これでは、塔の階段を下りることすら不可能だ。ましてや、猛吹雪の雪原を越えて砦まで辿り着くなど、夢のまた夢である。


「……腹が、減った」


 唐突に、間の抜けた声が広間に響いた。

 ビクッと肩を震わせて振り向くと、ヴィデが寝転がったまま、ゆっくりと体を起こしているところだった。

 彼は大きく欠伸をし、乱れた黒髪を無造作に掻き毟る。


「よく寝た。ここは静かでいいが、床が硬いのと、食い物がないのが難点だな」

「あ……あの……」

「ん?」


 ヴィデの漆黒の瞳が、床に這いつくばるようにして倒れているラヴィーネを捉えた。

 彼は不思議そうに首を傾げ、ゆっくりと立ち上がって彼女のもとへ歩み寄ってくる。


「何をしている。そんなところで寝転がっていては、体が冷えるぞ。さっき結び目を解いてやったばかりだというのに」

「ちが、います……立ち上がろうと、したのですが……足に、力が……」


 ラヴィーネは恥辱に頬を染めながら、消え入るような声で答えた。『凍霞の公女』として、常に毅然とした態度を求められてきた彼女にとって、他者の前でこれほど無様な姿を晒すのは初めてのことだった。

 ヴィデはしばらく彼女の足元を見つめていたが、やがて「ふむ」と短く呟いた。


「長いこと同じ姿勢で縛られていたからな。血の巡りが悪くなっているんだろう。無理に動かさない方がいい」

「ですが……私は、この状況を、急いで報告に行かなければ……」

「報告? 誰にだ」

「最寄りの、『黒曜の砦』にいる守備隊長へ……結界が消失したことと、あなたのことを……」


 ヴィデは少し面倒くさそうに頭を掻いた。


「俺のことはどうでもいいが。……その砦とやらには、温かい飯はあるのか?」

「え……? は、はい。兵士たちの駐屯地ですから、食堂は……」

「そうか。なら、そこへ行こう。ここにはこれ以上いても腹が減るだけだ」


 ヴィデはそう言うと、ラヴィーネの前にしゃがみ込んだ。そして、何の前触れもなく、彼女の背中と膝の裏に両腕を差し入れた。


「えっ……?」


 ふわり、と。

 ラヴィーネの体が、重力を忘れたかのように軽々と持ち上げられた。

 彼女は思わず息を呑み、ヴィデの首に腕を回してしがみついた。

 それは、いわゆる『お姫様抱っこ』と呼ばれる姿勢だった。しかし、ヴィデの表情には下心や照れは一切なく、まるで少し大きめの荷物を持ち上げただけの、極めて平坦なものだった。


 だが、ラヴィーネにとっては違った。


(温かい……)


 厚手の外套越しに伝わってくる、確かな体温。耳元で聞こえる、規則正しい彼の心音。十年間、誰の肌にも触れることなく、絶対零度の孤独の中で死を待っていた彼女にとって、他者の温もりはあまりにも刺激が強すぎた。

 顔がカッと熱くなるのがわかる。心臓が、先程までの衰弱が嘘のように激しく早鐘を打ち始めた。


「あ、あの……下ろして、ください……私、自分で……」

「歩けないと言ったのは君だろう。それに、ここで君を置いていったら、俺は飯のありかがわからない」


 ヴィデは一切取り合うことなく、ラヴィーネを抱き抱えたまま、塔の階段へと向かって歩き出した。


「でも、これでは……あなたが、重いのでは……」

「重い? 君が?」


 ヴィデは不思議そうな顔でラヴィーネを見下ろした。


「羽虫より軽いな。もっとしっかり飯を食った方がいい。糸が細すぎて、ちょっとした風で切れそうだ」


 デリカシーの欠片もない言葉だったが、その声の響きには、不思議と相手を安心させる絶対的な平穏が含まれていた。

 ラヴィーネは反論する言葉を見つけられず、ただ彼の胸に顔を埋めるようにして身を縮めた。


 塔の螺旋階段を、ヴィデは全く足音を立てずに下っていく。やがて、分厚い鉄製の扉が立ち塞がった。塔の出口だ。

 ラヴィーネが扉の開け方を説明しようとした瞬間、ヴィデは扉の取っ手に向かって無造作に指を弾いた。

 パチン、という小さな音とともに、何重にも施されていたはずの物理的な錠と魔術的な封印が、まるで初めから存在しなかったかのように消滅し、重厚な扉が音もなく開け放たれた。


 扉の向こうには、一面の銀世界が広がっていた。

 猛吹雪は止んでいる。鉛色の雲の隙間から、薄日が雪原を照らしていた。しかし、ここは極北の辺境だ。いくら吹雪が止んでいても、最寄りの『黒曜の砦』までは、健脚の軍馬を飛ばしても丸二日はかかる距離がある。


「あの……ヴィデ」

「なんだ」

「ここから砦までは、とても遠いのです。歩いていける距離では……」

「歩く? 誰が?」


 ヴィデは、ラヴィーネの言葉を遮るように言った。そして、雪原の遥か彼方、砦があるであろう南の空を見つめた。


「歩くなんて面倒なこと、俺がするわけないだろう」


 彼はラヴィーネを抱いたまま、空いている右手を軽く前に突き出した。

 そして、見えない空間の『布』を掴むような仕草をすると、それを手前に向かって一気にたぐり寄せた。


 グンッ、と。

 ラヴィーネの三半規管が、経験したことのない異常な捻れを訴えた。

 景色が、文字通り『折り畳まれた』のだ。

 遠くに見えていた雪山が、目の前の平原が、そして空間そのものが、ヴィデの手によってアコーディオンのように圧縮され、強引に短絡された。

 視界が一瞬だけ極彩色に歪み、次の瞬間、周囲の景色が全く別のものにすり替わっていた。


「……え?」


 雪原は消えていた。

 代わりに目の前にそびえ立っていたのは、黒く鈍い光を放つ巨大な石造りの城壁だった。

 門の前に立つ、重武装の兵士たちが、突然目の前に現れた男女を見て、目を剥いて硬直している。


「着いたな。ここがその砦だろう。立派な門だ、食堂の期待値も上がる」


 ヴィデは、兵士たちの驚愕など全く気にする様子もなく、のんびりとした声で言った。

 馬で二日かかる距離を、空間を畳むことで『一歩』で踏破してしまったのだ。転移魔術ですらない。距離という概念そのものを破壊する、神の御業に等しい暴挙。

 ラヴィーネは、彼の腕の中で完全に言葉を失っていた。しかし、恐怖はなかった。彼女の常識を次々と木端微塵に砕いていくこの青年が、どうしようもなく理不尽で、そして、どうしようもなく『温かい』という事実だけが、彼女の心に深く、静かに刻み込まれようとしていた。


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