第2話 白蝕の襲来と、安眠のための整頓
静かだった。
塔の最上階を支配していた、魔力炉の重低音と、術式が脈理を啜り上げる耳障りな音が消え失せている。
代わりに聞こえてくるのは、冷たい石の床にごろりと横たわった青年――ヴィデと名乗った男の、規則正しく穏やかな寝息だけだった。
ラヴィーネ・イル・フェルマータは、床にへたり込んだまま、震える両手を見つめていた。
透き通るほど青白かった皮膚の下に、微かな赤みが戻ってきている。指先が、何万本もの見えない針で刺されているかのようにピリピリと痛んだ。それは、長年凍りついていた血液が巡り始めた証であり、彼女が間違いなく『生きている』という証明だった。
鎖は消えた。彼女を十年もの間、この円形の広間に縛り付けていた絶対の呪縛は、青年の指先一つで文字通り解け去ってしまったのだ。
「あ……ぁ……」
掠れた声が漏れた。
喜びではない。安堵でもない。ラヴィーネの胸を埋め尽くしていたのは、純粋な恐怖と絶望だった。
彼女が解放されたということは、国境を覆っていた巨大な結界『宵の防壁』が消滅したことを意味する。
この『絶凍の塔』の向こう側には、生命を根絶やしにする絶対零度の瘴気と、それに群がる界外の化け物たちが蠢いているのだ。防壁がなければ、数時間も経たずに瘴気は南下し、宵の玻璃国の防衛都市は死の灰に沈む。
国が滅びる。私の命が途絶えたことで。いや、途絶えてはいない。理不尽なまでに唐突に、生きながらえてしまったからこそ、最悪の事態を引き起こしてしまったのだ。
「直さなきゃ……」
ラヴィーネは這いつくばるようにして、先程まで自分が縫い付けられていた床の模様に手を伸ばした。
自らの脈理を強制的に引きずり出し、もう一度術式を起動させなければならない。それが『凍霞の公女』に課せられた、死よりも重い責務なのだから。
だが、床の石材には何の痕跡も残っていなかった。術式が破壊されたわけではない。削り取られたわけでもない。ただ、初めからそこに何も描かれていなかったかのように、魔力の残滓すら完全に消え失せているのだ。
直す術がない。事象そのものが『なかったこと』にされている。
「そんな……嘘、でしょう……?」
絶望に打ちひしがれるラヴィーネの耳に、異音が届いた。
ミシ、ミシィッ……! 分厚い石造りの壁が、悲鳴のような軋み音を上げた。
ラヴィーネは弾かれたように顔を上げる。広間の高い位置にある天窓、その分厚い氷晶ガラスの向こう側が、異常な闇に覆われ始めていた。
猛吹雪の白に混じって、墨を流したような黒い染みが蠢いている。それは『白蝕』と呼ばれる半精神体だった。瘴気の中で生まれ、生命の熱と魔力を喰らう存在。結界という蓋が外れたことで、塔内に残るラヴィーネの微かな熱に引き寄せられてきたのだ。
ギギギ……パキッ! 氷晶ガラスに亀裂が走る。
何百、何千という白蝕の群れが、ガラスの向こう側にへばりつき、物理的な圧力をかけて塔内に侵入しようとしているのだ。ガラスが割れれば、致死量の瘴気と化け物の群れが雪崩れ込んでくる。
ラヴィーネは立ち上がろうとしたが、長年魔力を搾取され続けていた足は言うことを聞かず、無様に床に転がった。
終わる。国境が破られる。
恐怖で呼吸が浅くなる中、彼女は反射的に、無防備に眠りこけている青年へと視線を向けた。
「逃げ、て……!」
喉から血が出るほどの声で叫んだ。彼が何者であれ、結界を解いた張本人であれ、このままでは瘴気に呑まれて肉塊にすらなれずに消滅する。
その叫び声と、ガラスが砕ける直前の鋭い軋み音が重なった瞬間。ヴィデのまぶたが、ゆっくりと開かれた。
「……うるさいな」
彼はゆっくりと体を起こし、面倒くさそうに首を鳴らした。
恐怖も、焦りも一切ない。ただ、心地よい昼寝を邪魔されたことへの、純粋な不満だけがその漆黒の瞳に浮かんでいた。
ヴィデは立ち上がり、ひび割れ、今にも崩壊しそうな天窓へと歩き出す。
「だめっ、近づかないで! それは『白蝕』……命を喰らう澱みです! 触れれば塵も残らず――」
「隙間風が酷いと思ったら」
ラヴィーネの必死の警告は、完全に無視された。
ヴィデは天窓のすぐ下まで歩み寄ると、亀裂の入ったガラスではなく、その手前の『空間』に向かって、無造作に右手を伸ばした。
「空間の縁が、ひどくささくれているじゃないか。これじゃあ外の喧騒が入ってくるわけだ」
彼が何を言っているのか、ラヴィーネには理解できなかった。
ヴィデの指先が、何もない空中に触れる。
次の瞬間、彼の指先が空間そのものを『摘み』、そして、皺を伸ばすようにスッと横に引いた。
ピタ、と。
本当に、ただそれだけの音だった。
直前まで塔を揺るがしていた軋み音も、ガラスを叩き割ろうとしていた白蝕の群れの圧力も、全てが嘘のように消え去った。
ラヴィーネは、目を見開いたまま息を止めた。
割れかけていた氷晶ガラスの亀裂が消えている。それどころか、窓の外に蠢いていた無数の黒い染み――白蝕の群れが、文字通り『一瞬で拭き取られた』ように消滅していた。
魔力による迎撃ではない。熱で焼き払ったわけでも、風で吹き飛ばしたわけでもない。
空間の歪みという『解れ』を直したことで、そこに群がっていた異物が、事象の修復に巻き込まれて平滑にならされてしまったのだ。存在そのものを、空間ごと固定されたかのように。
窓の外の猛吹雪すら、塔の周囲数十メートルの範囲だけ、不自然なほどピタリと止んでいた。
「ふむ」
ヴィデは自分の指先を見つめ、満足げに一つ頷いた。
「これでいい。静かな方が、よく眠れる」
彼はクルリと振り返ると、再び先程まで寝ていた床の定位置へと戻っていく。そして、まだ呆然とへたり込んでいるラヴィーネを一瞥した。
「ほら、君も。そんなところで固まっていないで、休むといい。糸が張り詰めていると、つまらないところで切れるぞ」
彼は大きな欠伸を一つすると、外套に包まるようにして再び目を閉じた。数秒も経たないうちに、再び規則正しい寝息が広間に響き始める。
ラヴィーネは、声を発することすらできなかった。
国家の存亡を懸けた絶望も、命を喰らう化け物の脅威も。
この青年の前では、全てが『安眠を妨げる隙間風』と同程度の事象でしかなかったのだ。
彼女が十年間、死の恐怖と隣り合わせで守り続けてきたものは、一体何だったのか。
静寂を取り戻した塔の中で、ラヴィーネはただただ、不可解で、恐ろしく、そしてひどく温かいこの青年の寝顔を、見つめ続けることしかできなかった。




