第1話 氷塔の孤独と、ほどける吹雪
極北の果て、宵の玻璃国の国境線を守護する『絶凍の塔』は、一年を通じて猛吹雪に晒され続けている。
白く濁った空からは氷の粒が刃のように降り注ぎ、分厚い石造りの壁を容赦なく叩きつけていた。塔の内部にまで入り込む冷気は、ただの自然現象ではない。それは国境の外側に広がる死の領域から漏れ出す、濃密な瘴気と混ざり合った死の息吹だった。
その最上階、円形の広間の中心に、ラヴィーネ・イル・フェルマータは静かに座していた。
彼女の細い体は、床に描かれた複雑な術式の中心に縫い付けられている。いや、比喩ではない。術式から伸びる青白い光の糸が、彼女の四肢から胸の中心に向かって、物理的な鎖のように絡みついていた。
『凍霞の公女』。
それが、ラヴィーネに与えられた称号であり、同時に呪いの名でもあった。彼女は自身の生命力と引き換えに、国家を外敵と瘴気から守る不可視の防壁を維持し続けている。心臓が一度拍動するたびに、体内の脈理がごっそりと引き剥がされ、塔の魔力炉へと注ぎ込まれていく。
痛覚はとうの昔に麻痺していた。残っているのは、指先から徐々に這い上がってくる、存在そのものが凍りついていくような喪失感だけだ。
ここには誰も来ない。来るはずがない。
結界の中心たるこの塔は、あらゆる生命を拒絶する絶対の領域だ。鳥一羽、虫一匹すら近づくことはできない。彼女はただ一人、国のために命を擦り減らし、静かに干からびて死んでいく運命を受け入れていた。
(あと数ヶ月……いや、数週間もてば良い方かしら)
薄氷のように透き通った銀色の髪が、かすかな隙間風に揺れる。青ざめた唇から漏れた吐息は、空気に触れた瞬間に霜となって床に落ちた。
ラヴィーネはゆっくりと目を閉じた。視界を閉ざし、ただ己の命が削られていく微かな音に耳を澄ませる。それが彼女の日常であり、世界の全てだった。
――しかし、その絶対の静寂は、いとも容易く破られた。
カツ、という乾いた足音が、広間の入り口から響いた。
ラヴィーネは弾かれたように目を見開いた。幻聴ではない。確かに、石の床を硬い靴底が叩く音がしたのだ。
あり得ない。この塔の入り口には、彼女自身の命を触媒とした幾重もの封印が施されている。それを破るには、国家を一つ滅ぼすほどの魔力が必要なはずだった。
視線を向けた先、広間へと続く重厚な扉が、音もなく開いていた。
そこに立っていたのは、一人の青年だった。年齢は二十代半ばほどだろうか。煤けた灰色の外套を羽織り、髪は夜の闇を切り取ったように黒い。特徴的なのはその瞳だ。深い虚無を湛えたような、あるいは全てを見透かしているような、底知れぬ静けさを持つ漆黒の双眸。
彼は、猛吹雪の外からやってきたというのに、外套に一片の雪すら乗せていなかった。息を乱すこともなく、まるでよく晴れた日の昼下がりに、近所の公園を散歩してきたかのような足取りだった。
青年は広間を見渡し、術式の中心に囚われているラヴィーネを一瞥した。
「……誰、ですか」
長年声を出していなかったため、ラヴィーネの喉から絞り出された声は、ひどく掠れて震えていた。
敵国の暗殺者だろうか。それとも、瘴気の中から生まれた新種の魔物だろうか。しかし、彼からは一切の魔力も、殺気も、敵意すらも感じられない。ただそこに『在る』だけだ。
「ん」
青年は短く応え、ゆっくりと広間の中へ歩みを進めた。
彼が一歩を踏み出すたびに、ラヴィーネは信じられない光景を目にした。
青年の足先が術式の光の糸に触れる。その瞬間、強固なはずの魔力の結び目が、まるで陽の光に当てられた雪のように、ふわりと解けて消滅したのだ。
抵抗も、反発もない。ただ、彼が歩く道筋にある全ての魔術が、意味を失って霧散していく。
「な……っ」
ラヴィーネは息を呑んだ。
それは破壊ではない。無効化でもない。もっと根本的な、事象そのものを『なかったこと』にするような、理解の範疇を超えた現象だった。
青年――ヴィデは、ラヴィーネの驚愕など全く気にする様子もなく、彼女の数歩手前で立ち止まった。そして、大きく背伸びをすると、天井の天窓から微かに差し込む光を見上げた。
「ここは、いいな」
ヴィデはぽつりと呟いた。
「風は入ってこないし、石の床もひんやりして心地いい。なにより、あの面倒な吹雪の音が聞こえない。昼寝には最高の場所だ」
「な、なにを……言っているのですか……? ここは、宵の玻璃国の絶対防衛線……」
「そうなのか? 俺には、ただの古い塔に見えるが」
ヴィデは視線をラヴィーネに戻した。彼の漆黒の瞳が、彼女の体を縛り付けている青白い光の鎖を捉える。
その目には、憐憫も、驚きも、好奇心すらもなかった。ただ、道端に落ちている石ころを見るような、極めて平坦な視線。
「それよりも、君」
「……はい」
「それ、ひどく絡まっているな。見ていて息苦しい」
ヴィデはそう言うと、無造作に手を伸ばした。
ラヴィーネの心臓が跳ねた。その光の鎖は、彼女の命そのものだ。下手に触れれば、術式が暴走し、彼女の体ごと爆け散る危険がある。
「触らないで! それは、私の命と引き換えに――」
制止の言葉は、最後まで紡がれなかった。
ヴィデの指先が、ラヴィーネの胸元に繋がっている最も太い光の鎖に、ほんの少しだけ触れた。
パチン、と。小さな、本当に小さな音がした。
それは、固結びになっていた糸が解けるような、ささやかな音だった。
直後、ラヴィーネの全身を縛り付けていた術式が、音もなく崩壊した。
光の糸がほどけ、細かい魔力素の粒子となって空気中に溶けていく。塔全体を震わせていた魔力炉の稼働音が、ふっと途絶えた。
ラヴィーネは目を見開いたまま、硬直した。何が起きたのか、理解できなかった。
国定の最高位魔術師たちが、何年もかけて編み上げた絶対の呪縛。彼女が十年間、一瞬の隙もなく命を注ぎ込み続けてきた宿命の鎖。それが、この見ず知らずの青年の指先一つで、ただ『解かれた』のだ。
「……え?」
体の中から、絶え間なく流出していた脈理の喪失感が消えた。
代わりに、何年も忘れていた自身の心臓の鼓動が、トクン、トクンと力強く胸を叩き始める。凍りついていた指先に、温かい血が巡っていくのがわかった。
呪縛から解放された体が、重力に従って前へと傾く。
「おっと」
倒れ込むラヴィーネの体を、ヴィデが片腕で軽く受け止めた。
彼の体温は、氷のように冷え切っていたラヴィーネにとって、火傷しそうなほど暖かかった。
「……あ……」
「ひどい結び目だったな。誰がやったか知らないが、あれじゃあ肩が凝って仕方ないだろう。少しは楽になったか?」
ヴィデは、まるで絡まったネックレスを直してやったかのような、ごく当たり前の口調で言った。
ラヴィーネは、彼の腕の中で呆然と彼を見上げた。
世界を救うためでも、国を守るためでもない。ただ「見ていて息苦しいから」という理由だけで、彼は彼女の絶望を消し去ってしまったのだ。
「さて」
ヴィデはラヴィーネをそっと床に座らせると、近くの壁際に歩いていき、そこにごろりと横になった。
「俺は少し眠る。ここは静かでいい。君も、無理に糸を張る必要はない。しばらく休むといい」
「ま、待って……あなたは、一体……」
「ヴィデ。ただの、通りすがりの昼寝好きだ」
それだけ言い残すと、彼は本当に目を閉じ、規則正しい寝息を立て始めた。
塔の外では、相変わらず猛吹雪が吹き荒れている。しかし、ラヴィーネの周囲だけは、嘘のように穏やかな静寂が広がっていた。
止まっていた彼女の時間が、この不可解な青年の登場によって、静かに、しかし確実に動き始めていた。




