第26話 星霜の箱庭と、究極の平穏
並行世界での大魔王と勇者の死闘を『隣の部屋の騒音』として強制終了させてから、どれだけの年月が流れただろうか。
世界の理から完全に切り離され、時の流れすら固定された『天空の庭園アルカディア』において、時間の経過を正確に測る術はない。しかし、回廊に並ぶ三つの石の扉の向こう側――ヴィデが純白の虚無を編み直して創り上げた「新世界」においては、確かな時の流れと、途方もない生命の進化が起きていた。
かつて分かたれていた海、森、空の三つの空間は、いつしか境界を越えて交わり合い、巨大で広大な一つの『大陸』を形成していた。
透き通る海から生まれた星海月たちは、長い時間をかけて知性を獲得し、美しい半透明の肌を持つ水棲の民へと進化を遂げた。
純白の鹿は森の賢者として多様な獣たちを束ね、豊かな緑と共生する森の文明を築き上げた。
そして、空で生まれた有翼の精霊たちは、雲海の上に壮麗な天空都市を建設し、高度な知的生命体として世界全体の調和を司る存在となっていた。
旧世界の歴史を知る者が見れば、異なる種族がこれほどまでに繁栄すれば、いずれ領土や資源を巡って血で血を洗う凄惨な戦争が起きると予想するだろう。しかし、この新世界において、争いという概念は文字通り『存在しなかった』。
なぜなら、この世界の根底には、創造主であるヴィデが刻み込んだ「三つの絶対法則」が物理法則以上に強固に縫い付けられているからだ。
一、母なる女神を敬うこと。
二、悪意ある争いで母を悲しませないこと。
三、創造主のお昼寝の邪魔を絶対にしないこと。
この絶対法則のもと、新世界の生命たちは「いかに静かに、美しく調和するか」という特異な方向へと進化を遂げた。
彼らの間で競われるのは武力ではない。
水棲の民は「いかに涼やかで心地よい波の音を奏でるか」を追求し、森の獣たちは「いかに極上の反発力を持つふかふかの苔や綿を栽培するか」に命を懸け、天使たちは「いかに創造主の脳髄を優しく撫でる低音のハミングを極めるか」を日夜研究し続けていた。
「……ふむ。今日の風の匂いは、森の民が新しく品種改良した『安眠香』の花粉が混ざっているな。悪くない」
庭園の特等席である霊樹の寝台の上で、ヴィデが満足げに鼻を鳴らした。
その隣には、彼が創り上げた世界を、母のような慈愛に満ちた瞳で見守るラヴィーネ・イル・フェルマータの姿があった。
十年、百年、あるいは数千年。どれほどの星霜が過ぎ去ろうとも、彼女の透明な美しさと、ヴィデの不機嫌そうでいて実は満ち足りている横顔は、出会ったあの日から何一つ変わっていない。
「ふふっ。先日、天使の代表の子が、新しいハミングの譜面を持って挨拶に来てくれたんですよ。ヴィデがいつも同じ曲調だと飽きるかもしれないからって」
「まあ、向上心があるのは良いことだ。だが、高音の成分が混ざったら即座に空ごと解くから、そう伝えておけ」
「もう、相変わらず厳しいですね」
ラヴィーネはくすくすと笑いながら、ヴィデの黒髪を優しく梳くように撫でた。
寝台の足元では、すっかり丸々と太った使い魔のノワールが、平和すぎる日々に魔王軍への忠誠もすっかり忘れ、腹を出して大いびきをかいている。
庭の端では、もはや「神話の庭師」として新世界の民から密かに信仰の対象となっている大賢者オズワルドが、機神が淹れた紅茶を啜りながら、極限まで手入れされた芝生を見て悟りの境地に達していた。
世界がどれほど広がり、神話がどれほど壮大なものになろうとも。
この箱庭の中心にあるのは、いつだって「彼が快適に眠れるか」と「彼女が笑顔でいるか」という、極小にして究極の日常だった。
その日の午後。新世界の民たちが捧げる、波の音と森のざわめき、そして天使たちの究極の低音コーラスが完璧に調和した極上のシンフォニーが、庭園を優しく包み込んでいた。
ヴィデはラヴィーネの膝の上に頭を乗せ、目を閉じていた。ラヴィーネの左手の薬指には、かつてヴィデが事象を編み直して創り上げた銀色の指輪が、今も変わらず淡い光を放っている。
「……ヴィデ。眠れましたか?」
ラヴィーネが微睡む彼にそっと問いかけると、ヴィデはゆっくりと目を開け、彼女を下から見上げた。
「……いや。お前が俺の髪を撫でる手の動きが、少しだけいつもと違った。何か、見えない糸を絡ませているのか」
「あ……気づいてしまいましたか」
ラヴィーネは少しだけ困ったように微笑むと、庭園の回廊に並ぶ石の扉へと視線を向けた。
「少しだけ、不思議に思っていたんです。世界がこれほど豊かになって、たくさんの命が生まれて……私たちは、本当にこのままでいいのかなって」
「このままとは?」
「私たちは、あの子たちの『創造主』として崇められています。でも、私たちはただ、ここで毎日お昼寝をして、お茶を飲んでいるだけ……。あの子たちに、もっと何かしてあげるべきなんじゃないかって」
それは、世界を見守る『母』としての、ささやかながらも誠実な葛藤だった。しかし、ヴィデはその言葉を聞いて、心底呆れたように大きなため息をついた。
「お前は、本当に物分かりが悪いな」
ヴィデは身を起こすと、ラヴィーネの左手をとった。そして、指輪が光るその薬指に、自分の親指を優しく這わせた。
「俺は、あいつらを導くために世界を創ったわけじゃない。俺が快適に眠るために、そして……」
ヴィデの漆黒の瞳が、ラヴィーネの青い瞳を真っ直ぐに射抜いた。
そこに宿っているのは、他者への無関心でも、世界への冷笑でもない。ただ一つ、彼がこの宇宙で唯一執着し、決して手放さないと決めた、深く強い感情だった。
「お前が、ずっと俺の隣で笑っていられる場所を作るために、空間を切り取ったんだ」
「ヴィデ……」
「あいつらは、俺たちの『ついで』に生まれて、勝手に平和にやっているだけだ。だから、お前が責任を感じる必要は一切ない。お前の最大の責務は、俺の枕として、この世界で一番幸せに笑っていることだ。それ以外は何もいらない」
それは、世界を創り上げた神の言葉としてはあまりにも身勝手で、理不尽で、そして――これ以上ないほどに甘く、不器用な愛の告白だった。
ラヴィーネの瞳から、大粒の涙がポロポロと溢れ落ちた。
十年前、絶凍の塔で凍りついていた彼女の運命は、この理不尽な青年の指先一つで解きほぐされた。国を捨て、世界が滅び、そして新たな世界が生まれても。彼が自分に向けてくれるこの絶対的な肯定と温もりだけは、何があっても変わらない。
「はい……っ。私、ずっと、ずっとあなたの隣にいます。……あなたが何度お昼寝から目覚めても、絶対に、一番近くで笑っています」
「当たり前だ。俺が結んだんだ。……この結び目だけは、事象が崩壊しようと、俺自身にも絶対に解くことはできないからな」
ヴィデはそう言うと、ラヴィーネの肩を引き寄せ、その銀色の髪にそっと唇を落とした。ラヴィーネは涙を拭い、心からの笑顔を咲かせて彼をきつく抱きしめ返した。
遠くで、新しい世界を謳歌する生命たちの穏やかな気配がする。
空はどこまでも青く、心地よい風が永遠の庭園を吹き抜けていく。
万物の理を解きほぐす規格外の青年は、唯一「永遠に解かない」と決めた少女の温もりを腕の中に抱きしめながら、再び深く、穏やかな微睡みへと落ちていった。
――事象を解く者は、ただ静かに眠りたい。
彼が創り上げた絶対の箱庭は、これからも世界中のどんな場所よりも平和で、理不尽で、そして幸福な日常を、永遠に刻み続けていくのだった。




