第25話 次元の騒音と、怒れる創造主の壁ドン
コウモリ羽の黒猫――魔王の使い魔ノワールが、天空の庭園アルカディアに落下してきてから数日が経過していた。
ノワールは魔族特有の狡猾さと適応力の高さを発揮し、あっという間にこの『異常な箱庭』における自分の立ち位置を確立していた。
すなわち、ラヴィーネ・イル・フェルマータには愛らしいペットとして従順に甘え、天封の機神が焼くケーキの切れ端を貰い、大賢者オズワルドの庭仕事を高みの見物でからかう。
ただし、この世界の絶対的創造主であるヴィデの視界に入ることだけは、命を懸けて避けていた。
「にゃーん(ご主人様、今日もお美しいにゃあ)」
ノワールはラヴィーネの足元に擦り寄り、喉をゴロゴロと鳴らした。
ラヴィーネは海絹のドレスの裾を揺らしながら、「ふふっ、ノワールちゃんは本当に甘えん坊ね」と微笑み、黒猫の顎の下を優しく撫でる。しかし、ノワールがそのまま彼女の膝の上に飛び乗ろうとした瞬間。
「……チッ」
芝生の特等席――最高級の霊樹の寝台から、鋭い舌打ちが飛んできた。
ヴィデが片目だけを開け、漆黒の瞳でノワールを射抜いている。『そこは俺の枕だ。触れたら次元ごと解くぞ』。言葉はなくとも、その視線から放たれる絶対的な殺気が、ノワールの生存本能を激しく警報させた。
ノワールは空中で無理やり軌道を変え、「にゃんっ(失礼しました!)」と鳴きながら、三メートル以上離れた芝生の端へと着地し、小さく丸まった。
「ふふっ。ヴィデ、ノワールちゃんをあまり虐めないでくださいね」
「虐めてなどいない。俺の寝台の清潔さと、枕の確保を最優先しているだけだ」
ヴィデは忌々しそうに鼻を鳴らすと、ラヴィーネの膝へと頭を乗せ、目を閉じた。
彼にとって、この箱庭は自分が心地よく昼寝をするためだけに存在している。その静寂と平穏が保たれている限り、彼が自ら力を振るうことはない。
――しかし。その日の午後、庭園の『天井』が再び軋んだ。
ズゥゥゥン……ッ! 空気を震わせるような重低音が、庭園の上空から響き渡った。それだけではない。青空の一部が、まるで水面に波紋が広がるように激しく揺らぎ、不快な振動がヴィデの寝台にまで伝わってきたのだ。
「……ん?」
ヴィデが僅かに眉をひそめた。
ズドォォォンッ! バリバリバリッ! 今度は、雷鳴のような轟音と共に、空の歪みがさらに大きくなった。
庭園の端で丸まっていたノワールが、弾かれたように立ち上がり、上空を見上げて叫んだ。
「にゃっ!? こ、この魔力の波長と、空間を揺るがす衝撃……! 間違いにゃい、我が主である大魔王様と、忌まわしき勇者の最終決戦が、いよいよクライマックスを迎えているのにゃ!」
「……」
「凄まじい余波だにゃ! 二人の放つ奥義の衝突が、次元の壁を叩き割ろうとしている……! ああっ、魔王様、どうかご武運を――」
ノワールが故郷の次元に向けて祈りを捧げようとした、その時だった。
「……おい」
地を這うような、極寒の怒りを孕んだ声が響いた。
ヴィデが、ゆっくりとラヴィーネの膝から頭を上げた。
彼の顔には、これまで見たこともないほどの明確な『怒り』が刻まれていた。
大賢者オズワルドがヒィッと短い悲鳴を上げて芝生に伏せ、上空を飛んでいた蒼波の水竜がボトッと落ちて気絶した。
「ヴィ、ヴィデ……?」
ラヴィーネが恐る恐る声をかけるが、ヴィデは乱れた前髪を乱暴に掻き毟り、上空の空の歪みをギロリと睨みつけた。
「俺は、言ったはずだ」
ヴィデの低い声が、振動する庭園の空気をさらに重く圧迫する。
「『これ以上、俺の庭にゴミを降らすなら、壁の向こうの馬鹿どもごと解きに行く』と」
ズガァァァンッ!! 空の歪みから、再び強烈な衝撃音が響いた。ヴィデの安眠を決定的に妨害する、最悪のタイミングでの騒音だった。
「……チッ。限界だ」
ヴィデは立ち上がると、無造作に右手を上空へと突き出した。
彼はそのまま空中の『何もない空間』をガシリと掴むと、力任せに、それこそ障子を乱暴に開け放つような動作で、両側に引き裂いた。
ビリィィィィッ!! 布を引き裂くような凄まじい音と共に、青空が真っ二つに割れた。
その亀裂の向こう側に現れたのは、赤黒い空と、炎に包まれた荒野。そして、凄まじい魔力の光をぶつけ合う二つの小さな影だった。
並行世界――勇者と魔王が死闘を繰り広げる、まさにその戦場のド真ん中へと通じる『穴』が開いたのだ。
「ヴィデ!? まさか、行くのですか!?」
「すぐ戻る。少し、隣の部屋に『苦情』を言ってくるだけだ」
ヴィデは寝癖のついた頭のまま、面倒くさそうに肩を回し、自ら引き裂いた次元の亀裂の中へと、躊躇いもなく足を踏み入れた。
***
並行世界、魔王城跡地。
世界を二分する光と闇の激突は、まさに最終局面を迎えていた。
ボロボロになった聖なる鎧を纏う勇者が、光り輝く聖剣を上段に構え、全生命力を込めた究極の奥義を放とうとしている。対する大魔王は、漆黒の翼を広げ、星をも砕くと言われる暗黒の破壊球を頭上に創り出していた。
「これで終わりだ、魔王! 我が命に代えても、お前の野望はここで打ち砕くッ!」
「笑止! 我らが闇の深淵、貴様ごときの光で照らせるものかァァァッ!」
勇者の聖剣から放たれた極大の光の奔流と、大魔王の放った暗黒の破壊球が、両者の中間地点で激突しようとした、まさにその瞬間。
空間が、唐突に『めくれた』。
「……あ?」
「……ぬ?」
勇者と魔王は、己の必殺の一撃が激突する直前の空間から、煤けた灰色の外套を着た、ひどく不機嫌そうな青年が「よいしょ」という感じで歩み出てきたのを見て、完全に思考が停止した。
「……ったく。次元の壁が薄いから、少し衝撃を与えただけでこっちまで響くんだ」
ヴィデは、左右から迫り来る『世界を滅ぼす光と闇の激突』のド真ん中に立ちながら、面倒くさそうに首を鳴らした。勇者と魔王が我に返り、絶叫する。
「な、何者だ貴様ッ! よけろ、消し飛ぶぞォォォッ!!」
「どこから湧いたか知らんが、我が奥義の前に塵となるがよいわァッ!!」
光の奔流と暗黒の球体が、ヴィデの左右から同時に直撃しようとする。しかし、ヴィデは一切の焦りも見せず、ただ両手を左右に軽く広げただけだった。
「うるさい。少し静かにしろ」
パチン、パチン。ヴィデの左右の指先が、ほぼ同時に鳴らされた。その直後。
シュゥゥゥ……。
「……え?」
「……は?」
勇者と大魔王の口から、同時に間抜けな声が漏れた。
勇者が命を懸けて放った聖剣の光が、まるで蝋燭の火を吹き消すように、ふっと消滅した。大魔王が全魔力を込めた暗黒の破壊球が、ただの黒い煙となって、風に流されて霧散した。
激突の衝撃も、爆発の轟音も一切ない。世界を揺るがすはずだった二つの究極奥義が、一人の青年の指鳴らし一つで、事象の結び目を解かれ、完全に『なかったこと』にされてしまったのだ。
「な、ななな……何をした貴様ァッ!?」
「我が、我が星砕きの暗黒球が……魔法の無効化などという次元ではないぞ!? 貴様、神か!?」
勇者は膝から崩れ落ちて聖剣を落とし、大魔王は恐怖で漆黒の翼をガタガタと震わせた。彼らが積み上げてきた何年もの死闘と、世界の命運を懸けたドラマが、文字通り「一瞬で」強制終了させられたのだ。しかし、ヴィデはそんな彼らの驚愕など完全に無視し、ズカズカと大魔王の目の前まで歩み寄った。
「お前らが光だの闇だのと騒ぐのは勝手だ。だがな」
ヴィデは、大魔王の胸ぐらを無造作に掴み上げた。
「お前らがここでドンドンと壁を叩くたびに、俺の庭の天井からゴミが落ちてきて、振動で俺の昼寝が台無しになるんだよ。……わかるか?」
「ひ、ひぃぃッ……!?(な、何を言っているのだこの男は……!?)」
ヴィデは次に、勇者の方をギロリと睨みつけた。
「俺は今、お前らのその鬱陶しい魔法の結び目を解いた。……だが、次に俺の安眠を妨害するような騒音を出したら、今度はお前らが立っているこの『次元』の結び目ごと、根こそぎ解いて消滅させる」
その漆黒の瞳に宿る、絶対的な冷酷さと真実味。勇者と大魔王は、自分たちが今、世界を争い合うどころか、『機嫌の悪い創造主』によって世界ごと消しゴムで消されようとしているという絶対的な恐怖を本能で理解した。
「わ、わかったか……?」
ヴィデが低く凄むと、勇者と大魔王は、かつての宿敵同士であることも忘れ、並んで地面に正座し、凄まじい勢いで首を縦に振った。
「は、はいッ! 申し訳ございませんでしたァァァッ!」
「二度と、二度と騒音は立てません! お昼寝の邪魔はいたしませんッ!!」
「……よろしい」
ヴィデは満足げに頷くと、掴んでいた大魔王を放り投げ、自分が開けた次元の亀裂へと踵を返した。
「最初からそうやって静かにしていればいいんだ。……よし、これでやっと眠れる」
ヴィデは大きな欠伸を一つすると、亀裂の向こう側へと姿を消し、空間の穴はピシャリと音を立てて閉ざされた。
後に残されたのは、世界を争っていたはずが、突如として『謎の超次元の住人の安眠を守る会』へと強制加入させられた、勇者と大魔王の呆然とした姿だけだった。
***
「……遅かったな」
天空の庭園に戻ってきたヴィデは、次元の亀裂を指先で完璧に『縫い合わせ』て固定すると、忌々しそうに首を鳴らした。
ラヴィーネは目を丸くして彼を迎えた。
「ヴィデ、お帰りなさい。あの……向こうの世界は、どうなったのですか?」
「ただの近所迷惑な馬鹿どもだったから、少し絞ってやっただけだ。もう二度と、うちの天井を叩くような真似はしないだろう」
ヴィデは何事もなかったかのように寝台へと戻り、再びラヴィーネの膝の上に頭を沈めた。
ノワールは、自分の敬愛する大魔王の気配が大人しくなったのを感じ取り、「この男、本当に次元の壁ドンで魔王様を黙らせやがったにゃ……」と白目を剥いて気絶していた。
「さあ、昼寝の続きだ。お前も、少し撫でてくれ。腹が立ったせいで、頭の芯が少し張っている」
「ふふっ……はい、わかりました」
ラヴィーネは苦笑しながら、彼の黒髪を優しく梳くように撫で始めた。
並行世界の世界大戦すらも「隣の部屋の騒音」として一瞬で強制終了させた、理不尽極まりない創造主。
彼の絶対の箱庭は、こうして他の追随を一切許さない、究極の平穏を保ち続けるのだった。




