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《完結》事象を解く者は、ただ静かに眠りたい ~絶対零度の公女と歩む、箱庭スローライフ~  作者: ひより那
白紙の創世

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第24話 次元の迷い猫と、不機嫌な創造主

 天空の庭園アルカディアは、ヴィデがその空間を世界の理から物理的に切り離し、時間の流れごと固定して以来、一切の外的要因を受け付けない絶対的な平穏の中にあった。

 海、森、空へと繋がる三つの石の扉の向こう側では、星海月や純白の鹿、有翼の精霊たちが独自の生態系を築きつつあったが、庭園そのものはあくまで『創造主の昼寝のための寝室』として、常に完璧な静寂と心地よい気候が維持されている。


 その庭園の片隅で、今日も『賢者連盟』の大賢者オズワルドは、額に汗して芝生の手入れに勤しんでいた。かつては大陸最高峰の知を誇り、魔術の深淵を探求していた彼だが、今やその卓越した集中力と精密な指先の動きは、芝生の長さをミリ単位で均一に切り揃えるための『究極の庭師の技術』へと完全にシフトしていた。


「……ふむ。今日の芝の弾力も完璧だ。主の寝心地を損なうことはあるまい」


 オズワルドが満足げに腰を伸ばした、その時だった。


 ――ピキッ 微かな、しかし明らかな異音が、庭園の上空から響いた。


 オズワルドが弾かれたように空を見上げると、何もないはずの青空に、ごく微小な『空間の亀裂』が走っているのが見えた。

 ヴィデが完全に隔離したはずの箱庭の境界に、外側から何らかの強烈な干渉が生じ、ごく僅かな『綻び』ができたのだ。

 亀裂はすぐに修復されようと空間の波打つ音を立てたが、その修復が完了する直前。亀裂の隙間から、黒い小さな物体が、ポロッとこぼれ落ちてきた。


「にゃぎゃあっ!?」


 情けない悲鳴とともに、その黒い物体はオズワルドの数メートル先の芝生に、ぽすっと落下した。


「……チッ」


 庭園の中央、世界最高峰の霊樹で作られた寝台の上から、ひどく不機嫌な舌打ちが聞こえた。

 ラヴィーネ・イル・フェルマータの膝枕で心地よい微睡みに落ちていたヴィデが、眉間を深く寄せて体を起こしたのだ。


「何の音だ。俺は、俺の庭に上からゴミを落とすなと何度も言っているはずだが」

「ひぃぃッ! わ、私ではございません主よ! 空から突然、奇妙な毛玉が……!」


 オズワルドが涙目で弁明しながら、落下地点を指差した。

 ヴィデとラヴィーネが視線を向けると、芝生の上で土煙を払って立ち上がる、一つの小さな影があった。


 それは、一匹の黒猫だった。しかし、ただの猫ではない。背中にはコウモリのような小さな皮膜の羽が生えており、その金色の瞳には明らかな『知性』の光が宿っている。


「いてて……。おのれ憎き勇者め、次元断層の魔術でこの我を平行世界へ弾き飛ばすとは……! しかし、この程度のことで我が滅びると思ったか!」


 コウモリ羽の黒猫は、二本足で仁王立ちになると、空に向かって高らかに叫んだ。


「フハハハ! 我は深淵を統べる偉大なる魔王の右腕! 闇を切り裂く漆黒の使い魔、ノワール様なるぞ! ここがどの次元かは知らんが、貴様ら人間ども、我を崇め、極上のミルクと寝床を――」

「……うるさい」


 黒猫――ノワールの仰々しい口上は、地を這うような低く冷たい声によって容赦なく遮られた。

 ノワールが声のした方を振り向くと、そこには寝台から下り立ち、右手をこちらへ向けている一人の青年がいた。

 その漆黒の瞳には、怒りすらない。ただ、靴の裏についたガムを見るような、徹底的な無関心と不快感があるだけだった。


「俺の庭にゴミを捨てるな。鬱陶しい。消えろ」


 ヴィデが、突き出した右手の親指と中指をすり合わせた。

 その瞬間、ノワールの全身の毛が逆立ち、背中のコウモリ羽が恐怖で痙攣した。

 ノワールは魔王の使い魔として、数多の修羅場を潜り抜けてきた。その経験に裏打ちされた直感が、警鐘を超えた絶望のサイレンを脳内で鳴らしていた。


 この男が指を鳴らせば、自分は魔法で焼き払われるのではない。『存在をなかったことにされる』。格が違う。自分の仕える魔王すらも、この男の前では路傍の石ころに等しい。


「にゃっ!? ちょ、待っ……!」

「ヴィデ、待ってください!」


 ヴィデの指が鳴る寸前、ラヴィーネが慌てて寝台から飛び降り、ヴィデの腕をそっと両手で包み込んだ。

 ヴィデの動きがピタリと止まる。


「お前、なぜ止める。そいつは俺の庭を汚す不純物だぞ」

「だって……」


 ラヴィーネは、芝生の上でガタガタと震えているノワールを見下ろし、頬を染めて感嘆の声を漏らした。


「まあ……コウモリの羽が生えた黒猫ちゃん! とっても可愛いですね!」

「……は?」


 ヴィデが間抜けな声を漏らした。

 ラヴィーネは海や森の生命を育んできたことで、すっかり母性が豊かになり、小さな生き物に対する愛着が人一倍強くなっていたのだ。

 彼女は駆け寄ると、恐怖で腰を抜かしているノワールをひょいっと抱き上げた。


「にゃ、にゃああ……っ!(た、助かった……! この女を盾にするしかない!)」


 ノワールはヴィデから放たれる圧倒的な殺気に震えながら、ラヴィーネの胸元に必死に顔を擦り寄せ、喉をごろごろと鳴らして従順なペットを演じ始めた。


「ほらヴィデ、見てください。とっても人懐っこい子ですよ。お名前はノワールちゃんって言うのね?」

「……ただの喋る毛玉だろうが。不潔だ、早く捨ててこい。俺の寝台に毛が落ちたらどうするんだ」


 ヴィデは心底忌々しそうに舌打ちをしたが、ラヴィーネが嬉しそうに抱きしめている以上、無理やり指を鳴らして消去することはできなかった。

 彼はため息をつき、ラヴィーネの腕の中でガタガタと震えているノワールを冷たく見据えた。


「おい、ゴミ。お前、どこから湧いてきた。この箱庭は完全に結び目を閉じてあるはずだが」

「ひぃっ! そ、それは……!」


 ノワールは怯えながらも、どうにか事情を説明した。

 ノワールが元いた『次元』において、魔王と勇者による世界を揺るがす大激突が起きた。その際、勇者が放った次元断層の魔術により、ノワールは次元の狭間へと弾き出されてしまったのだ。

 次元の狭間を漂っていたノワールは、偶然にも、あらゆる次元の中で『最も強固に固定され、安定している空間』にぶつかり、その衝撃で生じた微小な亀裂からこぼれ落ちてきたのだという。


「……なるほどな」


 ヴィデは腕を組み、不機嫌の極みのような声で呟いた。


「つまり、隣の部屋で馬鹿どもが暴れて壁をドンドン叩いているせいで、こっちの部屋の天井の結び目が緩んで、埃が落ちてきたというわけだ」


 並行世界の世界を揺るがす最終決戦を、ヴィデは『隣の部屋の騒音問題』として極めて自己中心的に解釈した。


「……気に食わないな。今回落ちてきたのはただの毛玉だが、もし次に石ころでも降ってきて俺の昼寝の邪魔をしたらどうする。俺の庭の天井を汚されるのは我慢ならない」

「にゃ、にゃあ……(この男、あの勇者と魔王の激突を『隣の部屋の騒音』扱いしているにゃ……!? 狂っている、次元が違いすぎる……!)」


 ノワールはラヴィーネの腕の中で、この箱庭の主の異常性に震え上がっていた。

 ヴィデは上空のすでに修復された空間を睨みつけ、静かに、しかし絶対的な威圧感を込めて言い放った。


「これ以上、俺の庭にゴミが降ってくるようなら……その壁の向こうの馬鹿どもごと、次元の結び目を解きに行かなければならなくなるな」


 それは、並行世界の消滅を示唆するとんでもない脅しだったが、ラヴィーネにとってはいつもの彼の『安眠への執着』でしかなかった。


「ふふっ。大丈夫ですよヴィデ。天井はもう元通りになりましたし。……それより、この子は私が面倒を見てもいいですか?」


 ラヴィーネがノワールの顎の下を撫でながら上目遣いで尋ねると、ヴィデは露骨に顔を顰めた。


「勝手にしろ。だが、そいつが俺の枕を横取りするようなら、即座に海か森に放り込むからな。……おい毛玉、わかったな」

「にゃ、にゃんっ!(わ、わかりましたご主人様!)」


 ノワールは全霊をもって肯定の鳴き声を上げた。

 こうして、完全に閉じていたはずの永遠の箱庭に、別の次元からやってきた生意気な使い魔が、新たな居候として加わることになった。

 彼がもたらした『外の次元の気配』が、ヴィデの安眠にどのような影響を及ぼすかはまだわからない。しかし、少なくとも今日のところは、ラヴィーネの膝の上を巡る、創造主と黒猫の静かなる陣取り合戦が幕を開けたのだった。


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