第23話 白紙の空と、調律される賛美歌
天空の庭園アルカディアに繋がれた三つの石の扉。そのうちの二つ、透き通る青い海と、木漏れ日が降り注ぐ深い森は、ヴィデが刻み込んだ三つの絶対法則のもとで、極めて穏やかで平和な生態系を築き始めていた。
ラヴィーネ・イル・フェルマータは、海辺で星海月たちと戯れた後、森の純白の鹿に果実を与え、生命の母としての喜びを胸いっぱいに感じながら庭園へと戻ってきた。
「……遅い」
神殿の回廊で彼女を出迎えたのは、やはりというか、ひどく不機嫌そうな声だった。ヴィデが回廊の柱に寄りかかり、腕を組んでこちらを睨んでいる。
「ヴィデ。起きていたのですか?」
「当たり前だ。お前が海だの森だのと歩き回っているせいで、俺の枕がずっと不在じゃないか。大賢者どもが作った寝台の出来はいいが、お前の膝がないと首の角度が微妙に合わないんだ」
ヴィデは心底忌々しそうに吐き捨てた。
世界を創り、理を定めた創造主でありながら、彼の悩みは常に「いかに快適に昼寝をするか」という一点に集約されている。
ラヴィーネはふふっと微笑み、彼の傍へと歩み寄った。
「ごめんなさい。あの子たちが可愛くて、つい長居してしまいました。……すぐに、お昼寝の用意をしますね」
「いや、いい。どうせ起きたんだ」
ヴィデは首を鳴らし、回廊の奥――三つ目の石の扉へと視線を向けた。かつて、潮騒の港町へと繋がっていたその扉の向こう側は、いまだに果てしない純白の虚無が広がったままである。
「海と森の匂いにも飽きてきたところだ。寝起きの風の匂いを変えるために、もう一つ別の環境を編む。……少し、乾いた風が欲しいな」
「新しい世界を、創るのですね」
ラヴィーネの瞳が、期待に輝いた。
ヴィデは「大袈裟な結び目じゃない」と呟きながら、三つ目の扉を開け放った。そして、純白の空間に向かって両手を広げ、見えない糸を摘むように指先を動かし始める。
「土はいらない。海もいらない。ただ、風の通り道と、雲の座布団だけを縫い付ける」
パチン、パララララッ! ヴィデの指先から連続する破裂音が鳴り響き、純白のカンバスに新たな色彩が弾け飛んだ。
今回は大地が存在しない。その代わりに、足元には見渡す限りの真っ白な雲海が編み上げられ、その雲の海の上に、大小様々な岩の塊――無数の浮島が、重力を無視して空中に固定されていく。
空は抜けるように高く、薄紫色から茜色へと移り変わるような、永久の夕暮れを思わせる美しいグラデーションに染め上げられた。
ヒュルルル……と、心地よい乾いた風が吹き抜け、浮島に生えた背の低い草花を揺らす。
「……空の、世界」
ラヴィーネは感嘆の声を漏らした。
大地に縛られない、見渡す限りの大空と浮島の群れ。それは、彼女がかつて幽閉されていた塔の天窓から、ずっと夢見ていた自由の景色そのものだった。
「風の強さはこんなものか。雲の反発力も、適度に柔らかく編んでおいた」
ヴィデは軽く手を払い、自分の作品を評価した。
「おい、行ってみろ。今回はお前の魔力から何が湧いてくるか、少しはマシな形に結ばれるといいがな」
ヴィデに促され、ラヴィーネは胸を高鳴らせながら石の扉をくぐり、一番手前にある大きな浮島へと足を踏み入れた。
雲海を渡る風が、彼女の海絹のドレスと銀色の髪を美しくなびかせる。そして、奇跡はまたしても起こった。
彼女が浮島の大地を踏み締めた瞬間、足元から溢れ出した生命の脈理が、大気中の魔力素と複雑に絡み合い、空中のあちこちで眩い光の粒を形成し始めたのだ。
光の粒は集束し、やがて確かな輪郭を持ち始める。海で生まれた星海月や、森で生まれた純白の鹿とは違う。
光の中から現れたのは、人間の子供のような姿をした、背中に透き通るような光の羽を持つ生命体だった。
「あ……」
ラヴィーネは思わず両手を口元に当てた。
有翼の精霊、あるいは神話に語られる『天使』。性別を持たない、中性的で愛らしい顔立ちの彼らは、ふわりと空中に舞い上がると、琥珀色の瞳でラヴィーネと、その後ろで胡乱な目をしているヴィデを見つめた。そして、彼らは小さな口を開き、明確な『言葉』を紡いだ。
『――おお、我らが母なる女神よ。そして、理を紡ぎし父なる創造神よ』
透き通るような、鈴を転がすような美しい声だった。
これまでの生命とは違い、彼らは高度な知性と、言葉を操る能力を持って生まれたのだ。十数人の有翼の精霊たちは、空中で美しい円陣を組むと、小さな両手を胸の前で組み合わせ、瞳を閉じた。
『――世界に光を。虚無に生命を。我らは歌う、大いなる父母の慈愛と、この美しき空の奇跡を――!』
彼らが口を揃えて歌い始めたのは、神を讃える荘厳な賛美歌だった。
高いソプラノの歌声が重なり合い、空の世界に神聖な響きをもたらす。大賢者オズワルドがこの場にいれば、「ついに神話が完成した」と涙を流して平伏したに違いない。
彼らは純粋な感謝と、創造主への愛を込めて、精一杯の高音で歌い上げていた。
――しかし。
「……うるさい」
神聖なる賛美歌の響きを、地を這うような低く冷たい声が容赦なく切り裂いた。
精霊たちが驚いて目を開けると、彼らが「父なる創造神」と讃え歌っていたヴィデが、両手で耳を塞ぎ、般若のような険しい顔をして睨みつけていた。
「ヴィ、ヴィデ……? どうしたのですか?」
ラヴィーネが慌てて振り返るが、ヴィデの苛立ちは頂点に達していた。
「キーキーと甲高い声で鳴くな。頭の芯に響いて、耳障りで仕方ない。お前ら、わざと俺の安眠を妨害しているのか?」
『ひぃっ!?』
精霊たちは空中でビクッと震え上がり、互いに抱き合って怯えた。
彼らは生まれたばかりの純粋な存在だ。自分たちの最大の感謝の表現である賛美歌が、なぜ創造神の逆鱗に触れたのか、全く理解できていない。しかし、世界に刻まれた「俺の昼寝の邪魔をするな」という絶対法則が、彼らの本能に警鐘を鳴らしていた。この男を怒らせれば、存在ごと解かれる、と。
「だ、ダメです、ヴィデ! あの子たちはただ、私たちに感謝を伝えたくて……」
ラヴィーネが必死に庇おうとするが、ヴィデは忌々しそうに舌打ちをした。
「感謝なら静かにしろ。俺が今求めているのは、神聖な歌なんかじゃない。昼寝の時に頭の中を空っぽにしてくれる、心地よい低音の子守唄だ。……おい、そこの羽虫ども」
ヴィデは精霊たちに向かって、無造作に指を突きつけた。
「今すぐその高音の結び目を解け。もっと腹から声を出して、低く、静かに、一定のリズムでハミングしろ。波の音の邪魔にならない程度の音量でだ。……やってみろ」
『は、はいぃっ!』
有翼の精霊たちは涙目になりながら、慌てて円陣を組み直した。
神聖なるソプラノの賛美歌は即座に中止され、彼らは必死に喉の奥を震わせ、ヴィデの要求する『低音のハミング』を試み始めた。
『ンンン……ンーーー……』
「違う。もっと低く。そして息を長く吐け。途中で音を途切れさせるな」
『ン、ンォォォ……ォーーー……』
「高音の成分が混ざっている。声帯の結び目を無理やりいじるぞ」
『ヒィッ! ンーーー……ンーーー……』
それはもはや、神への賛美でも何でもなかった。
極めて理不尽な音楽教師による、究極の睡眠導入コーラス隊の地獄の特訓である。 精霊たちは涙を流しながらも、ヴィデの「解くぞ」という脅しに怯え、必死に低音のハミングを繰り返した。
ラヴィーネは、あまりの光景に口を開けたまま立ち尽くし、やがて両手で顔を覆って肩を震わせ始めた。
「……ふ、ふふっ……あはははっ!」
彼女は耐えきれずに、大声を上げて笑い出した。
神話の天使たちが、理不尽な青年の昼寝のBGMを作るためだけに、涙目で低音コーラスを練習させられている。どんなに美しい世界を創り、どんなに神聖な命が生まれようとも、彼の芯は絶対にブレない。彼にとっての世界の価値は、ただ「自分が心地よく眠れるか」と「彼女が笑っているか」の二点だけなのだ。
「……何を笑っている」
ヴィデが不機嫌そうに振り返ると、ラヴィーネは笑い涙を拭いながら、彼に駆け寄った。
「ごめんなさい……でも、ヴィデが、あんまりにも真剣にお歌の指導をしているから……」
「俺は自分の耳を守るために必死なんだ。あんな高音をずっと聞かされたら、頭痛で死ぬ」
ヴィデは忌々しそうに頭を掻き毟ったが、その表情はどこか、悪戯が失敗した子供のように不器用だった。
「……よし、お前ら。だいぶマシになってきたな」
ヴィデが振り返ると、精霊たちはようやく彼が満足するレベルの、深く心地よい低音のハミングを習得しつつあった。
風の音と見事に調和した、脳髄を優しく撫でるような究極のヒーリング・コーラス。
『ンーーー……ンーーー……』
「その調子だ。俺が寝台に入る時は、必ずその音量とピッチで歌え」
『は、ははぁーーーッ!』
精霊たちは空中で深く頭を下げ、安堵の涙を流した。ラヴィーネは微笑みながら、ヴィデの腕にそっと自分の腕を絡ませた。
「新しい家族が、また増えましたね」
「……うるさい羽虫が増えただけだ。だが、まあ、子守唄の代わりくらいにはなるだろう」
ヴィデはそっぽを向きながらも、ラヴィーネの腕を振り解くことはしなかった。
白紙の空に編み上げられた新しい世界。そこで生まれた神話の天使たちは、理不尽な創造神による厳しい指導の末、世界で最も優秀な『睡眠導入コーラス隊』としての確固たる地位を築き上げたのだった。




