第21話 白紙の森と、微睡む純白の鹿
ヴィデが純白の虚無を編み直して創り上げた新しい海は、今や小さな青い命――星海月たちで賑わっていた。
天空の庭園アルカディアから繋がる石の扉をくぐると、そこには透き通った波の音と、ラヴィーネ・イル・フェルマータの足元でぽよぽよと跳ね回る無数の球体の姿がある。
ヴィデは相変わらず「俺の寝台に近づくな。冷たくて寝苦しい」と不機嫌そうに追い払っていたが、星海月たちは彼を恐れる様子もなく、一定の距離を保ちながら砂浜で日向ぼっこを楽しんでいた。
「……ふふっ」
ラヴィーネは海絹のドレスの裾を揺らしながら、そんな彼らの様子を微笑ましく見守っていた。
かつて死を待つだけだった彼女の魔力が、こうして新しい世界で生命として芽吹いた。それは彼女にとって、どんな魔法よりも尊い奇跡だった。しかし、彼女の視線はふと、庭園の回廊に残された別の二つの扉へと向けられた。
かつて常春の水都へと繋がっていた扉と、雪降る古都へと繋がっていた扉。
海が白紙に戻っていたということは、おそらくあの扉の向こう側も同じようになっているはずだ。
「ヴィデ。あの……残りの二つの扉の向こう側も、やはり……」
「何も無い。ただの白い空間の切れ端だ」
寝台で目を閉じていたヴィデが、面倒くさそうに答えた。
「だから開けるなよ。お前がまたあの白い虚無を見て、見えない糸をしゅんと萎れさせたら、俺の胸の奥がチクチクして眠れなくなる」
「あ……ごめんなさい、そういうつもりじゃ……」
「わかっている。だが、お前が気になっている以上、その波長は俺の安眠を妨害する」
ヴィデは大きくため息をつくと、のろのろと寝台から起き上がった。
彼は砂浜を歩いて庭園の回廊へと戻ると、残された二つの石の扉のうち、かつて水都へと繋がっていた扉の前に立った。
「海と砂浜だけでは、日差しを遮るものがない。オズワルドの奴らが作った寝台の出来は悪くないが、たまには木陰の涼しさの中で寝たくなることもある」
彼は誰に言い訳をするでもなく呟くと、扉の取っ手に手をかけ、一気に開け放った。案の定、そこには果てしなく続く純白の虚無が広がっていた。音も、匂いも、温度もない絶対的な空白。ヴィデはその真っ白な空間に向かって、無造作に両手を突き出した。
「今回は、土と緑を編む。風の通り道を計算して、適度に日差しを遮る葉の重なりも必要だ。……少し結び目が複雑になるな」
ヴィデの十本の指が、空中で目にも止まらぬ速度で弾かれ始めた。
パチン、パチン、パララララッ! 連続する破裂音と共に、真っ白だった虚無のカンバスに、強烈な色彩が叩きつけられていく。
茶色い土が空間に縫い付けられ、大地が形成される。そこから太い幹が捻り出され、枝が伸び、無数の緑の葉が空を覆い隠すように編み上げられていく。
大気中の魔力素が事象の結び目に吸い込まれ、生命の息吹すらも内包した豊かな森が、文字通り一瞬にして創り出された。
ザワワ……と、木々を揺らす風の音が響く。どこからか、甘い花の香りと、湿った土の匂いが漂ってきた。
「な……っ」
背後で見ていたラヴィーネは、再び繰り返された神の御業に、ただ息を呑むことしかできなかった。
扉の向こう側に広がっていたのは、深い緑に包まれた広大な森だった。木漏れ日が苔生した大地を優しく照らし、遠くには清らかな湧き水が小さな小川を作って流れている。旧世界にあったどんな森よりも美しく、そして不純物のない、純粋な自然の空間。
「……こんなものか」
ヴィデは軽く手を払い、自分が創り上げた森を満足げに見渡した。
「木陰の温度は完璧だ。地面の苔も、そこそこ柔らかそうに結んでおいた。……おい、お前も来てみろ」
ヴィデに呼ばれ、ラヴィーネは恐る恐る石の扉の境界線を越え、新しい森へと足を踏み入れた。
ふかふかとした苔の感触が足の裏に伝わる。森の空気は清浄そのもので、彼女が深呼吸をすると、体内の魔力が喜ぶように活性化するのがわかった。
海の時と同じだ。この純粋な器に、彼女という圧倒的な生命の脈理が足を踏み入れた瞬間、奇跡の歯車が再び回り始めた。
彼女の足元から、淡い光の粒子が苔生した大地へと溶け込んでいく。
ポォォン…… 森の奥で、静かな、しかし確かな共鳴音が響いた。
ラヴィーネが驚いて音のした方を見ると、木漏れ日が集まる小さな広場のような場所に、眩い光の塊が生まれていた。
光は瞬く間に形を成し、やがて一頭の美しい獣の姿をとった。巨大な純白。体高はヴィデの背丈を優に超え、頭には王冠のように見事な枝角が生えている。その毛並みは新雪のように白く、動くたびに星屑のような光の粒子を撒き散らしていた。
旧世界の文献に記されていた『森の神獣』に酷似した、神々しき生命の誕生。純白の鹿は、琥珀色の穏やかな瞳でラヴィーネを見つめると、ゆっくりと彼女の方へ歩み寄ってきた。
「あ……」
ラヴィーネは思わず手を伸ばした。
鹿は彼女の掌に鼻先を擦り寄せ、低く心地よい喉鳴らしを聞かせる。
海の星海月たちのような無邪気さとは違う、知性と静謐さを感じさせる存在。これもまた、彼女の魔力とヴィデの編み上げた世界が交わって生まれた、新しい命だった。
「ヴィデ、見てください……! こんなに綺麗で、大きくて……この森の、主のような子が……!」
ラヴィーネは感動に震える声で振り返った。
神々しき生命の誕生。この奇跡を、彼と分かち合いたかった。
――しかし。
「……ほう」
ヴィデは、純白の鹿をじっと見つめ、目を細めていた。
彼の漆黒の瞳には、神話の生物に対する畏敬の念など微塵もなかった。あるのは、ただ極めて実利的な、そして彼らしい純粋な『評価』だけだった。
「ヴィ、ヴィデ……? また、不純物が湧いたって、怒っていますか……?」
ラヴィーネが不安げに尋ねるが、ヴィデは首を横に振った。そして、ズカズカと鹿の傍まで歩み寄ると、その美しい純白の毛並みを、無造作に鷲掴みにした。
「……なかなかの弾力だ。それに、この毛の密度。温度も人肌より少し高くて、実に温かい」
「えっ?」
「あのゼリーどもは冷たくて湿っていて最悪だったが……こいつは違う。まさに、自然が生み出した、極上の反発力を持つ動く毛布だ」
ヴィデはそう言い放つと、あろうことか、神々しき純白の鹿の背中へと、ひょいとよじ登ってしまった。
鹿は驚くことも怒ることもなく、むしろ「父」である彼の重みを受け入れるように、四つ足をしっかりと踏ん張って背中を平らに保った。
ヴィデは鹿のふかふかとした背中に仰向けに寝転がり、その後頭部をふかふかの首筋に沈めた。
「……完璧だ。苔の上で寝るつもりだったが、こっちの方が何倍も寝心地がいい」
ヴィデは満足げに大きく欠伸をした。
「高さがあるから地面の湿気も来ないし、木漏れ日の当たる場所へ勝手に移動してくれるなら最高だ。……おい、デカい毛布。俺の安眠を妨げないように、ゆっくりと日の当たる場所を歩け」
『プルル……』と、鹿は神獣らしからぬ間抜けな返事をし、ヴィデを乗せたまま、森の中をゆったりとした足取りで歩き始めた。
「……」
ラヴィーネは、あまりの光景に口を開けたまま立ち尽くした。
蒼波の水竜が扇風機になり、天封の機神がメイドになったのだから、新しく生まれた神獣がベッドになることも、この箱庭の論理からすれば必然だったのかもしれない。
世界を編み直すほどの奇跡を起こしておきながら、彼の目的は徹頭徹尾「自分が快適に昼寝をすること」から一歩もブレていないのだ。
「……本当に、あなたという人は」
ラヴィーネは呆れを通り越して、心からの笑い声を上げた。
彼女の笑い声に誘われるように、森の奥から光の粒子が舞い上がり、小さなリスや小鳥の形をした精霊たちが次々と姿を現し始めた。彼らもまた、ラヴィーネの魔力から生まれた新しい命たちだ。
「おい、お前も来い。この毛布、二人くらいなら余裕で乗れるぞ。お前が隣にいないと、結局落ち着かないんだ」
ヴィデが鹿の背中から、片手を差し出してきた。
不機嫌そうな声だが、その差し出された手には、彼なりの不器用な愛情がたっぷりと込められている。
ラヴィーネは「はい」と嬉しそうに頷き、彼の胸に飛び込むようにして、神獣の背中へとよじ登った。
純白の鹿は、二人の重みを心地よさそうに受け止めながら、木漏れ日の森をゆっくりと歩き続ける。
白紙のカンバスに描かれた新しい森は、理不尽な青年と彼を愛する少女、そして彼らから生まれた無数の生命たちによって、少しずつ、しかし確実に、幸福な色に染まり始めていた。




