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《完結》事象を解く者は、ただ静かに眠りたい ~絶対零度の公女と歩む、箱庭スローライフ~  作者: ひより那
白紙の創世

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第20話 白紙の海と嫉妬

 ヴィデが純白の虚無を編み直して創り上げた、最初の海。

 天空の庭園から石の扉をくぐった先に広がるその空間は、数日のうちに二人の『新しい居場所』として完全に定着していた。

 真っ白な砂浜の上には、大賢者オズワルドたちが涙ぐましい努力の末に完成させた、世界最高峰の霊樹の寝台が鎮座している。その上では、ヴィデがいつものように灰色の外套を被り、完璧な波の音を子守唄にして深く心地よい微睡みに落ちていた。

 天封の機神が砂浜の端にパラソルを立て、冷たい果実水を準備している。蒼波の水竜は、海という自身の属性に近い環境に喜んで上空を静かに旋回していた。


「……冷たくて、気持ちいい」


 ラヴィーネ・イル・フェルマータは、海絹のドレスの裾を少しだけたくし上げ、波打ち際を裸足で歩いていた。

 寄せては返す透き通った波が、彼女の白い足首を優しく撫でていく。

 十年間、凍てつく塔の中で命を擦り減らしていた彼女にとって、この無菌状態の美しい海は、ただ歩いているだけで魂が浄化されるような心地よさがあった。

 彼女は気づいていなかったが、彼女が心から安らぎ、この海を愛おしいと思うたびに、彼女の体内に蓄積されていた特異な魔力――純粋な『生命の脈理』が、光の粉となって海へと溶け出していた。

 ヴィデが創り上げた海は、完璧な物理法則と美しさを持っていたが、そこにはまだ『生命』という複雑な結び目が存在していなかった。


 空っぽの、しかし極上の器。そこに、ラヴィーネという豊穣な命の源が注ぎ込まれたのだ。奇跡が起きないはずがなかった。


 ポコッ。


 ふと、ラヴィーネの足元で、水風船が弾けるような小さな音が鳴った。

 彼女が足を止めて見下ろすと、波打ち際の砂浜から、ソフトボールほどの大きさの『何か』が、ぷるんっと飛び出してきた。

 それは、透き通った淡い青色の、ゼリーのような質感を持つ球体だった。よく見ると、球体の中には星屑のような金色の粒子がキラキラと瞬いており、短い二本の触角のようなものが、ぴこぴこと愛らしく動いている。


「えっ……? なに、これ……」


 ラヴィーネが目を丸くして見つめていると、ポコッ、ポコポコッ、と連鎖的に音が鳴り、海の中から同じような青い球体が、次々と砂浜に飛び出してきた。

 十匹、二十匹、いや、もっと。彼らは砂浜に着地すると、まるで親鳥を見つけた雛のように、一斉にラヴィーネの足元へとぽよぽよと跳ねて群がり始めた。


 冷たくて柔らかい感触が、彼女の素足にすりすりと擦り寄ってくる。


「ひゃっ……くすぐったい……!」


 ラヴィーネは思わずしゃがみ込み、そのうちの一匹を両手でそっと掬い上げた。

 それは手のひらの上でぷるぷると震え、彼女の体温を感じ取るように、金色の粒子を明滅させて甘えるような仕草を見せた。

 彼女の特異な魔力感知能力が、この小さな生き物たちの正体を正確に告げていた。旧世界に存在したような、悪意や瘴気から生まれる魔物ではない。

 この海と、彼女自身の魔力が混ざり合って生まれた、完全な無垢。『星海月ほしくらげ』とでも呼ぶべき、新世界における最初の生命体だった。


「可愛い……。あなたたち、この海から生まれたのね」


 ラヴィーネは母性本能を激しくくすぐられ、星海月を愛おしそうに頬ずりした。他の星海月たちも、我も我もと彼女のドレスの裾に登ろうと、ぽよぽよと跳ね回っている。

 生命の存在しない真っ白な世界に、自分を慕ってくれる可愛らしい命が芽吹いた。その嬉しさに、彼女は寝台の方へ向かって弾んだ声を上げた。


「ヴィデ、ヴィデ! 見てください! 海から、こんなに可愛い子たちが……!」


 ――しかし。彼女の歓喜の声は、寝台から放たれた極めて冷たく、不機嫌な絶対零度のオーラによって、瞬時に凍りつくこととなった。


「……うるさい」


 寝台の上で、ヴィデがゆっくりと身を起こしていた。

 彼の漆黒の瞳は、ラヴィーネの周囲で跳ね回る無数の青い球体を、親の仇でも見るような、底知れぬ嫌悪と苛立ちを込めて見据えていた。


「ヴィ、ヴィデ……? どうかしましたか、そんな怖い顔をして……」

「怖い顔にもなる。俺が完璧な波の音を計算して編み上げた綺麗な海に、勝手に不純物が湧いているじゃないか」


 ヴィデは忌々しそうに舌打ちをして、寝台から砂浜へと降り立った。


「なんだそのゼリーの失敗作みたいなのは。俺はそんな見苦しい結び目を作った覚えはないぞ。それに、よりにもよって俺の枕にベタベタと引っ付きやがって」


 ヴィデの足取りは、あからさまに怒りを孕んでいた。

 彼は自分が創った空間に未知のノイズが生じたことにも苛立っていたが、それ以上に、ラヴィーネの満面の笑顔と関心が、自分以外の『得体の知れないゼリー』に向いているという事実が、彼の胸の奥の「解けない結び目」を猛烈に刺激していたのである。


「鬱陶しい。波の音が濁る。……全部解くか」


 ヴィデが無造作に右手を突き出し、その親指と中指をすり合わせた。

 彼が指を鳴らせば、この小さな命たちは、事象ごと完全に『なかったこと』にされてしまう。

 ラヴィーネは血相を変え、掬い上げていた星海月を胸に抱きしめながら、ヴィデの前に立ち塞がった。


「だ、ダメです! ヴィデ、お願いですから消さないで!」

「どけ。俺の安眠環境を汚す害虫は、早めに駆除するに限る」

「害虫じゃありません! この子たち……あなたには、わからないのですか!?」


 ラヴィーネは必死の形相で、胸に抱いた星海月をヴィデの目の前に突き出した。


「この子たちの核にある魔力の波長……。あなたが創ってくれた海の成分と、私の生命の脈理が、完全に混ざり合っているんです!」

「……は?」

「だから、この子たちは……私と、ヴィデの……私たち二人の魔力から生まれた、子供のようなものなんですよ!」


 ラヴィーネの叫びが、白い砂浜に響き渡った。


「……」


 ヴィデは、突き出された右手を空中で静止させたまま、完全にフリーズした。

 彼の絶大な感知能力は、もちろんその事実を最初から捉えてはいた。しかし、彼にとっての『魔力の混ざり合い』とは、単なる事象の化学反応でしかなかったのだ。

 それが、ラヴィーネの口から『子供のようなもの』という、あまりにも生々しく、そして強烈な意味を持つ言葉として出力された瞬間。


「……俺と、お前の……子供……?」


 ヴィデの口から、ひどく間抜けな声が漏れた。

 彼の漆黒の瞳が、ラヴィーネに抱かれている星海月をまじまじと見つめる。

 確かに、ベースとなっている事象の結び目は彼が編み上げた海のものだ。そこに、ラヴィーネの特異な波長が複雑に、しかし極めて自然に絡み合い、自律的な運動を始めている。

 つまり、物理的な行為こそないものの、魔術的な意味合いにおいては、間違いなく『二人の共同作業』によって生み出された存在だった。


「そんな……面倒な結び目を、俺が作ったというのか……」


 ヴィデは頭を抱え、忌々しそうに呻いた。

 彼にとって、世界を消し飛ばすことは容易い。しかし、ラヴィーネという絶対に解きたくない結び目から派生した存在を、彼女の明確な拒絶を押し切ってまで消し去ることは、彼の中の奇妙なルールが許さなかった。


「……チッ」


 ヴィデは大きく舌打ちをして、突き出していた右手を乱暴に下ろした。


「勝手にしろ。ただし、俺の寝台の半径三メートル以内には絶対に入れるな。あんな冷たくて湿ったゼリーが布団に張り付いたら、気持ち悪くて寝られないからな」

「ヴィデ……! ありがとうございます!」


 ラヴィーネは顔を輝かせ、星海月を抱きしめたまま嬉しそうに微笑んだ。

 ヴィデが「解く」ことをやめたのを察知したのか、足元で跳ねていた無数の星海月たちが、今度はヴィデの方へとぽよぽよと近寄ってきた。


「おい、来るな。寄るな。……冷たい。足にすり寄るなと言っているだろうが」


 ヴィデが不機嫌な声で追い払おうとするが、星海月たちは彼の言葉を全く理解していないのか、あるいは自分たちの『父親』であると本能で理解しているのか、彼の灰色の外套の裾に集まって、金色の光をチカチカと明滅させている。

 ヴィデは「鬱陶しい」と口では文句を言い続けていたが、決して力を使って彼らを蹴り飛ばすような真似はしなかった。

 ただ、ひどく面倒くさそうに、しかしどこか諦めたような顔で、足元にまとわりつく小さな命たちを見下ろしているだけだ。


「ふふっ。ヴィデ、すっかりお父さんですね」


 ラヴィーネがくすくすと笑いながら言うと、ヴィデは眉間を深く寄せて彼女を睨みつけた。


「ふざけるな。俺はただ、お前がうるさく泣き喚くと俺の昼寝の邪魔になるから妥協しただけだ。……それと、お前」

「はい?」

「そいつらの世話をするのは勝手だが、俺が寝る時はちゃんとお前が俺の枕になれよ。あのゼリーどもにばかり構って、俺の頭の沈み込みを疎かにしたら、今度こそ海ごと全部解くからな」


 それは、世界を滅ぼすほどの力を持ったアダムが、自分の創った子供たちに対して放った、あまりにも大人げなく、そして素直すぎる嫉妬の言葉だった。

 ラヴィーネは目を丸くした後、たまらず声を上げて笑い出した。


「あははっ! はい、もちろんです。私の特等席は、いつだってあなたの隣ですから」


 真っ白な砂浜と、透き通った海。永遠の箱庭から繋がれた新世界で、世界で最も理不尽な青年と、彼を愛した少女は、無数の小さな『家族』たちに囲まれながら、騒がしくも温かい午後を過ごしていた。

 彼が創り上げた白紙の世界は、彼女の笑顔と生命の息吹によって、少しずつ、しかし確実に、極彩色に彩られようとしていた。


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