第19話 白紙の終焉と、編み直される海
時間が固定された『天封の庭園』アルカディアにおいて、季節の移ろいや老いという概念はとうの昔に喪失していた。
天封の機神が淹れる紅茶は常に完璧な温度を保ち、蒼波の水竜が送る風は初夏の心地よさを永遠に循環させている。大賢者オズワルドとその高弟たちは、数え切れないほどの試行錯誤の末、ついに「神の背中を支えるにふさわしい」極上の反発力を持つ寝台を完成させ、現在は庭園の隅で悟りを開いたように無言で盆栽の手入れに没頭していた。
ヴィデが空間を切り取り、世界から隔離したこの箱庭は、絶対の平穏に包まれている。しかし、それはあくまで「庭園の内側」だけの話であった。
「……」
ある日の午後。ラヴィーネ・イル・フェルマータは、ヴィデが寝台で深い微睡みに落ちているのを見届けた後、そっと立ち上がって神殿の回廊へと足を向けた。
そこには、かつてヴィデが下界の空間を切り取って繋げた三つの石の扉が並んでいる。
『常春の水都』、『雪降る古都』、『そして潮騒の港町』
彼女はふと、あの香ばしい焼き菓子の匂いと、少し騒がしい人々の声が懐かしくなり、一番左にある水都への扉の取っ手に手をかけた。
ギィ、と。石の扉が重々しい音を立てて開く。しかし、ラヴィーネの目に飛び込んできたのは、見慣れた白亜のレンガの街並みでも、瑠璃色の大運河でもなかった。
「……え?」
扉の向こう側に広がっていたのは、ただ果てしなく続く『白』だった。
雪ではない。雲でも、光でもない。上下も左右もわからない、距離感すら喪失するような絶対的な『無』の空間。
音もなく、匂いもなく、温度すらない。
ラヴィーネは息を呑み、隣の古都への扉、そして港町への扉を次々と開け放った。
だが、結果は同じだった。どの扉を開けても、その向こう側にはただ不気味なほどの純白が広がっているだけだった。空間が切り取られたまま、繋ぎ先を見失って虚無に直結してしまっているのだ。
「そんな……街が、世界が……なくなって、しまったの……?」
ラヴィーネの唇から、震える声が漏れた。
彼女の特異な魔力感知能力が、残酷な真実を告げていた。扉の向こう側にあったはずの旧世界は、気の遠くなるような長い年月――数千年か、あるいは数万年か――を経て、星としての寿命を終え、宇宙の理に従って完全に崩壊し、原初の虚無へと還ってしまったのだ。
庭園の時間が止まっているため実感はなかったが、彼女たちが箱庭で穏やかな午後を過ごしている間に、外の世界は歴史を終え、全てが白紙に戻ってしまっていたのである。
ラヴィーネは胸の奥がキュッと締め付けられるのを感じた。宵の玻璃国の冷たい塔で死を待つだけだった彼女を、この箱庭に連れ出してくれたヴィデがいる。彼さえいれば、世界がどうなろうと絶望することはない。
それでも。あの賑やかな市場の景色や、風に揺れる花々、どこかの誰かが営んでいた確かな生の証が、永遠に失われてしまったという事実は、彼女の心に微かな、しかし拭い去れない『寂寥感』という名の波紋を広げた。
「……もう、あの甘いお菓子は、食べられないのですね」
ラヴィーネは真っ白な虚無に向かって、ぽつりと呟いた。
悲壮な涙は流れない。ただ、大切にしていた古い絵本が風化して砂になってしまった時のような、静かな哀悼だった。
――だが、その微かな心の波紋すらも、この箱庭の主にとっては『重大なエラー』であった。
「……おい」
背後から、ひどく不機嫌で、低い声が響いた。
ラヴィーネが弾かれたように振り返ると、神殿の回廊の入り口に、いつの間にか寝台から起き上がってきたヴィデが立っていた。
彼は忌々しそうに頭を掻き毟りながら、ズカズカとラヴィーネの傍まで歩み寄ってくる。
「ヴィデ……起こして、しまいましたか?」
「当たり前だ。お前が変な糸を絡ませて、空間をざわつかせるから、せっかくオズワルドの奴らが作った寝台の沈み込みが台無しになった」
ヴィデはラヴィーネの隣に立つと、開け放たれた三つの扉の向こう側――果てしない純白の虚無を、ただ退屈そうに見つめた。
世界が終焉を迎えたという事実を前にしても、彼の漆黒の瞳には一切の驚きも感慨も浮かんでいない。
「……外の布地が、完全に溶けて無くなったか。まあ、作りの甘い世界だったからな。よく持った方だろう」
「ヴィデは……外の世界が、いつかこうなるって、わかっていたのですか?」
「糸が古びて解れかけているのは知っていた。だが、俺たちの庭には関係のないことだ。……お前が、そんなつまらない顔をしなければな」
ヴィデの言葉に、ラヴィーネはハッとして俯いた。
「ごめんなさい……。私、あなたがいてくれるだけで十分なのに。ただ、少しだけ……もう一度、あの綺麗な海や、風の匂いを感じたかったなと、我儘なことを考えてしまって……」
「我儘だろうが何だろうが、お前が退屈そうにしていると、俺の胸の奥の結び目がチクチクして眠れないんだ。それが一番の問題だ」
ヴィデは心底面倒くさそうにため息をつくと、真っ白な虚無が広がる扉の境界線に、無造作に右手を突き出した。
「古い布が溶けて無くなったなら、新しい糸で編み直すしかないだろう」
「え……?」
ラヴィーネが目を丸くする前で、ヴィデは空中で見えない糸を摘むように、指先をほんの少しだけ動かした。
パチン。乾いた音が、純白の世界に響き渡る。
「お前は、何が見たい。海か、山か、それとも街か」
「あ……えっと……そ、それなら……海が、見たいです。港町で見たような、果てしなく青い……」
ラヴィーネが戸惑いながら答えると、ヴィデは「ふむ」と短く頷いた。
「なら、まずは水と、光の屈折から結び直すか」
ヴィデの両手が、空中で目にも止まらぬ速度で動き始めた。
それは、かつて神々の牢獄を破った時や、迫り来る深淵を切り離した時の『力任せの解縛』ではない。
無から有を紡ぎ出す、極限まで繊細で、緻密な『事象の編み上げ』だった。
彼が指を弾くたびに、扉の向こう側の純白の空間に、強烈な色彩が爆発的に弾け飛んだ。
バチンッ! パチンッ! パララララッ!
虚無の中に『青』が縫い付けられる。
光の粒が空中に固定され、太陽という概念が新たに結び直される。そして、何もない空間に途方もない質量の『水』が編み出され、重力という糸によって下方に固定された瞬間、ザザァァァンッ! という清冽な波の音が、新世界に初めて響き渡った。
「な……っ」
ラヴィーネは、目の前で繰り広げられる神の御業に、呼吸を忘れて見入っていた。
ものの数分の出来事だった。開け放たれた石の扉の向こう側に、どこまでも続く、宝石のように透き通った青い海が広がっていたのだ。
足元には、雪のように白い砂浜が波に洗われている。吹き抜ける風は、ほんのりと潮の香りを帯び、生命の誕生を予感させるような瑞々しさに満ちていた。かつての港町のような喧騒も、人の営みもない。
ただ、絶対的に美しく、純粋で無垢な『新しい海』が、ヴィデの手によって真っ白なカンバスの上に直接描き出されたのである。
「……とりあえず、こんなものか」
ヴィデは軽く手を払うと、自分がたった今創り上げた新しい海を、ひどくつまらなそうに一瞥した。
「まだ海と砂浜だけだが、波の音は悪くない。潮風も、前の港町のドブ臭さがなくて澄んでいる。……ほら、お前が海を見たいと言ったんだ。行ってみろ」
ヴィデに促され、ラヴィーネは恐る恐る、石の扉の境界線を越えて、新しい世界の白い砂浜へと足を踏み入れた。
キュッ、と砂が鳴る。足元に寄せてきた透き通った波が、海絹のドレスの裾を少しだけ濡らした。冷たくて、気持ちいい。それは紛れもなく、本物の海だった。
「ヴィデ……! すごいです、これ……本当に、あなたが……全部、たった一人で……!」
ラヴィーネは波打ち際で振り返り、瞳をキラキラと輝かせてヴィデを見た。
十年前の彼女であれば、この光景を恐れ慄いていただろう。しかし今の彼女は、愛する青年の途方もない力が、自分のためだけに使われたという事実が、ただただ嬉しかった。
ヴィデは回廊の柱に寄りかかりながら、波とはしゃぐラヴィーネの姿を見て、微かに口角を上げた。
「……まあな。お前の心の結び目が解けて、笑顔になったならそれでいい。……よし、波の音が心地いいから、今日はこの扉の近くに寝台を移動させるか。オズワルド! 寝台をここまで運べ!」
背後から「ヒィィッ! 直ちに!」という大賢者の情けない声が響く。
ラヴィーネはふふっと笑いながら、再び新しい海へと向き直った。
彼女は気づいていなかった。かつて国を守るために酷使され、箱庭に来てからは行き場を失っていた彼女の特異な魔力――純粋すぎる『生命の脈理』が、彼女の足元から、この無菌状態の新しい海へと、微かな光の粒となって溶け出していることに。
事象の編み手であるヴィデの創造と、生命の器であるラヴィーネの魔力。二人の無自覚な愛の交わりが、この真新しい海に、やがて来る『新しい生命』の種を静かに蒔き始めているという奇跡に。
永遠の箱庭から繋がれた、たった一つの扉。そこから始まるささやかで途方もない創世の物語は、まだ波の音しか知らない静かな海辺で、穏やかに幕を開けたのだった。




