第18話 永遠の箱庭と、解かない結び目
世界の理から完全に切り離され、時の流れすらも固定された絶対不可侵の領域。かつて神々の遺産と呼ばれた『天封の庭園』は、今や一人の青年と彼が選んだ少女のための、完璧で永遠の箱庭として完成していた。
空はどこまでも高く透き通った青を保ち、太陽は常に最も心地よい午後の日差しを降り注いでいる。天候が崩れることも、夜の冷え込みが訪れることも二度とない。
その庭園の端では、今日も小気味良い木槌の音が響いていた。
「……もう少し右だ、オズワルド。主の御背中を支える寝台の骨組みなのだから、一ミリの狂いも許されんぞ」
「わかっている! しかし、世界最高峰の霊樹の木材を、魔術を使わずに手鋸で挽くのは骨が折れるのだ……ッ!」
大陸最高峰の知と魔力を誇る『賢者連盟』の大賢者オズワルドと、その高弟たちが、汗と泥にまみれながら木工作業に没頭していた。
彼らはヴィデの「芝生の上もいいが、そろそろ完璧な反発力を持つふかふかの寝台が欲しい」という何気ない呟きを神託として受け取り、己の存在意義を懸けて最高級のベッドを自作しているのである。少しでも魔法の駆動音を立てれば存在ごと消し去られるため、彼らは人類の英知を全て「極上の寝具作り」という手作業に注ぎ込んでいた。
「ふむ、良い香りです。マスターとラヴィーネ様のお茶の時間に、完璧な温度で焼き上がる計算ですね」
神殿の回廊では、天封の機神が、古代の魔力炉をオーブン代わりにして、芳醇なバターと果実の香りが漂うケーキを焼き上げていた。
上空では、蒼波の水竜が、絶妙な湿気と温度を保った極上の微風を、一切の羽音を立てずに送り続けている。
世界を滅ぼすほどの力を持った存在たちが、ただ一人の青年の安眠と、彼に寄り添う少女の笑顔のために、一切の妥協なく己の機能を全うしている。
それは客観的に見ればあまりにも理不尽で、狂気的すらある光景だったが、この箱庭においては、どこまでも平和で穏やかな日常の一部に過ぎなかった。
やがて、庭園の空間に設置された三つの石の扉のうち、一つが軽やかな音を立てて開いた。
常春の水都へと繋がるその扉から、海絹のドレスをふわりと揺らして、ラヴィーネ・イル・フェルマータが帰ってきた。
彼女の両手には、水都の市場で買ってきた色鮮やかな花束と、ヴィデのお気に入りである琥珀色の糖衣がかけられた焼き菓子が抱えられている。
「ただいま戻りました、ヴィデ。今日は市場で、とても甘そうな林檎が安く――」
ラヴィーネは笑顔で言いかけて、言葉を止めた。
庭園の中央、最も日当たりの良い芝生の上で、ヴィデが寝転がっているのはいつものことだ。しかし、彼は眠っていなかった。
体を起こし、片膝を立てた姿勢で、彼にしては珍しく、ひどく真剣な……あるいは、ひどく不機嫌そうな顔をして、自分の手のひらをじっと見つめていたのだ。
「ヴィデ? どうかしたのですか?」
「……遅い」
ヴィデが顔を上げ、ラヴィーネを睨みつけた。
「暗くなる前には戻ると言っただろう。空間の繋がりの向こう側で、お前の波長が別の人間と交差するたびに、俺の胸の奥がチクチクして落ち着かなかった」
「あ……ご、ごめんなさい! お花屋さんのご婦人と、少し長話をしてしまって……」
ラヴィーネは慌てて花束を抱き直し、小走りでヴィデの傍へと駆け寄った。
彼女は芝生の上に正座し、ヴィデの顔色を窺う。ヴィデが怒っているのではないことは、もうわかっていた。彼はただ、彼女の気配が少しでも自分の手の届かない場所にあることが、不満で仕方ないのだ。
世界を切り離し、永遠の時間を手に入れてなお、彼の中にある『独占欲』という名の結び目だけは、日を追うごとに強く、複雑に絡まり続けていた。
「……花なんか買ってきたのか。そんなものを置いたら、虫が寄ってくるかもしれないだろう」
ヴィデはぶっきらぼうに言いながらも、ラヴィーネが抱える花束から数本を無造作に抜き取り、指先で軽く弾いた。
パチン。
小さな音が鳴ると、花の細胞が完全に固定され、永遠に枯れない、そして虫も寄らない完璧な装飾品へと事象が書き換えられた。
「これでいい。機神、花瓶にでも挿しておけ」
『御意、マスター。ケーキと紅茶の準備も整っております』
機神が音もなく近づき、芝生の上に純白のクロスを敷いて、湯気を立てる紅茶と美しいケーキを並べた。
ラヴィーネは、ヴィデが文句を言いながらも自分の買ってきた花を大切に扱ってくれたことに、胸の奥が温かくなるのを感じた。
「ありがとうございます、ヴィデ。……お茶にしましょうか」
ラヴィーネが微笑みかけると、ヴィデは小さく息を吐き、紅茶のカップを手に取った。
二人は並んで座り、機神の焼いた完璧なケーキと、下界の焼き菓子を味わいながら、穏やかなティータイムを過ごした。
大賢者たちの鋸の音が遠くで規則正しく響き、水竜の風が紅茶の湯気を優しく散らしていく。
何気ない、しかし十年前のラヴィーネには想像もできなかった、途方もなく贅沢な時間。
「……美味しいですね」
ラヴィーネが紅茶を啜りながら呟くと、ヴィデはカップを置き、じっと彼女の横顔を見つめた。
透き通るような銀髪と、過去の呪縛から完全に解放された、柔らかく穏やかな微笑み。
彼女が笑うたびに、ヴィデの胸の奥にあるチクチクとした不快感は消え去り、代わりに、どうしようもなく深く、重い『何か』が根を下ろしていくのを感じた。
「……おい」
ヴィデが、不意に低い声で呼んだ。
「はい?」
ラヴィーネが首を傾げて彼を見ると、ヴィデは少しだけ気まずそうに目を逸らし、懐から何かを取り出した。
それは、庭園の端で光を放っている純度の高い魔力結晶の欠片……ではなく、その欠片を、ヴィデ自身の力で極限まで圧縮し、事象を編み直して作り上げた、一つの小さな『指輪』だった。
星屑を固めたような、淡く、しかし絶対に砕けない光を放つ銀色の輪。
「ヴィデ……それは?」
ラヴィーネが目を丸くすると、ヴィデは忌々しそうに頭を掻き毟った。
「下界の連中は、こういう面倒な結び目を作って、相手の空間を自分に固定するらしいな。……市場を覗いた時に、そんなことを言っている奴らがいた」
「え……?」
ヴィデはラヴィーネの左手をとると、無造作に、しかし傷つけないように細心の注意を払って、その薬指に指輪を嵌めた。
ひんやりとした結晶の感触と、彼の手の温もりが、ラヴィーネの指先に伝わる。
「お前が下界に行くたびに、俺の気が散る。誰かがお前に見えない糸を伸ばすのも鬱陶しい。だから……」
ヴィデは、漆黒の瞳でラヴィーネを真っ直ぐに見据えた。
そこには、世界を滅ぼす深淵を前にしても揺らがなかった彼が、生まれて初めて抱いた、不器用で、しかし絶対的な『執着』が宿っていた。
「これで、お前は完全に俺の空間に固定された。……もう、どこかの馬鹿がお前に声をかけることもないだろうし、お前が俺の傍を離れることも物理的に不可能になった。俺の安眠のためには、お前がずっと隣で笑っていないと困るからな」
それは、彼なりの、彼にしかできない、最高に身勝手で不器用なプロポーズだった。
ラヴィーネは、自分の薬指で瞬く星屑の指輪と、少しだけ頬を赤らめてそっぽを向いているヴィデの横顔を見て、瞳から大粒の涙をポロポロと溢れさせた。
悲しいわけではない。十年間の孤独と恐怖を全て塗り潰すほどの、圧倒的な幸福感。彼女は涙を拭うこともせず、ヴィデの胸に思い切り飛び込んだ。
「……っ、おい! 急に飛びつくな、お茶がこぼれるだろうが!」
「ふふっ……あははっ! はい、私、どこにも行きません……! ずっと、ずっと、あなたの隣で、あなたの枕でいます!」
ラヴィーネはヴィデの灰色の外套に顔を埋め、子供のように声を上げて笑った。
ヴィデは文句を言いながらも、決して彼女を突き放すことはせず、背中に回した腕にギュッと力を込めた。
「……当たり前だ。俺が結んだんだ。この世のどんな理不尽が襲ってきても、この結び目だけは、俺自身にも絶対に解けない」
彼はラヴィーネの銀髪にそっと顎を乗せ、目を閉じた。彼の絶大な能力は、万物の事象を『解く』ことだった。しかし、彼が永遠の時間を切り取ったこの箱庭で、最後に選び取ったのは、ただ一人の少女との繋がりを永遠に『結びつける』ことだったのだ。
「……大賢者! 寝台はまだできないのか! 俺はもう眠いんだ!」
「ヒィィッ! も、申し訳ございません主よ! あと少し、あと数ミリの調整で極上の反発力が……ッ!」
遠くで響く大賢者の悲鳴に、ラヴィーネがまた吹き出す。
水竜が心地よい風を送り、機神が静かにティーカップを下げる。
世界で最も規格外で、最も身勝手な青年の、永遠に続く完璧な昼寝の時間。彼が守り抜いた絶対の箱庭で、解けない結び目を薬指に光らせた少女は、いつまでもいつまでも、心からの笑顔を咲かせ続けていたのだった。




