第17話 深淵の呼び声と、永遠の箱庭
宵の玻璃国の王が去り、天空の庭園には再び穏やかな時間が戻っていた。
ラヴィーネ・イル・フェルマータは、自身の言葉がもたらした確かな熱を胸に抱きながら、膝の上で微睡む青年の黒髪を優しく撫でていた。彼が自分を連れ戻しに来てくれたこと。そして、彼が作るこの理不尽なまでの平穏が、自分を守るために存在していること。その事実だけで、彼女の魂は満たされていた。
このまま、何も変わらない幸福な午後が永遠に続けばいい。そう願った、まさにその時だった。
ピシィィィィィッ……!! 鼓膜を突き破るような、世界そのものが悲鳴を上げるような凄まじい亀裂音が、天空の庭園全体に響き渡った。
「えっ……?」
ラヴィーネが空を見上げると、澄み切っていた青空のど真ん中に、巨大な黒い亀裂が走っていた。まるで、薄いガラスの天井に無慈悲な一撃が加えられたかのように。
亀裂はみるみるうちに蜘蛛の巣状に広がり、その隙間から、光すらも呑み込む『漆黒の泥』のような虚無が、どろどろと溢れ出し始めた。
庭園の空気が一変する。先程まで心地よかった微風が、絶対零度の冷気と、内臓を直接鷲掴みにされるような凄まじい重圧に変わった。
空中で羽ばたいていた蒼波の水竜が「ギィィヤァァァッ!」と悲鳴を上げて芝生に墜落し、ガタガタと震え出す。庭の手入れをしていた天封の機神すらも、『エラー、次元の崩壊を検知。対処不能……』と無機質な音声を漏らしてその場に膝をついた。
「な、なんだあれは!? 空が、世界がひび割れているぞ!」
庭の隅で雑草を抜いていた大賢者オズワルドが、絶望に満ちた声を張り上げた。
彼のような最高位の魔術師には、あの黒い亀裂の向こう側にあるものが何なのか、直感的に理解できていた。
「次元の境界が崩落している……! あれは世界の裏側、全てを無に帰す原初の混沌、神々の牢獄そのものではないか! なぜ、あのようなものがここに顕現するのだ!」
オズワルドの叫びが示す通り、空の亀裂から溢れ出す漆黒の泥は、魔術や物理法則が一切通用しない純粋な『虚無』だった。触れた端から雲海を消滅させ、天空の庭園の端を削り取りながら、無慈悲に迫り来る。
それは、宇宙規模の理不尽な修復力だった。かつて、その極限の混沌世界から這い出してきた規格外の異物――ヴィデという存在が、この世界に『ラヴィーネ』という明確な執着を持ち、完全に根を下ろそうとしたことで、世界そのものが彼という劇薬の質量に耐えきれなくなり、彼を元の牢獄へと引きずり戻そうと機能し始めたのだ。
空の亀裂はさらに拡大し、巨大な顎のように浮遊島全体を飲み込もうと口を開く。世界が終わる。誰もがそう確信した。
「……ッ」
ラヴィーネは恐怖に息を呑みながらも、逃げ出そうとはしなかった。
彼女は両腕で、自らの膝の上に頭を乗せているヴィデの体を、しっかりと抱きしめた。
たとえ世界が虚無に飲み込まれようとも、彼が隣にいるのなら、彼と同じ場所で消滅できるのなら、それでいい。彼女の心には、十年間塔で死を待っていた時とは全く違う、静かで強固な覚悟があった。
しかし。彼女の膝の上から、世界が終わるというこの極限状況において、最高に間の抜けた、そして不機嫌極まりない声が響いた。
「……冷たいじゃないか」
ヴィデが、ゆっくりと目を開けた。
空からこぼれ落ちた虚無の泥の冷気が、彼の頬を掠めたのだ。
彼はラヴィーネの膝から頭を上げると、面倒くさそうに首を鳴らして立ち上がった。そして、空を覆い尽くそうとしている絶望的な宇宙の亀裂を、まるで『天井の雨漏り』でも見つけたかのような、ひどく忌々しそうな目で見上げた。
「ヴィ、ヴィデ……! 空が、崩れて……」
「ああ、見ればわかる。この世界の空間の布地は、本当に作りが甘い」
ヴィデは大きな欠伸をしながら、乱れた黒髪を掻き毟った。
「俺が少し、この場所の居心地が良くなったから長居しようとした途端、重さに耐えきれずに底が抜けそうになっている。……俺という質量を支えきれないなら、最初からそんな脆い糸で世界を編むな」
彼は心底呆れたように吐き捨てた。
世界を飲み込もうとする深淵の意思など、彼にとっては『建付けの悪い家』に対する文句程度の意味しか持っていなかった。
ヴィデはラヴィーネを背後に庇うように立つと、両手をゆっくりと上空へ向けた。
「せっかくお前が俺の枕になると言ったんだ。それに、この芝生も、せっかく機神に刈らせて良い匂いがしている。……上から汚い泥をこぼして、俺たちの昼寝の時間を邪魔するな」
ヴィデの両手が、空中の『何もない空間』をガシリと掴んだ。
これまで彼が見せてきた、指先で軽く弾くような気まぐれな仕草ではない。彼がかつて神々の牢獄を破った時以来の、本気の事象干渉だった。
ヴィデが両腕に力を込め、空中に向かって、布を無理やり引き裂き、そして縫い合わせるような強引な動作を行った。
「俺はこの庭ごと、この脆い世界から『切り離す』」
ギヂィィィィィッ!! 空から溢れ出していた漆黒の泥が、ピタリと動きを止めた。いや、止まっただけではない。ヴィデが空間を掴む両手を凄まじい力で捻り上げた瞬間、天空の庭園を包み込んでいた次元の境界そのものが、文字通り『世界の布地から切り抜かれた』のだ。
大賢者たちは、自分たちの足元が、世界という巨大な織物からハサミで切り取られ、完全に独立したパッチワークとして空中に放り出されたのを肌で感じ取った。
「な、何をしているのだあの男は!? 空間を……世界から、この島だけを物理的に隔離したというのか!?」
驚愕はそれだけでは終わらない。ヴィデは切り離した庭園の空間の『縁』を、再び両手で掴み直した。
「結び目が甘いから泥が漏れるんだ。……二度と解けないように、時間の流れごと、この空間を硬く結び直してやる」
パチン、パチン、パチン、パチン!
ヴィデの十本の指が、空中で目にも止まらぬ速度で弾かれ、無数の破裂音が連鎖して鳴り響いた。
彼が弾くたびに、上空の黒い亀裂が、まるで巨大な見えない糸で無理やり縫い合わされていくかのように、強引に塞がれていく。
漏れ出していた虚無の泥は、事象の再構築に巻き込まれ、無害な光の粒子へと変換されて芝生の上に降り注いだ。
「これで、終わりだ」
最後にヴィデが大きく両手を柏手のように打ち合わせた瞬間。
バァァァンッ! という澄んだ音が世界を震わせ、上空の亀裂は完全に消滅した。それと同時に、天空の庭園の周囲を覆っていた雲海が、透き通るような絶対的な青空へと一変した。
太陽の光は今まで以上に暖かく、吹き抜ける風は完璧な心地よさを保っている。しかし、そこにはもう、下界の気配も、時の流れを刻む太陽の動きすらも存在していなかった。
ヴィデは、迫り来る深淵を押し返しただけでなく、この浮遊島を現在の次元から完全に切り抜き、時間の概念すら固定された『絶対不可侵の独立した小宇宙』として完成させてしまったのである。
「……ふむ。少し手間がかかったが、これでいい」
ヴィデは両手を軽く払い、満足げに頷いた。
「もう二度と、空が割れることも、天気が崩れることもない。扉を開ければ下界には行けるが、下界の理不尽がこの庭に干渉してくることは永遠にない。……完璧な、俺とお前だけの昼寝場所だ」
「ヴィデ……」
ラヴィーネは、震える足で立ち上がると、そのまま彼の背中に抱きついた。
世界が崩壊する恐怖よりも、彼が自分のために、文字通り世界を切り離してまでこの居場所を守ってくれたことへの途方もない幸福感が、彼女の全身を貫いていた。
「……なんだ。泣いているのか。どこか痛かったか?」
ヴィデが不器用に振り返り、彼女の銀糸の髪を撫でる。
ラヴィーネは彼の胸に顔を押し付けたまま、首を横に振った。
「いいえ……。ただ、嬉しくて。あなたが、私と一緒にいる世界を……選んでくれたことが」
彼女の言葉に、ヴィデはほんの少しだけ目を丸くし、やがて呆れたように小さく息を吐いた。
彼は何も言わず、ただ彼女の背中に回した腕に、優しく、しかし絶対に離さないという強い力を込めた。
庭の隅では、大賢者たちが「我々は、神が新たな世界を創世する瞬間に立ち会ってしまった……」と涙を流してひれ伏し、水竜と機神が安堵の息を漏らしている。
宇宙規模の脅威を、極小の日常を守るためだけに圧倒的なスケールでねじ伏せた青年。彼はラヴィーネを抱きしめたまま、静かな声で言った。
「……さあ、昼寝の続きだ。少し疲れたから、今日は長めに寝るぞ」
「はい……ずっと、ずっと、お側にいます」
永遠に時が止まり、永遠に平和が続く絶対の箱庭で。
世界で最も強大で不器用な青年と、彼を愛した一人の少女の、誰にも邪魔されることのない穏やかな午後が、ここから静かに、そして果てしなく続いていくのだった。




