第16話 凍夜の王と、解けない告白
神々の遺産たる『天封の庭園』アルカディアは、今日も絶対的な平穏の中にあった。
天封の機神が淹れた紅茶の香りが微風に乗り、蒼波の水竜が送る柔らかな風が、広大な芝生を緑の波のように揺らしている。
その中央で、ラヴィーネ・イル・フェルマータは静かに目を閉じ、自身の膝の上で規則正しい寝息を立てるヴィデの温もりを感じていた。
港町での一件以来、彼女の胸の奥には、彼に対する確かな想いが温かい炎のように灯り続けていた。彼は「安眠のため」としか言わないが、その理不尽なまでの無関心の中に、自分だけを守ろうとする強烈な独占欲が隠されていることを、彼女はもう知っている。
世界中のどこを探しても、この無愛想な青年の隣ほど、自分を無条件で肯定してくれる場所はないのだと。
――しかし、その絶対の箱庭に、突如として不協和音が響き渡った。
ビキィィィッ……! 空間が硝子のようにひび割れる、鋭い音が響いた。
ラヴィーネが弾かれたように目を開けると、ヴィデが大陸各地の街と繋いでいた三つの石の扉のうち、雪降る古都へと繋がっていた扉が、不自然な赤黒い光を放って明滅していた。
本来の空間の繋がりが、外部からの凄まじい魔力干渉によって強引に『上書き』されようとしているのだ。
扉の向こうの景色が歪み、極北の吹雪と、濃密な魔力の気配が押し寄せてくる。そして、赤黒い光を放つ扉の中から、数名の重武装の騎士たちに守られるようにして、一人の男がゆっくりと歩み出てきた。
豪奢な毛皮の外套を羽織り、白髪の混じった金糸の髪と、氷のように冷徹な青い瞳を持つ、威厳に満ちた初老の男。
彼が現れた瞬間、ラヴィーネの全身の血の気が引き、心臓が凍りつくような悪寒が走った。
「……お父、様……」
宵の玻璃国の絶対的統治者であり、ラヴィーネの実の父親。『凍夜の王』ヴィルヘルム・イル・フェルマータ、その人であった。
黒曜の砦の守備隊長や、王属特務騎士団の報告を受けた王が、国家の威信と全魔力技術を懸け、ヴィデの空間の繋がりに逆探知を仕掛け、自らこの天空の庭園へと踏み込んできたのである。
「……探したぞ、ラヴィーネ」
ヴィルヘルムの低く冷たい声が、庭園の空気を一瞬にして凍らせた。
端の方で草むしりをしていた大賢者オズワルドたちが、一国の王の登場に驚愕して顔を上げたが、ヴィデの「静かにしろ」という命令を思い出し、恐怖に震えながら再び無言で雑草を引き抜く作業に戻っていく。
「我が国の最高魔術師たちが、命と引き換えに空間の歪みをこじ開けてくれた。まさか、お前がこのような神域で、見ず知らずの男の膝枕などしているとはな」
ヴィルヘルムの青い瞳が、ラヴィーネと、彼女の膝で未だ目を閉じたままのヴィデを射抜いた。
その視線には、娘への愛情など微塵もない。あるのは、国家の所有物である『優れた魔力炉』が逃亡したことへの純粋な怒りと、王族としての体面を汚されたことへの侮蔑だけだった。
「お前は、己の使命を忘れたか。お前がその男の力に誑かされ、結界の維持を放棄したせいで、今や我が国はいつ瘴気に呑まれるとも知れぬ恐怖に怯えているのだぞ」
「それは……っ」
ラヴィーネは息を呑んだ。
ヴィデが塔の周辺の瘴気を消し去ってくれたとはいえ、国境線全体が安全になったわけではない。王の言葉は、十年間彼女を縛り付け、彼女の魂の奥底に刻み込まれた『罪悪感』という名の古い傷を、容赦なく抉り出してきた。
「目を覚ませ、ラヴィーネ。その得体の知れない悪魔は、お前を自由にしたのではない。お前という特異な魔力を持つ玩具を、自らの傍に置いて弄んでいるだけだ。お前にとって、それは真の安寧か? 十年の献身を無にし、国を滅ぼした大罪人として、その男の籠の鳥になることが、お前の望みなのか!」
王の言葉は、魔術以上の呪いとなってラヴィーネを絡め取ろうとした。
血の繋がり。国家への忠誠。見捨てた民の命。無数の『見えない糸』が、大蛇のように彼女の心に巻き付き、その呼吸を奪おうとする。彼女の細い肩が小刻みに震え、膝の上に乗せている手が、無意識に強く握りしめられた。
――だが。
「……あぁ、本当に。人間というのは、どうしてこうも同じ過ちを繰り返すんだ」
極めて不機嫌な、地を這うような低い声。
ラヴィーネの膝の上で、ヴィデがゆっくりと目を開けた。
彼は忌々しそうに首を鳴らしながら体を起こすと、目の前で偉ぶっている宵の玻璃国の王を、道端の小石以下のものを見るような、徹底的に冷ややかな目で見据えた。
「お前がペラペラとつまらない言葉を吐くたびに、こいつの心がざわついて、俺の枕が揺れる。……血の繋がりという結び目は、感情の糸が複雑に絡まっていて非常に鬱陶しいが……物理的にその口を消し去れば、少しは静かになるだろう」
ヴィデが、無造作に右手を突き出した。
彼の漆黒の瞳に、明確な『排除』の意志が灯る。大賢者の艦隊すら「蚊」として処理した彼にとって、一国の王とその近衛など、指先一つで事象ごと消滅させられる塵に等しい。
パチン、と指を鳴らそうとした、その瞬間。
「……待って。ヴィデ」
温かく、しかし震えのない両手が、ヴィデの突き出した右手をそっと包み込んだ。
ヴィデが僅かに目を見開いて振り返ると、そこには、立ち上がったラヴィーネの姿があった。
彼女はヴィデの手をしっかりと握ったまま、かつて恐怖の対象でしかなかった実の父親、ヴィルヘルム王を真っ直ぐに見据えていた。その青い瞳には、もう過去の呪縛に怯える少女の面影はない。
「お父様。……いいえ、ヴィルヘルム王」
ラヴィーネの声は、天空の庭園の澄んだ空気の中で、凛と響き渡った。
「私は、誑かされてなどいません。籠の鳥でも、玩具でもありません。私は、私自身の意志で……私が心から望んで、この方の隣にいるのです」
「何だと……? 正気か、お前は! 国を、民を見捨てるというのか!」
「見捨てたのではありません。私は十年間、命を削って国を守りました。……もう、十分です。私の命は、私のためのものです」
彼女の言葉に、王は絶句した。
彼が知るラヴィーネは、常に怯え、自己犠牲を強要されても俯いて受け入れるだけの人形だった。その人形が、自分の意志で、自分を所有物として扱ってきた王に対し、明確な『拒絶』を突きつけたのだ。
「それに」
ラヴィーネは、握りしめていたヴィデの手を、さらに強く自分の胸に引き寄せた。
「私は、この方を愛しています」
はっきりと、何の淀みもなく紡がれた言葉。それは、世界で最も強大な力を持つ青年に向けられた、これ以上ないほど純粋で、そして強固な愛の告白だった。
「この方は、私に何も求めませんでした。ただ『そこにいて、静かに笑っていればいい』と言ってくれました。私の命も、魔力も、義務も……全てを解いて、ただの『私』として扱ってくれた。……私は、自分の命の全てを懸けて、この方の作る静かな居場所を守りたいのです。だから、お父様……もう、私に関わらないでください」
ラヴィーネの宣言は、どんな極大魔術よりも強力な『結び目』として、彼女自身の存在をヴィデの隣へと完全に固定した。
ヴィルヘルム王は、怒りで顔を真っ赤に染め、震える指でラヴィーネを指差した。
「この、愚か者めが……ッ! ならばもう良い! 国を捨てた裏切り者として、その悪魔もろとも、我が国が誇る全魔術で――」
「……もう、いいだろう」
ヴィデの静かな声が、王の怒号を遮った。
彼はラヴィーネに握られた右手をそのままに、空いている左手を軽く王の方へと向けた。しかし、それは彼が普段行うような『事象の破壊や改竄』のための動きではなかった。
「あいつが、ああ言っている。お前の持つ古臭い糸は、こいつの心にはもう一本も絡まない。……用が済んだなら、さっさと自分の部屋に帰れ」
ヴィデが左手の指を軽く弾く。
直後、王たちの背後にあった石の扉が、強烈な引力を伴って周囲の空間を吸い込み始めた。
王と近衛たちは抵抗する間もなく、赤黒く明滅していた空間の歪みごと、元の極北の古都へと吸い込まれ、扉は音を立ててピシャリと閉ざされた。
扉が閉まった瞬間、赤黒い光は消え失せ、空間の繋がりはヴィデの意思によって完全に『遮断』された。もう二度と、あの扉から宵の玻璃国の者が干渉してくることはない。
庭園に、再び完全な静寂と、柔らかな風が戻ってきた。
「……」
ラヴィーネは大きく息を吐き、緊張が解けたのか、ふらりと膝から崩れ落ちそうになった。それを、ヴィデが空いている左腕で無造作に支え、抱き留める。
「……随分と、はっきり言ったな」
ヴィデは、未だに自分の右手を強く握りしめているラヴィーネを見下ろして言った。
その声は、いつもよりも僅かに低く、しかし不機嫌さは全く消え失せていた。
ラヴィーネはハッとして自分の行動の大きさに気づき、顔を真っ赤にしてヴィデの胸に顔を埋めた。
「あ、あの……ごめんなさい、私、勝手なことを……」
「謝るな。俺の枕が、どこかの知らんジジイに持っていかれるのは困るからな。お前が自分で線を引いてくれたなら、それに越したことはない」
ヴィデはそう言いながら、彼女の背中に回した腕の力を、少しだけ強めた。
彼女の「愛している」という言葉は、見えない糸どころか、太く強固な鎖となって彼の胸の奥を締め付けていた。しかし、不思議とそれは息苦しくなく、むしろ、かつてないほどの『温かさ』と『安心感』を彼に与えていたのである。
「……あいつも、ああは言ったが、国が滅びればまたうるさい連中が湧いてくるかもしれない。気が向いたら、あの国の国境付近の空間の皺を、少しだけ伸ばしに行ってやってもいい」
それは、彼なりの最大の譲歩であり、ラヴィーネの過去に対する不器用な労いだった。ラヴィーネは彼の胸の中で、涙を浮かべながら嬉しそうに微笑んだ。
「はい……。ありがとうございます、ヴィデ」
世界の理をねじ曲げる青年と、国を捨てた少女。神々の庭園で、二人は初めて互いの心に存在する『絶対に解けない結び目』を確かめ合うように、静かに身を寄せ合っていた。




