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《完結》事象を解く者は、ただ静かに眠りたい ~絶対零度の公女と歩む、箱庭スローライフ~  作者: ひより那
眠りの美女

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第15話 潮騒の港町と、解けない結び目

 神々の遺産たる『天封の庭園』アルカディアに、空間を繋ぐ石の扉が設置されてから数日が経過していた。

 かつて国境の塔に縛り付けられ、外の世界を知らずに死を待つだけだったラヴィーネ・イル・フェルマータにとって、その扉の向こう側に広がる世界は、まさに奇跡の連続だった。


 常春の水都で焼き立ての菓子を買い、雪降る古都で美しい硝子細工を眺め、活気ある港町で潮の香りに包まれる。彼女は、ヴィデが用意してくれた『切り貼りの箱庭』を、まるで新しいおもちゃを与えられた子供のように満喫していた。


「ヴィデ、今日は港町の方へ行ってきますね。あなたが気に入っていた、あの海鮮の串焼きと……あと、新しい茶葉も見てこようと思います」


 その日の午後。ラヴィーネは海絹のドレスの裾を翻し、嬉しそうに石の扉の前で振り返った。芝生の上では、ヴィデがいつものように灰色の外套を被り、寝転がっている。


「……勝手にしろ。だが、あまり遅くなるな。日が落ちると風が冷たくなる。俺の安眠の妨げだ」

「はい、暗くなる前には戻ります」


 ラヴィーネはふふっと微笑むと、港町へと繋がる扉をくぐり抜けた。

 音もなく石の扉が閉じられ、庭園には再び完全な静寂が訪れる。天封の機神メイドが音を立てずに芝生の手入れを行い、子竜サイズに縮んだ蒼波の水竜が極上の微風を送り続ける。端の方では、大賢者オズワルドとその部下たちが、相変わらず無言で雑草と格闘していた。

 ヴィデにとって、何一つ不満のない、完璧に制御された安眠環境であるはずだった。


 ――しかし。


「……チッ」


 扉が閉まってから小一時間が過ぎた頃、ヴィデは忌々しそうに舌打ちをして身をよじった。


 眠れないのだ。


 気温も、風の強さも、芝生の柔らかさも、全てが完璧な数値に調整されている。それなのに、なぜか胸の奥のあたりが、細かい棘でチクチクと刺されているような、得体の知れない不快感に苛まれていた。


「……枕がないからだ。あいつの膝がないと、頭の沈み込みが微妙に合わない。だから首の筋が張って……」


 ヴィデは誰に言い訳をするでもなく呟き、機神が用意した最高級の羽毛クッションを乱暴に殴りつけた。だが、言い訳は自分でも苦しいとわかっていた。彼女が膝枕をしてくれるようになったのはここ最近のことであり、それ以前は冷たい石の床でも平気で熟睡していたのだ。

 苛立ちの正体がわからない。他者に無関心であり、自分に害をなす事象は全て『解いて』きた彼にとって、自分自身の内側から湧き上がる不快感など、かつて経験したことのないエラーだった。

 ヴィデは目を閉じ、不快感の源を探るように自身の意識を研ぎ澄ませた。彼の絶大な感知能力は、空間の繋がりを越え、扉の向こう側――港町にいるラヴィーネの魔力波長を容易く捉えた。


「……ん?」


 ヴィデは僅かに眉をひそめた。

 彼女の魔力波長が、微かに波打っている。恐怖や絶望ではないが、明らかな『困惑』と『緊張』の糸が絡まり合っているのを感じ取ったのだ。それは、彼女の周囲の空間が、複数の人間の思惑によってざわついていることを意味していた。

 普段のヴィデであれば、「人間が群れていれば多少のざわつきは起こる。放っておけばいい」と結論づけるところだ。しかし、今日に限っては違った。


 ラヴィーネの困惑を感じ取った瞬間、ヴィデの胸の奥でチクチクとしていた不快感が、一気に爆発的な『苛立ち』へと変貌したのである。


「……うるさい。空間を波立たせるな」


 ヴィデは外套を跳ね除け、無言で立ち上がった。

 その顔には、大賢者の艦隊を落とした時よりも、上位魔族を消し去った時よりも、遥かに冷たく、底知れぬ凄みが宿っていた。

 水竜が「ヒィッ!?」と短い悲鳴を上げて風を止めたが、ヴィデはそれを咎めることもなく、港町へと繋がる石の扉へ向かって一直線に歩き出した。


 一方、扉の向こう側。活気に満ちた潮騒の港町。ラヴィーネは、市場の片隅で数人の男たちに囲まれ、困り果てていた。

 男たちは身なりの良い地元の若き貴族や、腕に自信のありそうな冒険者たちだった。彼女が身に纏う海絹のドレスの美しさと、何より彼女自身の透き通るような銀髪と青い瞳の輝きは、この粗野な港町においてあまりにも目立ちすぎていたのだ。


「なあ、お嬢さん。こんな所で一人で買い物なんて危ないぜ。俺たちが案内してやるよ」

「それより、向こうの通りに美味い酒を出す店があるんだ。少しだけ付き合ってくれないか? 君のような美しい花が一人でいるなんて、街の男たちの恥だからね」


 男たちは口々に甘い言葉を並べ、強引に彼女の腕を引こうとしていた。ラヴィーネは後ずさりしながら、必死に首を振った。


「結構です。私、急いで戻らなければならないので……」

「そう言わずにさ。少しだけ、本当に少しだけでいいから!」

「そうです、君のような綺麗な人とお近づきになりたいと、心から思っているんですよ!」


 彼らの言葉に悪意はない。ただ純粋な好意と、若さゆえの強引な下心があるだけだ。しかし、十年間を絶対の孤独の中で過ごしてきたラヴィーネにとって、見知らぬ多数の男性から向けられる好意や執着は、恐怖に近い圧迫感があった。

 逃げ道が塞がれ、冒険者の男が無理やり彼女の手首を掴もうと手を伸ばした、その時だった。


「……俺の枕に、気安く触るな」


 男たちの背後から、ひどく冷たく、静かな声が響いた。

 喧騒に満ちた市場のど真ん中であるにも関わらず、その声は信じられないほど明瞭に、周囲の空間を凍りつかせるように響き渡った。

 男たちが驚いて振り返ると、そこには煤けた灰色の外套を羽織った、漆黒の瞳を持つ青年――ヴィデが立っていた。


「ヴィデ……!」


 ラヴィーネの顔に、ぱぁっと安堵の光が広がる。しかし、男たちは突然現れたみすぼらしい青年に、あからさまな不快感を露わにした。


「なんだお前? 俺たちはお嬢さんと楽しく話をしてたんだ。邪魔をするなよ」

「枕だかなんだか知らないが、彼女のような美しい女性に釣り合うのは、君のような貧相な男じゃない。引っ込んでいた方が身のためだぞ」


 男たちはヴィデを囲むようにして威圧的な態度をとった。

 冒険者の男は腰の剣の柄に手をかけ、貴族の若者は軽蔑の視線を送る。彼らは自分たちの力と魅力に自信を持っており、この小汚い青年など敵ではないと信じて疑わなかった。

 だが、ヴィデは彼らの威圧など全く意に介していなかった。彼の漆黒の瞳は、男たちを通り越し、ただラヴィーネの怯えた表情だけを捉えていた。

 そして、男たちがラヴィーネに向けている『好意』『執着心』『下心』といった、目に見えない無数の精神的な糸が、彼女の周囲に絡みつき、息苦しい空間を作り出しているのを視覚的に認識していた。


「……本当に、人間というのは鬱陶しい。勝手に見えない糸を伸ばして、他人の空間を汚す」


 ヴィデは心底不機嫌そうに呟くと、男たちに向かって無造作に右手を突き出した。


「お前らのその薄っぺらい結び目、見ていて反吐が出る」


 ヴィデは指先を、空中で軽く弾いた。


 パチン。


 市場の喧騒にかき消されるような、極めて小さな音。次の瞬間、男たちの動きがピタリと停止した。

 剣の柄に手をかけていた冒険者も、尊大な態度をとっていた貴族の若者も、まるで人形の糸を切られたかのように、ふっと顔から表情を消したのだ。

 ヴィデが『解いた』のは、彼らの武具でも、肉体的な機能でもない。彼らがラヴィーネに向けていた、『好意』と『執着』という感情の結び目そのものだった。

 脳内のシナプスを強制的に編み直され、直前まで抱いていた熱烈な感情を根こそぎ消去された男たちは、ぽかんとした顔で顔を見合わせた。


「あれ……? 俺、なんでこんな所に突っ立ってんだ?」

「さあ……。ていうか、あの銀髪の女、誰だっけ? なんで俺たち、あんなのに声かけてたんだ?」

「わからん。なんか、急にどうでもよくなったな。……酒でも飲みに行くか」


 彼らはラヴィーネへの興味を完全に失い、肩をすくめると、まるで何事もなかったかのように散り散りになって去っていった。

 後に残されたのは、呆然とするラヴィーネと、未だ不機嫌な顔をしたヴィデだけだった。


「……ヴィ、ヴィデ。あの、助けていただいて、ありがとうございます……」


 ラヴィーネが恐る恐る声をかけると、ヴィデは忌々しそうに頭を掻いた。


「助けたわけじゃない。お前が勝手に糸を絡ませられて、空間をざわつかせるから、俺が安眠できなかっただけだ。さっさと帰るぞ」


 ヴィデはそう言うと、ラヴィーネの手首を乱暴に掴み、スタスタと石の扉の方へ向かって歩き出した。

 痛いほどではないが、決して逃がさないという強い意思を感じる力強さ。ラヴィーネは彼に手を引かれながら、戸惑いと、そして胸の奥から湧き上がるどうしようもないほどの喜びに顔を赤らめた。

 彼は「安眠できなかったから」と言う。しかし、彼がわざわざ下界にまで降りてきて、他者の感情すらも無理やり解いてまで自分を連れ戻しに来てくれた事実は、どんな甘い言葉よりも雄弁だった。


「ヴィデ……」

「なんだ」

「……私、あなたに枕にしてもらうの、嫌じゃありません。だから……ずっと、あなたの隣にいますね」

「……当たり前だ。お前がいないと、俺の頭が落ち着かない」


 ヴィデは振り返らず、ぶっきらぼうに答えた。しかし、彼自身はまだ気づいていなかった。世界のあらゆる事象の結び目を容易く解きほぐす彼が、自分の胸の奥に生まれた『嫉妬』という名の結び目だけは、どうしても解くことができずにいるという事実に。

 二人は石の扉をくぐり、再び絶対の静寂が支配する天空の庭園へと帰っていった。世界最強の絶対者が、たった一人の少女という『弱点』を自覚し始めた、静かで決定的な午後だった。


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