第14話 天空の回廊と、切り貼りの箱庭
神々の遺産たる『天封の庭園』アルカディアは、今や世界で最も奇妙で、そして最も平和な空間と化していた。
かつて荒れ狂っていた魔植物は、天封の機神の鋼の翼によって極上の芝生へと均されている。上空では、子犬ほどのサイズに縮められた蒼波の水竜が、主の睡眠を妨げないよう必死に無音の羽ばたきで極上の微風を送り続けていた。
そして、島の外縁部では、大陸最高峰の知を誇る『賢者連盟』の大賢者オズワルドとその部下たちが、無言で、かつ血の滲むような真剣さで雑草を抜き続けている。彼らにとって、この理不尽な主の機嫌を損ねないことこそが、世界を救う唯一の手段なのだ。
その奇妙な箱庭の中心で、ラヴィーネ・イル・フェルマータは、柔らかな芝生の上に座っていた。
彼女の膝の上では、いつものようにヴィデが灰色の外套を被り、規則正しい寝息を立てている。彼が仕立て直してくれた海絹のドレスは、どんなに動いても解れることなく、彼女の体に寄り添っていた。
平和だった。十年間、死の恐怖と冷気の中で生きることを強いられてきた彼女にとって、ここはまさに天国そのものだ。
「……ふふっ」
ラヴィーネは、遠くで大賢者が泥だらけになりながら「この雑草、根が深いぞ……ッ!」と小声で葛藤しているのを見て、思わず小さく吹き出した。
誰も死なず、誰も傷つかない。ただ、ヴィデという圧倒的な存在の『日常』に巻き込まれ、世界の理が少しずつスケールダウンさせられているだけ。
彼女はヴィデの黒髪を優しく撫でながら、ふと、視線を雲海の彼方――遥か下界へと向けた。
眼下には、見渡す限りの白い雲が広がっている。そのさらに下には、国々があり、街があり、人々が暮らす大地があるはずだ。
宵の玻璃国を捨てたことに、微塵の後悔もない。あの冷たい塔に戻りたいとは一度も思わなかった。ただ、自由になってからまだ数日しか経っていない彼女の中には、ほんの僅かな『心残り』のようなものがあった。
常春の水都で彼と歩いた、石畳の感触。行き交う人々の、楽しげなざわめき。屋台で買ってくれた、琥珀色の糖衣がかかった甘く温かい焼き菓子の味。
この天空の庭園は完璧に快適だが、あまりにも静かすぎて、時折、自分が本当に生きているのか不思議になる時がある。ほんの少しだけ、あの暖かな人々の営みの匂いが恋しくなる瞬間があった。
「……また、あの甘いお菓子、食べたいな」
ラヴィーネは誰に聞かせるでもなく、ぽつりと小さく呟いた。
それは、少女としての至極全うな、ささやかすぎる望みだった。もちろん、ヴィデに「街に降りたい」と頼むつもりはない。彼はうるさい場所が嫌いだし、何より、自分の我儘で彼の『完璧な昼寝』を邪魔したくはなかったからだ。
しかし、ラヴィーネが下界を見下ろして小さく息を吐いた、その直後だった。
「……おい」
不機嫌極まりない低い声が、膝の上から響いた。
ヴィデがゆっくりと目を開け、ラヴィーネを下から睨みつけていた。
「ヴィ、ヴィデ。ごめんなさい、起こしてしまいましたか?」
「当たり前だ。お前が下ばかり見ているから、太ももの筋肉が微妙に動いて枕の高さが変わる。それに、微かに息がため息混じりになっているせいで、俺の頭に落ちてくる風の波長が乱れた」
ヴィデは忌々しそうに体を起こし、乱れた髪を掻き毟った。
相変わらずの、常軌を逸した細かすぎる睡眠環境へのこだわりである。
「本当に、ごめんなさい……。私、少し下を見ていただけで……」
「退屈なんだろう。この庭の景色に」
ヴィデの口から出た予想外の言葉に、ラヴィーネは息を呑んだ。
「ち、違います! 私は、あなたと一緒にいられるこの場所が、一番好きです! ただ、ほんの少しだけ……街の匂いや、お菓子の味が、懐かしくなっただけで……」
「同じことだ。お前が退屈して、見えない糸をちまちまと絡ませていると、空間がざわついて俺が安眠できない」
ヴィデは立ち上がると、島の中央にある白亜の神殿――機神が掃除を終え、綺麗に磨き上げられた回廊へと歩き出した。
「ついてこい」
ラヴィーネは慌てて立ち上がり、彼の背中を追った。
神殿の回廊には、かつて神々が使っていたであろう、美しい装飾が施されたいくつもの巨大な石の扉が並んでいた。もちろん、今はどこにも繋がっていない、ただの遺跡の一部だ。
ヴィデはその中の一つの扉の前に立ち止まると、無造作に右手を突き出した。
「お前が下界を見下ろすたびに俺の枕が揺れるのは困る。だが、いちいちうるさい街まで出向いて昼寝の場所を探すのも面倒だ」
彼は扉の表面の『空間』を指先で摘むと、それを引き千切るように横へスライドさせた。
「だから、庭の隅に繋げておく。俺の視界に入らないところで、勝手に息抜きをしてこい」
パチン。
ヴィデの指先から音が鳴ると同時に、重厚な石の扉が、音もなくひとりでに開いた。
ラヴィーネは、扉の向こう側に広がる光景を見て、自分の目を疑った。
神殿の奥の部屋があるはずのそこには、雲海も、遺跡の壁も存在しなかった。
扉の枠組みの向こう側に広がっていたのは、見覚えのある白亜のレンガの街並み。行き交う小舟、そして、香ばしいバターと砂糖の匂い。
常春の水都、ネーヴィス・アルタの大運河沿いの広場が、文字通り扉一枚隔てた向こう側に『存在』していたのだ。
「えっ……? これは、転移の魔術……?」
「違う。空間の布地を切り取って、この扉の枠に直接縫い付けた。つまり、この扉をくぐれば、距離も時間も無視して、ただ『隣の部屋』としてあの街が存在するということだ」
ヴィデは平然と、世界地図の概念を根本から破壊するような真実を口にした。
「こっちの扉は、雪が降っていて静かそうだったから繋げた」
ヴィデが隣の扉を指で弾くと、そこにはしんしんと雪が降り積もる、星空の美しい古都の風景が広がっていた。
「こっちは、潮風の音が悪くなかったから繋いだ。海産物とかいうのもあるらしい」
さらに隣の扉を開けると、今度は活気に満ちた巨大な港町の風景と、潮の香りが流れ込んでくる。
ラヴィーネは、開け放たれた三つの扉の前で、完全に言葉を失っていた。
ヴィデが行ったのは、単なる移動手段の確保ではない。大陸中に点在する美しい街々の『空間の一部分』を物理的に切り取り、この天空の浮遊島にパッチワークのように『接合』してしまったのだ。
世界中どこにいても、彼にとっては扉を一つ開けるだけ。
この神の庭園は、文字通り『世界中のあらゆる場所と直接繋がる、絶対的な箱庭』として完成してしまったのである。
「これでいいだろう」
ヴィデは満足げに頷くと、水都へと繋がる扉を指差した。
「ほら、さっさと行って、あの甘ったるい菓子でも買ってこい。お前が満足して糸を解かないと、俺が気持ちよく寝られない。……それと、俺の分も一つ買ってくるのを忘れるな」
「……ヴィデ」
ラヴィーネの瞳から、大粒の涙がポロポロと溢れ落ちた。
彼は「自分の安眠のためだ」としか言わない。しかし、世界の理をねじ曲げ、空間を切り刻んでまで彼が用意してくれたのは、紛れもなく『彼女が笑顔になれる場所』だった。
かつて、国を守るために命を削り、誰にも見られずに死んでいくはずだった少女。そんな彼女のために、この理不尽な神様は、世界中の美しい景色を、手の届く場所へと集めてくれたのだ。
「……はいっ! すぐに、買ってきます!」
ラヴィーネは涙を拭うと、満面の笑みを浮かべて水都の扉へと駆け出した。
振り返ると、ヴィデはすでに芝生の上に戻り、機神が用意した新しいクッションに頭を沈めようとしているところだった。
「……世話の焼ける奴だ」
ヴィデは小さく呟き、目を閉じた。
他者への徹底的な無関心を貫いてきた彼の中に、自分でも気づかないうちに、たった一つだけ『解きたくない結び目』が生まれ始めている。
彼女が嬉しそうに笑って帰ってくるまでの間、彼は微かな甘い期待と共に、午後の微睡みへと落ちていった。
天空の箱庭は、今日から世界中のあらゆる幸福と繋がり、そして誰にも侵すことのできない絶対の領域として、静かに時を刻み始めたのだった。




