もうひとつの顔、もうひとつの真相(3)
「あんたも、本当にしつこい人ですね。いい加減にしてくださいよ。あんたのせいで、夏帆さんの前に顔出せなくなっちまったじゃないですか。困りますよ、か・が・や・さん」
加賀谷の目の前には、今川勇三……いや、高村獅道が立っていた。顔は昔とは違っているが、醸し出す空気は全く変わっていない。安物のスーツに身を包み、飄々とした態度である。加賀谷を恐れているような雰囲気はない。
そのふざけた態度に、加賀谷は顔を歪めた。
「てめえ、わざわざ俺の前に姿を晒すとは……いい度胸だな」
言いながら、加賀谷はコートのポケットから何かを取り出す。
それは、黒光りする拳銃だった。加賀谷は、その拳銃を片手で構える。
すると、高村は両手を挙げた。アメリカのアクション映画などでよく見られる、ホールドアップの体勢だ。
「ちょっと、そんな物騒な物はしまってくださいよ」
言いながら、いかにも怖がっているような表情を作り下がっていく。もっとも、その目は笑っている。
加賀谷は、ぎりりと奥歯を噛み締めた。出来ることなら、今すぐトリガーを引きたい。ありったけの銃弾を、この人の皮を被った化け物に叩き込んでやりたい。
しかし、彼はその思いを必死で押さえ込んだ。
「おい高村、日本に来て何人殺したんだ? てめえは、人殺しのために日本に来たのか?」
己の感情を押し殺し、低い声で凄んだ。しかし、高村に怯む気配はない。すました表情で口を開く。
「さあて、何のことでしょうね。いい加減なことを言わないでください。名誉毀損で訴えちゃいますよ」
そのふざけた言葉に、加賀谷は目を細める。
「しらばっくれんじゃねえ。光穂由紀、住友顕也、三井博光、新宅彩美、松村伸介……こいつらは皆、お前がここ数日の間に接触した人間だろうが。その五人がなあ、お前と会った直後に行方不明になってんだよ。煙みたいに、この世から消えちまった。これは一体、どういうことなんだ? 頭の悪い俺でも、理解できるような説明をしてくれねえかな」
「いやあ、偶然じゃないですかね。そもそも、彼らは犯罪者みたいな人種でしたし、消えたところで誰も困りませんよ。むしろ、世の中のためになったんじゃないですか?」
「ふざけるなよ! こいつは、遊びじゃねえんだ!」
怒鳴り付けた加賀谷。一方の高村は、やれやれ……とでも言いたげな様子で首を振った。
「あんたは、本当に頭の堅い人ですね。だいたい、僕なんかに構ってる暇があるんですか? 解決すべき事件は、他にいくらでもあるんじゃないですか?」
「ざけんなよ……俺はな、てめえさえ逮捕できればいいんだ。てめえは、今まで何人殺したんだ? 良心てものがないのか?」
「だから、知らないって言ってるじゃないですか。わからない人ですね。でしたら、証拠はあるんですか? 僕が殺人罪を犯したという証拠があるなら、是非とも見せていただきたいものですね」
加賀谷の顔が、さらに歪んだ。拳銃を握る手が、ぶるぶる震えている。
何を思ったか、その手をいったん下ろした。高村を真っすぐな目で見つめ、静かな口調で語り出す。
「証拠だあ? そんなもん、今さら必要ないんだよ。俺にはわかってる。てめえが殺ったんだよ。なあ、いい加減にしろや。お前にだって、島田義人という親友がいたんだろうが。今の汚れきった姿を、島田に見せられるのか? お前の罪を被ったまま死んでいった島田に、申し訳ないと思わないのか?」
この言葉は、加賀谷の最後の賭けであった。彼の知る限り、最凶にして最悪の犯罪者である高村獅道。その高村が日本に来た目的は、島田の犯した事件の真相を知るためだった。つまり、高村にもまだ人間らしい感情が残っているはず。
そこを突けば、さしもの高村も落ちるのではないか……そんな、淡い期待があった。溺れる者が掴む藁よりも、さらに頼りなく脆い物かもしれない。しかし、稀代の凶悪犯である高村獅道が自白する可能性があるとすれば、ここしかないのだ。加賀谷は固唾を飲み、次の言葉を待った。
だが、彼の抱いていた期待はあっさり崩れ去った。
「現役の刑事とは思えない、無茶苦茶な言い分ですね。僕が殺したというなら、その五人の死体はどこにあるんです? まずは、死体を見せてくださいよ。話は、それからです」
高村の表情は、全く変わっていない。その時、加賀谷の中で何かが弾けた。
「とぼけてんじゃねえぞ。全部、てめえが死体を消しちまったんだろうが! 跡形もなく、綺麗さっぱりとな! さっさと吐いちまえ! でないと撃つぞ!」
「つまり、死体はないということですね。死体がなければ、ただの行方不明……この辺の事情は、刑事であるあなたの方が詳しいでしょう。それに、拳銃を突きつけた今の状況で、僕が何を言おうが、脅迫による自白と見なされるでしょうね。この件で、僕を有罪に持ち込むのは無理ですよ」
涼しげな表情で、高村は言い放つ。その余裕の態度を見て、加賀谷の体全体が震え出した。もちろん恐怖のためではない。怒りのためだ。
「やっぱり、てめえは人間じゃねえんだな。観念して罰を受ける……という真っ当な心は、てめえにはひとかけらも残って無いんだな」
「申し訳ないですが、何を言っているのかわからないですね。とりあえず、逮捕状を持って来てくださいよ。話は、それからです」
その言葉を聞いた瞬間、加賀谷はぎりりと奥歯を噛み締めた。
「もういい。俺は、人としてなすべきことをする……この場で、てめえを殺す!」
加賀谷は震える手で、再度拳銃を構える。
この拳銃は、かつて暴力団の事務所から押収し密かに隠しておいたものだ。公的には、存在していないはずの拳銃である。
仮に加賀谷が、警視庁より支給された拳銃で人を殺せば、弾道検査などにより、すぐにバレてしまう。だが、今の加賀谷が構えている拳銃は別だ。これで人を射殺したとしても、足は付かない。
加賀谷には、法にのっとり高村を逮捕する気などなかった。この男は、まぎれもない怪物なのだ。今まで、何人の人間の死に関与しているかわからない。にもかかわらず、平然とした顔でのうのうと生きている。罪を犯したという自覚は微塵もない。罪を償おうという殊勝な気持ちもない。彼にとって、殺人など道端に落ちている石ころを排除する……その程度なのだろう。
たとえるなら、高村獅道は巨大な毒蛾だ。大きな羽根から猛毒の燐紛を撒き散らしながら、悠然と空を飛んでいく。その燐粉を吸った人間は、次々と命を落としていくのだ……もはや、害獣でしかない。
しかも、この男は証拠を残さない。いざとなれば、また海外に逃げるだろう。法に従っていては、この怪物を止めることは出来ないのだ。
ならば、この手で殺すしかない。
その時、予想だにしなかったことが起きる。高村が、笑い出したのだ。くっくっく……という声に、加賀谷は顔を歪める。やはり、こいつは異常だ。そう思った瞬間、高村が顔を上げた。
「あんた、本当に甘いな。殺す気なら、こんなやり取りする前にさっさと撃たなきゃ。あんた、所詮はお巡りなんだね。だいたい、間合い近すぎだよ」
言うと同時に、高村は動いた──
高村は、瞬時に間合いを詰める。と同時に、鞭のようにしなる回し蹴りが放たれた。彼のつま先が稲妻のような速さで、加賀谷の右手首に炸裂する。
その一撃は、バットをもへし折る威力があった。当たった直後、手首の骨が砕ける。さすがの加賀谷も、痛みのあまり顔をしかめた。一瞬遅れて、銃声が轟く。
しかし、その銃口は高村から大きく逸れていた。発射された銃弾は、かすりもせず飛んでいく。
もっとも、加賀谷には状況を理解する暇すらなかった。発砲と同時に、高村の横殴りの掌底打ちが放たれる。その一撃は、加賀谷の顎を捉えた。
加賀谷の脳は、大きく揺れる。どんなに鍛えあげた肉体であろうと、脳震盪を起こさせられたらひとたまりもなかった。全身の力が抜け、その場に崩れ落ちる。
薄れゆく意識の中、彼の耳に声が聞こえてきた。
「駄目だよ、拳銃構える時は両手でなきゃ。まあ、逮捕するのか殺すのか、最初にはっきり決めてなかったのがあんたの甘さだね」
しばらくして、高村の前にひとりの男が姿を現す。
それは、天田士郎であった。作業服を着て、手には軍手をはめている。高村の足元に転がるものを見て、呆れたような顔でかぶりを振った。
「おいおい、またかよ。お前、この短期間に何人殺せば気が済むんだ?」
言いながら、天田は彼に近づいた。地面に転がる黒いビニール袋に包まれたものを、軽々と担ぎ上げる。
それは、死体を収納する袋である。中には、加賀谷巧が入っていた。
「仕方ないじゃないですか。僕は普通に調べてただけなのに、いろんな連中がちょっかい出してきましてね。僕は目立たず、静かに動きたかったのにい」
へらへら笑いながら、高村は頭を下げる。天田は、死体袋をトラックの荷台に積み込んだ。そこには、ボロボロになった家具や汚れた衣類などが大量に詰まれている。一見すると、粗大ゴミ回収業者のトラックにしか見えないだろう。
これから、天田は加賀谷の死体をとある場所へと運ぶ。そこで死体をバラバラに切り刻み、高温の炉で燃やす。死体は、ひとかたまりの灰に変わるのだ。後は、その灰を海にばらまくだけである。そうなれば、どんなに腕のいい刑事をであれ、殺人の証拠を見つけることは出来ない。
加賀谷はこれから、行方不明者のリストに載るだけだ。そして、これは加賀谷だけではない。光穂由紀、住友顕也、三井博光、新宅彩美、松村伸介……彼らもまた、行方不明者として扱われている。彼らは、日本に数万人いるであろう行方不明者のひとりでしかない。
警察は、そんな者たちをいちいち捜したりはしない。
そう、死体さえなければ行方不明なのだ。もっとも今回、死体を始末した天田には、かなりの額を支払うことになったが。
「で、どうなんだ? この結果には、納得できたのか?」
不意に、天田が聞いてきた。
「納得できたか、って、どういうことです?」
「あの事件は、結局のところ全て嘘だった。お前の幼なじみの島田義人は、最低最悪の犯罪者として死んだ。自分のやってない罪を被ってな。お前は、それで納得できるのか?」
その問いに、高村はクスリと笑った。
「構いませんよ。僕は、実際に二人に会ってみて、改めて感じました……義人には、死ぬ間際に家族が出来たんです。夏帆さんや栞ちゃんと一緒にいられた期間は、ほんの数日間でした。でもね、あいつは本当の幸せを知ったんですよ。たぶん、あいつの人生で一番幸せだった瞬間でしょうね。その家族を守るため、義人は喜んで死んでいったんです」
高村の表情は、しみじみとしていた。今さっき、ひとりの刑事を殺し、その死体の始末を天田に頼んでいる……そんな状況とは思えない。
「そんなもんかな」
「ええ。あいつは、幸せな気分で死ねたんですよ。本当に幸せな数日間を過ごせたなら、その直後に死んでもいい……僕だって時々、そんなことを考えますから」
いつになく感傷的な高村の言葉に、天田は苦笑した。
「だったら、その本当に幸せな数日間とやらを過ごし、さっさと死んでくれ。その方が、世のため人のためだ」
そういうと、天田はトラックのドアを開け乗り込もうとした。が、その動きが止まる。
「お前、これからどうするんだ? タイに帰るのか?」
「ええ、そうしますよ。もう、日本にとどまる理由もないですからね。タイで、やり残した仕事もありますから」
「そうか。これで、日本も少しは平和になるな」
その言葉に、高村は苦笑する。天田とて、平和を乱す側の人間なのに。
「何を言ってるんですか。あなたにだけは、言われたくないですよ……あ、そうだ。最後に、ひとつお願いがあります」
「何だ?」
「夏帆さんと栞ちゃんのことを、それとなく見てあげてください。この先、いろいろ大変だと思いますんで。本当は、僕が様子を見ようかと思ってたんですが……あのバカに、正体をバラされちまいましたからね」
・・・
その数時間前。
夏帆は、車をゆっくりと走らせていた。その表情は、既に落ち着きを取り戻している。
刑事の加賀谷から聞いた話は、確かに衝撃的ではあった。しかし、その衝撃も覚めている。そもそも、高村からは危険を感じなかった。なぜか、あの男から危害を加えられることはないだろう……という、確信に近い想いがあった。
それ以前に、彼女にはもっと重大な問題が控えている。今まで、ずっとひとりで悩んでいた。どうすべきか、決断できずにいた。
だが、高村の言葉が、夏帆に心を決めさせたのだ。
夏帆は、ドアを開け家に入って行った。栞は、奥の部屋にいるはずだ。
子供部屋に行くと、栞はクレヨンで絵を描いている。母の帰宅には、まだ気づいていないらしい。画用紙には、三人の男女の姿があった。仲良く手を繋ぎ、笑っている姿が描かれている。うち二人は、夏帆と栞のようだ。
もうひとりの男は、島田義人だろうか……。
夏帆は、未だ癒えぬ悲しみを堪えて近づいて行く。すると、栞は顔を上げた。ニッコリ微笑み、手話で挨拶する。
(おかえりなさい ママ)
夏帆も、手話で言葉を返す。
(ただいま)
彼女は、さらに手話を続ける。
(ママね 今 お医者さんに行ってきたの)
その言葉に、栞はきょとんとした表情で首を傾げる。だが次の瞬間、その瞳が大きく開かれた。
(あなたはね これから おねえさんになるのよ)